釈尊伝 (91) 縁起の法 その(6) - 取によって -
取り着くということは、どうしておこるか、なんによってあるかと。おこるでも、生ずるでも同じことで、因果論になりやすいのだけれども、そこに出てきますのが、愛によってあると。愛によって取着がおこり、取着によって有がおこり、有によって生がおこり、生によって老死がおこり、老死によって種々の苦悩がおこると。老死も苦しみですが、老死以外の苦しみもみなおこってくると。こういう表現をとりますが、この表現は、仏陀のさとりの表現であります。
したがって、われわれが聞たところでは、なんらの解決も見い出せないわけです。
- われわれの解釈 -
しかし、仏陀は、ここに解決を見い出した。ここにわれわれをつなぎとめておったところの主、“汝”が見い出されたと。こういわしめるものがあったわけです。つまり自由になったと。本当に主体を得たということです。そういうことがあったという表現であります。
一応、そういう意味で、縁起ということについては、仏陀のさとった立場からの表現に対して、われわれはわれわれの立場からの解釈でありますから、そこに実に大きなひらきがあるということをまず知っておく必要があるのであります。そのひらき、その差別を知ること、これがポイントであります。
それでありますから、五人の比丘に教えられたときには、縁起の教えを説かれたわけではないのです。いつでも一律に縁起の法を説かれたわけではありません。
縁起の法は、なにも老病死といわねばならないことはないのです。これは、われわれの現実におけるあり方をいうのです。主体的にありえないで、どこまでも造られたものとしてしかありえないということを、生老病死ということでいわれたのであります。だから、五人の比丘にも、縁起の法を縁起の法として説かないで、「不苦不楽の中道」とお説きになったと伝えられています。
- 苦行 -
これがこのまま、やはり縁起の法であります。われわれは、言葉がかわると別のことのように思ってしまいますが、「不苦不楽の中道」ということをお説きになったのは、五人の比丘が鹿野苑において苦行を修していたからであります。苦行をやめた釈尊を堕落したとみて、自分たちは、釈尊のように激しい苦行は堕落するから、それで自分たちにふさわしい苦行というものを依然として続けていた。だから今度は、そこに説かれた教えが「不苦不楽の中道」ということであります。苦行はけっして涅槃に至る道ではない。ここでは苦しみによって、苦しみの結果を得るということであります。単なる苦しみです。苦しむということは、苦しむ結果を得るということであります。
それでは、世間の生活、世間でいう快楽は、さとりに至るかというと、世間の快楽は、これまた決して快楽ではない。世間の快楽は、老病死に至る道であると、真の涅槃の楽しみに至る道は、やはり涅槃の楽しみに至るべき道でなくてはならない。それを「中道」というのであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
(解説) 初期仏教の思想的特徴と十二縁起説
「初転法輪」の内容は、三法印(四法印)と四諦の教えであるといわれています。
- 三法印 「諸行無常」・「諸法無我」・「一切皆苦」
- 四法印 三法印に「涅槃寂静」を加えた法の旗印
- 四諦の教え 「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」で四つの真理と教えられています。仏陀の教えの出発点は、人間存在の根幹にある苦の認識です。「形成されて存在するものは、すべて苦をもたらすものである」と阿含経典には、多くの事例を挙げて説かれています。四苦八苦と数えられています。生老病死という四苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦です。苦の認識から出発し(苦諦)、では何故、苦は起こってくるのかという、苦の原因を探るわけです。それは誤解と執着に由るといわれます(集諦)。「人間存在の在り方が苦であるのは、本来的にいって“我でないもの”をあたかも我であると考え、誤解してしまい、しかもそれに執着するわれわれの無知に原因する」と。このように苦の原因を見極めて、人間をふくめてのすべてのもののあり方について、真実相の理解が生まれた時、苦を滅ぼし、苦に打ち勝つことができる。そのような状態をニッバーナ(涅槃)という、これが苦の滅却で、滅道といわれます(滅諦)。そして苦の滅却に至る道として八正道が提示されました。正しい見解(正見)・正しい思惟(正思)・正しいことば(正語)・正し行為(正業)・正しい生活(正命)・正しい努力(正精進)・正しい念(正念)・正しい精神統一(正定)の修道法である。この修道法の正しい実践によって、苦を滅却した平安の境地に到達できる。また、実践法として戒律の実践(戒学)・瞑想による精神統一(定学)・正しい智慧の修養(慧学)の三学として、説かれることもあった。
