唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 遍行における護法の答え(教証) ・ 釈尊伝(73)

2010-08-06 23:41:14 | 心の構造について

 釈尊伝 (73) 自分を縛るもの その(3) 常識の世界

 そういう意味で、老病死という問題は普通は問題にしないものなのです。誰も問題にしないのが常識の世界です。人間は老いてから病いにかかって死ぬものであるというだけならば、普通は問題にしないわけであります。老いるということがあるから養老院をつくるのです。死ぬということがあるから葬式屋ができるのです。それに応じて施設がつくられる。病人があるから医者があり、病院があるということです。人間は病気になり老いることがなかったなら、そんなものは何も必要でないではないかということになってしまう。誰でもみな死ぬのだと、誰でもみな年老いるのだと、そういうのが普通の考えであって、それをどうしてそうならないようになりうるかという問いを発したということは、ある意味で人間の常識では考えられることではないのです。ですから、これはなかなか考えられずにきております。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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   第三能変 遍行における護法の答え・作意について

 「もし爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや」(『述記』) 後半の作意が遍行であるということを証明するにあたり、このような問いが投げかけられているのです。

 「又、契経に説かく。若し根壊せず、境界現前するときは、作意正く起こって、方に能く識を生ずという」(『論』)

 (意訳) 「契経に説かく」という経は中阿含経第七を指しています。『述記』によりますと、中阿含経所収の『像跡喩経』に、「若し、根が壊れず、境界が現れる時は、作意が正しく起こって、よく識が生ずる」という、ことが記述されてあり、作意は、識が生ずる時に必ず存在する心所である、このことによって、作意は遍行であることが証明されるといっています。

 その二の証明は『起盡経』を引用して作意が遍行であることの証明をする。

 「余の経に復言わく、若し此れが於に作意するときに、即ち此れが於に了別す。若し此れが於に了別するときに、即ち此れが於に作意す、是の故に此の二は恒に共に和合す。乃至広く説けり。此れに由って作意も亦是れ遍行なり」(『論』)

 (意訳) また他の経にも、説かれている。「もし、此れ(認識対象を指す)に対し、作意する時には、認識対象に対して了別する。もし認識対象に対して、了別する時には、認識対象に対して作意する。この故に此の了別と作意は恒に共に和合する」そしてこのことは広く説かれている。此の理由に由って作意も遍行であるということがわかるのである。(未完)

8/9 追加

 「経にまた説くが故に、起尽経なり。前の第三巻、第八の遍行のうちに引くがごとし。顕揚論巻第一にも経を引いて、つねに共に和合す等といえり。および(瑜伽論)五十五にもまた四の無色の蘊は恒に和合す等といえり。即ち諸の経論は相乖返せず。相離せず相応するが故に和合と名づく。故に知る。(作意もまた遍行なり)ということを」(『述記』)

 (解説) 『瑜伽論』五十五には、識が生ずる時、どのような遍行とともに起こるのか、という問いに答えて、それは作意・触・受・想・思である、と。そして不遍行の心法は(多種あるけれども、勝れたものとして)欲・勝解・念・三摩地(定)・慧の五である。

 作意(さい)とは能く心を引発する法であり、所縁に於いて心を引くを本質としている。私の関心事に心が引かれるのですね。いろんなことに触れるわけですが、私の認識は私が興味のあること、関心のあることにしか心が引かれません。触れたものすべてに心が引かれるとはいえません。作意が働くところに、同時に自我意識である末那識が働いているのです。作意と触の関係は触があって作意が働くのか、作意が先で触が機能するのかは難しい問題を残していますが、『瑜伽論』五十五では作意が先に説かれています。

 『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立すると云うことになります。三和合の一つの形の三面ということになりましょうか。

 ここでは経を引用して作意が遍行であるという証明をしているのです。先にも述べましたが、私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になり、偏行であるということがわかるのです。

 教を結ぶ

 「此れ等の聖教の誠証一に非ざるなり」(『論』)五遍行であることの教証は一つではない。多数ある、と述べて結論をだしています。