唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

仏陀 釈尊伝 (84)

2010-08-19 23:06:05 | 釈尊伝

  釈尊伝 (84)転法輪・梵天の勧請(5) 客体と受けとる

 で、そのさとりを仏陀が説かれるときには、受けとる人びとはこれを客体的にしか受けとれないわけですから、仏陀は法を説くことが無益なことではないぁ。したがってこれを説かずに涅槃に入ろうと考えられたという一つのエピソードが、この菩提樹下のさとりというなかにつたえられています。ここのことは歴史的にも、今日われわれがみている世界においてもうなづける事実でして、仏教のさとりというもの、法というもの、老病死というもの、すべてが客観的な事実として考えられているということ。つまりこの世界にいろいろなことがあるうちの一つとして解釈せられているという、そういう事実です。事実としていかにもとうなづけるのです。

            - この世界 -

 ところがこの世界の主である梵天が勧請したと。この世界といいますのは、今日では宇宙といいますけれども、抽象的な意味においては宇宙ですが、具体的には娑婆世界です。いわゆる娑婆は、堪忍です。耐え忍ばねばばらない世界という意味です。それを娑婆世界といわれています。この世界は娑婆世界といわれる。どこもかしこも、月の世界も火星の世界も娑婆世界といわれる。なぜかといいますと、月の世界には生物はおらなかったということです。火星の世界には生物がおるかもしれない、窒素がたくさんあるということです。そういうことが科学の雑誌などの出ているというと、われわれは宇宙というものにはいろんなものがあると思いますが、しかし一面、そのままが耐え忍ばねばならない世界であるといわれるのです。月に生物がおらないというのは、生きるに耐えられない世界だからです。その世界には人間も耐え忍ぶことができない。地球は耐え忍ぶことのできる世界、しかし公害が増えてくると、これも限界があって、また生きるに耐えられない世界になりつつあるところがあります。そういう意味で、この世界というものを娑婆世界と名づけてきたことは、決して、今日になって意味のなくなったことではありません。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

 この講義録は1971年 東本願寺本廟において開催された青年研修会の筆録ですが、蓬茨先生は、娑婆世界の在り方を鋭くえぐりだされています。「耐え忍ぶことの世界」であると。しかし今夏の猛烈な暑さには耐え忍ぶことが出来ない状況を生み出しています。それもほとんどが人為的なものと言わざるを得ません。そうすれば、この娑婆世界に光り輝いて生きると言う事はどういうことなのでしょうか。またその意味は、なにを指しているのでしょう。「また生きるに耐えられない世界になりつつある」と、今日の世界を見透かしたように指摘されているのですが、この世界を生きるに耐えられない世界にしてもいいのでしょうか。ではどうしたら娑婆世界が娑婆世界とて機能することができるのでしょう。それには「耐え忍ぶことの世界」という自覚と、この世界を成り立たしめている存在は、他でもない私であるという目覚めだと思います。清沢先生の言葉を借りれば、有限の存在は無限につつまれて初めて有限の存在であることが自覚できるという眼差しではないでしょうか。その無限は「無量寿・無量光」といわれる南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞き開くことなのですね。


第三能変 別境・列名釈義門 有部の説を論破す、その(3)

2010-08-18 22:36:14 | 心の構造について

 第三能変 列名釈義門 有部の説との相違を会通する

 「諸法は愛をもって根本と為すと説けるが如し。豈心心所皆愛に由って生ぜんや」(『論』)

 「これは即ち難なり。言く、経にまた(愛をもって)諸法の(根本と為すと説く)。豈、一切の心みな愛に由ってあらんや。もし愛の如く遍く心を生ずるにあらずと言わば、如何ぞ欲をもって諸法の本となすと説くや。・・・」(『述記』)

 本文にある「愛」は貪欲の事を指します。

 (意訳) 先に『中阿含経』を教証として有部は「欲を諸法の根本とする」と主張したが、他の経典には「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれているようなものである。そうであるならば、一切の心は皆、愛という貪欲に由って成り立ってしまう。そうではないであろう、「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれてはいても、諸法が愛に由って生じるのではない。どうして、心・心所が、皆、愛によって生じていようか。そうではないのである。経典にいう愛が心・心所を生じるといった理解ではないからであり、これによって、有部の主張は誤りであることがわかるのである。