- 縁起説 縁起とは、「縁って起きる」・「なにかとの関係に依処して、もの・ことが成立している」、あるいは「他との関係が縁となって生起すること。(Aに)縁って(Bが)起こること。現象的存在が相互に依存しあって生じていること、をいう。縁起説はわれわれの現実の生存が老病死などの苦に纏綿されている事実を直視して、このような苦としての人間のあり方が何故現れるのか、その原因を明らかにする。そしてその原因が生まれる根本条件を滅することによって、われわれの苦を滅し、迷いの生存からの離脱を図ることを教える教理です。十二縁起説が、もっとも整備された形式として伝えられています。無明(人生の真実相についての無知・根本無明ともいう) - 行(無知に基づく心身の行為とその潜在的影響力) - 識(認識主観) - 名色(名称と形態をもつもの・対象) - 六入(六種の認識の領域) - 触(認識主観と対象との接触) -受(感受作用) - 愛(欲望) - 取(執着行動) - 有(迷いの存在) -生(出生) - 老死(老いと死をもつ存在)のことで、順観・逆観・並観の三方向の観想を経て、縁起の理法の正しい納得に悟入するとされた。
参考史料 ・ 『インドの思想』 川崎信定著 ・ 仏教
語大辞典(中村 元編)
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第三能変 別境 念について、その(2)
念が、定の依り所であると述べてきましたが、ただ念は善の認識対象を心に明記するときには、定の依り所となるのです。しかし念も三性に通じているわけですので、悪や無記の認識対象をも心に明記するのです。念は善法に関係するものですが、染汚心の場合は失念という、念を失するということです。善の認識対象を心に明記することが出来ないということで、正念を妨げるものとなります。また失念ということは心が散乱していることになりますから、正定を妨げることになります。ですから、失念という念が過去から現在に至るまで明記不忘であるという、この念が迷妄をもたらしてくるのでしょうね。経験や記憶が私にとっての最大の武器になって、人生を構築していますから、清浄意欲も成り立たず、はっきりとした人生の目的も見い出せず、過去からの経験を人生の依り所として、今の私が成り立っているという、偏った見解が、私を支配しているといわざるを得ません。
『泉抄』に次のような問答が出ていました。「問ふ。染汚心の中に分明に誤らずして過去を憶念するは妄念か。正念か。答ふ。妄念の妄は妄(いつわり)なり。忘にあらず。只、染汚心の追憶をば妄念と云ふなり。妄は染汚を顕す。追憶の過失を表するに非らずと云々。此の義の様ならば正しく追憶するとも染汚心ならば妄念と云ふべしと見えたり。若し爾らば「明記を性となす」は必ずしも正念に限るべからず、三性の念に通ずべきか云々」と。
(意訳) 染汚心という汚れた心を以って「明記して忘れず」という過去の記憶を憶念していることは妄念なのか、それとも正念なのか。という問いに答えているのですが、それは不忘ではなく、いつわり、であると。いつわりは染汚をいうのであって、追憶の過失を表すものではない。正しく追憶したとしても、染汚心ならば妄念というのである。よって念は三性に通じていわれるので、必ずしも正念に限るものではない。
次回は「念」の働きについて更に詳しく説明されます。
- 雑感 -
昨日と今日にかけて24時間テレビが「愛は地球を救う」というテーマのもとに、障害を持った人たちが健常者以上にたくましく、そして輝いて、人が人として生きていくあり様は、人とのかけがいのない助け合いの中から生まれてくるのだということを、体全体を通して表現されている姿に心をうたれましたのは私だけではないと思います。夕方になって家内に24時間テレビに行ってみるかということになり、京橋にある松下ツインタワーまででかけました。特設ステージでライブが行われていて、その中で「サライ」を熱唱していたのですね。そうしましたら家内が「迷いながら、いつか帰る、愛の故郷、サクラ吹雪の、サライの空へ、いつか帰る、その時まで、夢はすてない」という歌詞に、ポツリと「故郷に帰りたいね」ともらしました。存在の故郷に帰りたいという、心の本音が出たのですね。私たちの本音は迷いの生存を翻して、真の仏弟子として、浄土に生を願ずる生き方を望んでいるのでしょう。ポツリと出てきた本音に生きる方向性を見たような気がしました。最後に、はるな愛さん、見事にゴールしました。感動をいただきましたね。お見事でした。ありがとう。