唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 遍行のまとめ ・釈尊伝(78)

2010-08-12 18:06:05 | 心の構造について

001 仏具お磨きの様子です。この後三具足のお飾りをして、同朋奉讃式のお勤めをしました。

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   釈尊伝 (78) 四苦八苦 その(1) 五蘊盛苦

 老病死という意味を申し上げたわけですが、いわゆる四苦八苦というときの四苦です。生の苦・老の苦・病の苦・死の苦、と普通これにさらに四つを加えるわけです。「愛別離苦」、愛するものと別れる苦しみ、それと反対に憎む者と会う苦しみを「怨憎会苦」といいます。それから求めて得ざる苦しみを「求不得苦」といい、身心環境一切を形成する五つの要素が執着されていることからおこる苦しみを「五蘊盛苦」といいます。

 五蘊とは一般にはわからない言葉でありまして、色・受・想・行・識、これを五蘊という。人間のいわゆる対象と主観です。仮にそう申しあげておきます。これはわれわれの主観客観全体を総じて五つの部分に収めるのであります。これが盛んになる苦しみと、盛んになるというとちょっとわかりにくいのですが、盛んになるということがあれば、衰えることもあるのですから、それで苦というのです。色はいわゆるわれわれの身体を色という部分にあてることができましょう。われわれの身体が盛んになる。つまり幼児から青年期にかかけて盛んになります。それは必ずしも普通は苦しみとは、誰も思わないしいわないです。結構なことだというのですが、しかし一方において、それが衰えているということがあるわけであります。どちらかと申しますと、初めの三つ愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦というのが特殊な意識的な苦しみに対して、五蘊盛苦は、それを綜合している苦しみといっていいかと思います。むしろ四苦八苦ということを綜合している意味が、最後の五蘊盛苦だといっていいのではないかと思います。あまり五蘊盛苦について十分に解釈されたものがありませんが、この四苦といい八苦というものを考えてみますと、今申しあげたような意味あいに受け取られるようであります。また五蘊盛苦について適当な解釈がしてあるものがありましたら訂正してください。私の今まで見ました中では十分に納得できるほどの解釈はなく、何か一番しまいが尻切れとんぼのような具合になっているようでありました。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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         第三能変 遍行の心所の結び

 「此れに由って証知す、触等の五の法は、心が起こるときに必ず有り、故に遍行なることを。余の遍行に非ざる義をば、当に至って説かん」(『論』)

 (意訳) 以上に由って、触等の五の法は、心を生起するときには必ず存在することがわかる。故にこれらの五の法が遍行であるということが証明されたのである。以下、遍行以外の心所について説く。これにより『三十頌』第十頌の第一句の頌を説き訖(おわ)る。

 『述記』に「然るに経部等が別に心所あることなしというを破して、故らにこの五は心が起こる時、みな生ずることを顕す」と述べられ、説一切有部等が大地法として挙げている十の心所を破して、遍行と別境に分類をしたことを鮮明に打ち出しているのです。これによって法相唯識が心所の分類において、より精密に・緻密にその哲学を構築していったことが伺え、今日の私たちが心の構造を尋ねるうえでの道しるべになることは間違いのない所です。

 巻三を読みます。「此の五は既に是れ遍行の所摂なるが故に、蔵識とは決定して相応す。其の遍行の相をば後に当に広釈せん。此の触等の五は異熟識と行相異なりと雖も。而も時と・依と同にして所縁と・事と等しきが故に相応と名づく」と結ばれています。

 触・作意・受・想・思、これが五遍行です。これによって認識は成立しているのです。一ついいますと、触の心所は外界と触れる、接触をする心所なのですが、ただ受動的に触れるということはありません、そこには必ず自分の心が能動的に働き触れているわけです。これはすべての心所に共通して言えることです。一つの事柄の両面性ですね。唯識無境といいますが、外界に触れてはいても認識していること自分の心の現れであるということなのです。またいずれ初能変の四分義(相分・見分・自証分・証自証分)において詳しくみていきます。第三能変においても前六識の認識構造は、自分の主観でもってしか認識はできないということを教えているのです。