 これだけでは、わかりにくいですが、次にその説明が述べられています。此れが二つの部分に分かれ、初めは欲が三性に通じることを説き、後、善の欲(善法欲)を説明する。

 「故に、欲を諸法の本と為すと説けるは、欲に起さるる一切の事業(じごう)を説くことぞ」(『論』)

 「欲を彼の本と為すに由って、三性の法に通じてみな勤あるが故に、この文に由って知る。」(『述記』)

 (意訳) (護法が有部の説くところ、「欲を諸法の本と為す」と云う意味は、すべての存在するものが、欲に由って引き起こされたり、あるいは認識されたりするようなものではなく、欲によって引き起こされるすべての行為(事業)を説くことである。即ち、「一切の事業」・善・悪・無記の三性を含む行為が欲に由って引き起こされるという意味であるのです。欲は三性に通じることをも明らかにされています。

         後、善法欲を説明する

 「或いは説かく、善の欲は能く正勤を発す。彼に由って一切の善事を助成す。故に論に、此れ勤が依たるをもって業と為すと説けり」(『論』)

 「善法欲に由って、能く精進を発す。精進に由るが故に、欲の一切の善事を助成す。此れは即ち欲を説いて諸の善法の本と為るをもって。信を法の本と為すと説けるは但、是れ善因なりというが如し。・・・対法十五に、謂く一切法は欲を根本と為す。乃至、出離を後辺となす等といえり。故に対法・顕揚にみな「勤が依たるをもって業となす」と説けり。よくは三世を縁ず。作意して観ぜんと欲するが故に。ただ未来のみならず、以前の三師の一一において、三世を弁ぜんこと対してしるべし」『述記』)

 (意訳) 或いは、善の欲は、よく正勤(しょうごん)をおこす。これによってすべての善の事業を助成する。それゆえに、『論』に「此れ勤の依たるを以て業と為す」と説かれているのである。

 正勤について - (四正勤ー善への努力)

  1.  律儀断 ー 未だ行っていない悪を行わないように努力あうること。
  2.  断断 ー すでに行ってしまった悪は、それを悔い改めもうニ度としないように心がけ努力すること。
  3.  随護断 - まだ行っていない善事は、実践するように心がけ努力すること。
  4.  修断 - 善が出来ているならば、持続させ、乱れることのないように、少しの善事から大きく広大に、そして円満に増大させることが出来るように努力すること。

 欲が正勤の依り所となるわけですね。以前にも述べましたが、『述記』の記述も仏法の大海に入るには、信を欲の依り所とし、欲を正勤の依り所とする、と述べています。欲が善法因だと。善に向かわしめる入口になるということですね。善に向かわしめるという事は、「現生に涅槃の分を得る」ということに他なりません。「至心・信楽・欲生我国」と説かれていますが、本願の欲生心が私をして浄土に向かわしめる働きに成るのでしょうね。「生まれんの欲え」という頷きが「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず」(真聖 p232 信文類)と、親鸞聖人は、はっきりと言い現わされるわけです。

 

 


第三能変  別境・列名釈義門・有部の説を論破、その(2) ・ 釈尊伝(83)

2010-08-17 23:52:24 | 心の構造について


    釈尊伝 (83) 転法輪 梵天の勧請 その(4) 真理
で、この法という意味は、そういうわれわれの認識、あるいは生活、その他万搬、よろずのことにわたりましてゆきわたって変わらないとこのものであるということでありまして、それを今日の学者は”真理”と、ふつう翻訳しています。しかし、真理というときには、かならずしも具体的に考えるということはできませんので、したがって抽象的な理解にとどまることになります。むしろ仏教において真理といわれるときには、さとりです。さとりというものをうるところの道という意味がありまして、真理にあらざるものはさとりに到らないということに対していわれるのであります。しかし今日いわれる真理は、そういうこととは関係がありません。宇宙の真理だということは、本当のことだというのとたいして変わりがないようであります。いわゆる客体的に考えている時代でありますから、法ということを客体的に、真理と翻訳したといっていいかた思います。
しかしこの法という意味は、そういう真理という意味に限定されるものでなはない。真理ならざるものも法であるという意味があります。つまりわれわれの迷い、迷い苦しむということもやはり法なのです。煩悩というものも法であるといえるのです。その法をさとることによって、われわれは迷いをのぞくことができるというのが、・仏陀のさとりであります。 (つづく) 『仏陀釈尊伝』 蓬茨祖運述より

               - ・ -

    第三能変 有部の説の論破(護法の論破)

 初め有部の説を論破し、後、相違を会通、これは初め。

 「彼が説くこと然らず。心等の、境を取ることは、作意に由るが故なり。諸の聖教に、作意現前して能く識を生ずと説けるが故に。曾て処として、欲に由って能く心心所を生ずと説けることは無きが故に」(『論』)

 「今は破なり。(然らず、心等の境をとることは、作意)の功力いい心心所を警して所縁を取らしむるなり。前にすでに説けるが如し。(聖教に)ただ(作意はよく識を生ず)といって(欲はよく心を生ず)と言わざる(故に)、知る、作意は心等をして境を取らしむ。何ぞ欲を待たんや。(『述記』)

 (意訳) 彼(有部)が説いていることは、正しくない。なぜならば、心等が対象を認識することは、作意に由るからである。諸の聖教に述べられている。「作意が現前して、よく識を生じる」と。また、かって欲に由ってよく心心所を生じると説かれていることはないのである。よって「欲」は遍行ではない。

 心・心所が対象を認識するのは、作意の働きによるのであって、有部が主張するような、欲の働きに由って心・心所が対象を認識するのではない、ということです。ようするに、一切の心・心所の元は作意であって、欲ではないということです。欲は対象に対して希望することが、本質的な働きであって、そのことに由り勤が所依となることは必然的な働きに成る、といわれていました。勤は勤精進といわれますように、欲に由って精進を起すわけです。精進に由って、一切の善の法がもたらされるわけです。(一切の善の法は精進に由って成り立つわけです。)その精進は欲に由って成り立つわけですから、欲によって起される限り、欲が「諸法の本とする」と説かれている、といわれるわけです。 


第三能変 列名釈義門 有部の説を論破す ・ 釈尊伝 (82)

2010-08-16 22:44:10 | 心の構造について

  釈尊伝 (82) 転法輪 : 梵天の勧請 その(2)柳は緑
 禅宗などでは、そういうことを”柳は緑、花は紅”という言葉で表現します。柳は緑という意味は、一年中緑という意味ではないのです。春になると葉を出してくる。秋になれば枯れて落ちるのですけれども、しかし毎年春になって葉を出してくればかならず緑の葉を出してくるということです。花は紅というのは、別に花といったらすべて紅だという意味ではありません。紅い花だといわれるものなのです。それも、かならずしも紅い花が一年中咲いているわけではありません。一年中咲いていたら、それは造花にすぎない。花は咲いたら散るものです。しかし翌年春になるとまた咲いてくるときには、去年咲いたときと同じ紅い花が咲いてくるという、それが毎年、毎年変わらないという意味です。一つの規則のように、花が咲くならば紅い花として咲いてくるという、白い花ならばかならず白い花が咲くということ。それがないと花が植えられないわけです。紅い花の種を蒔いたつもりであったのが、白い花が出てきた。よく朝顔などにはそういうことがあります。朝顔を蒔いてみると、思いもかけない色の花がでてきたりする。これは交配によって変わるからであります。けれども一応、・規則正しく、毎年変わらないものは、柳の葉がでてくるときには緑色の葉となってでてくるという、こういうような意味で、 ”柳は緑、花は紅”ということばでもって、この法という意味を、いいあらわしています。

        ー その(3) そのまま常住 -

 また別の言葉では"花は咲く咲く常住、散る散る常住”という言葉もあります。咲くままが常住、散るままが常住だと。こうなるとすこしわからないです。常住というのはいつも失われないという意味であります。花は散っているのだけれども、花はなくなってしまったのではない。なぜかというと、来年になるとまた咲いてくるということです。花は散ってしまって、影も形もなくなった。見たところはそうだけれども、花は依然としてなくなっておらない。その証拠には、春になるとまた同じような色の花が咲いてくる。こういう意味であります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

              - ・ ー

    第三能変 列名釈義門 有部の説を論破する

 初めに有部の説を挙げる。後に護法が論破する。

 「有るが説かく(有部)、要ず境を希望する力に由って諸の心心所いい方に所縁を取る(有部の主張)、故に(証拠を引く)経に、欲をば諸法の本と為すと説けり」(『論』)

 (意訳) 有部が説くのは、かならず境を希望する力に由って、諸々の心・心所は、所縁(認識対象)を取る(把握する)のである。そのために、経典(中阿含経)に、「欲を諸法の根本とする」と説かれているからである。故に欲は遍行であると、有部はいうのである。

 この主張はよくわかります。納得ができます。何かを求める意思によって、心・心所は対象を認識するわけですから、もし何かを求める意思がなかったならば、すなわち欲がなかったならば、心・心所は対象を認識することはないだろう、どのようにして認識するのであろうか、という主張ですね。だから心王が生起するときには、欲は必ず倶に働く心所であるので遍行であると、いうわけです。その証拠に『中阿含経』を引用して証明します。その言葉は「欲を諸法の本とする」(経説欲為諸法本)というものです。

 ここは『述記』には詳しい説明はありませんが、論破するところで詳しく説明がなされます。問題としては何故『中阿含経』では「欲を諸法の本と為す」といわれているのか、ということです。(安田理深選集 第三巻 p277~p289 を参照してください)

 尚、『倶舎論』大地法の記述は前にも述べましたが、次のように説かれています。

 「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず」

 


第三能変 所楽の境とは何か? ・ 釈尊伝(81)

2010-08-15 13:53:00 | 心の構造について

   釈尊伝 (81) 第三章 転法輪 ・ 梵天の勧請

               その(1) 法

 仏陀のさとられた法 - daharma(ダルマ)です。その意味が、またいいがたい意味をもっております。普遍というような意味です。普くゆきわたるという意味。それから不変、かわらないというような意味です。そういうような意味がありまして、しかもそれが全然変わらないものでは固定したものになりますから、変わるなかにありながら変わらないという表現になるわけです。つまり変わらないところの意義と、それを今度は、保つという意義。失われてしまっては変わらないといえないわけですから、その変わらないという性質を保っておって、しかも人が理解するものでなくてはならないということです。理解しなくては普遍といっても、一向意味のないことになりますから、人がそれを理解する、その理解の仕方は、いわゆる規則、法則というようなそういう理解の仕方になる。人がなるほど変わらないものだという理解の仕方です。そういうような説明をせねばならないわけであります。で、これは説明によってはなかなかわかりませんから、それで、さとる。いわゆる、そのもの自体にぶつかるということが問題になるのであります。そういうことが問題として提供されるわけであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

 今日は、“法” ダルマですが、普遍ということ。“さとる”ということはどういう意味があるのか。仏教学でダルマの意味は緻密に論理的に解明はされているのでしょうが、果たしてその意味が生身で生きている私に響いているのでしょうか。響いている人は何も問題はないのでしょうが、私のようにそれでは、響かないという“私にとって普遍とは”、そのような問題が提起されています。今日は昭和20年8月15日の終戦から65年の節目にあたります。私は終戦直後の生まれで、戦争のむごさ、修羅場はわかりませんが、あの戦争は何であったのか、明治以来戦争を繰り返してきた日本は何を本当の願いとして、多くの若者の命を奪っていったのか、が問われます。憲法9条を守るという必要性は十分頷けるわけですが、アメリカの抑止力の下に9条を守ろうとしているのか、どうかが問われるのです。もし抑止力がなくなっても守る姿勢を貫くことが出来るのか、という問題です。終戦以来日本の平和は沖縄の支えが有って成り立ってきたました。そしてこれからも沖縄にその負担を担がせようとしています。沖縄に負担をもたせ、アメリカの抑止力を背景にした憲法9条を守るということは、本来の意味を喪失しているのでなないかと思はざるをえないのです。人間の欲望渦巻く世界では有事はあるでしょう。丸裸では有事に備えることはできません。世界中にテロリストが横行する中、私は思うのですが、有事に備えざるを得ない人間の愚かさですね。その愚かさに頭が下がり、慙愧心をいただくことが大事なのではないでしょうか。ここが出発点になり、日本から世界に平和のメッセージを送ることが、今、求められているのではないでしょうか。

           - ・ -

  第三能変 別境 欲の対象である所楽の境とな何か

 「三師の解あり。このうちの所説は、第一に総意なり」

  • 第一師 - 可欣(かごん)の境であるという説。    
  • 第二師 - 所求の境であるという説。         
  • 第三師 - 所観の境であるという説。(護法正義)

 第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 可欣の境に対して欲を生じるということを述べる。

 「有義は、所楽とは、謂く可欣の境なり。可欣の事に於て、見聞等を欲すれば、希望有るが故に」(『論』)

 第一師の説が述べられます。安慧の説? (意訳) 所楽というのは、可欣の境である。(可欣の境とは、自分にとって望ましい対象です。)何故ならば、自分の望ましいと思っている事に対して、見聞しようと欲する時に、希望があるからである。

 「その可欣の境とは有漏と無漏となり。可欣の事のうえに方に欲を生ずるなり。これは情の可欣なるに拠るが故に、三性に通ず。ただ無漏にみ実に可欣の法なるに非ず。可欣の事において見んと欲し、聞かんと欲し、覚せんと欲し、知らんと欲す。故に希望あり。」(『述記』)

 欣は'ねがう’という意味でありますから、ねがうべきという意味になります。何を願うのかといいますと、自分の欲するべきことを願うということですね。自分の情に基づいて自分の欲する所に拠るのであるから、可欣の対象には有漏・無漏の両方が有り、また三性に通じるのである、と。有漏とか無漏とか三性に、見ようと欲し、聞こうと欲し、理解(覚・知)しようと欲する、そのために「希望有り」、希望することが生まれてくるという。可欣の反対は可厭ですが、次に出てきます。

          後は問いと答えになります。              

  •  問 「可厭の事に於いては。彼には合せずと希ひ、彼には別離せんと望むるに、豈に欲あるに非ずや」
  •  答 「此れは但、彼には合せずして離れんと求むるに、時には可欣の自体あり。可厭の事には非ず」(『論』)

 「これは外人の問いなり。謂く、苦穢の事等のうえに、未だこれを得ざれば、彼には合せじと希い、すでに之を得れば、彼には別離せんと望む。豈、欲するにはあらずや。可厭の事を縁ずるも欲すでに生ずることを得。如何ぞ、ただ可欣の事にのみ欲を生ずというや」(『述記』)

 (可欣の事だけではなく、可厭の場合にも希望を起すではないか、にもかかわらず、何故に可欣の事のみ欲を起すと云うのか、という問いです。) 外人の問い、といわれていますが、仏教以外の宗教家という人達を指します。

 「論主答して云く、これは可縁の事を縁ぜず。謂く、この欲はただ、かの自の内身の可厭に合せじとする位と、および後に離する位と、もしは外境を欲する此の位とには、即ちこれ可欣の事を縁じて生ずるなり。可厭の事にはあらず」(『述記』)

 (意訳) 問 - 可厭(いとうべきことー嫌なこと、もの)の事に対して、未だ合していないものについては、合しないでおこうと希い、すでに合していることについては、離れないでおこうと希うことは、欲ではないのであろうか。

 答 - これはただ、彼には合しないでおこう、あるいは、離れないでおこうと求める時には、そこには可欣の自体が働いているのみであって、可厭を願うからではないのである。厭うべき時には、必ず可欣の事を縁じて生ずるのである。従って可厭の事ではない。可欣のみを所縁とするのである。

 (解説) 「可欣の自体あり、可厭の事には非ず」を解説します。自分自身が何を欲するのか、しないのかは、自分の欲の心所が求める対象が、自分にとって楽な状態、願わしい状態、求めるべき状態を指しているのです。可欣の自体は自分にとっての最良の状態を願うということですね。それしかないわけです。病気になって病気を厭うのは、病気を願い、求めているわけではないですね。自分を愛するが故に、病苦からの解放を願うわけです。これが元です。可欣の自体のみがあるということですね。自分は何を欲しているのかと云うと、ただ、可欣の事のみを欲しているのであって、可厭ということは成り立たないことになるのです。

    可欣の境に対して欲が起きない場合につては

 「故に、可厭と及び、中容との境においては、一向に欲無し。可欣の事を縁ずるも、若し希望せざれば、亦欲起こること無しと云う」(『論』)

 (意訳) その為に、可厭や中容のものに対しては、一向に欲は起こることがない。よって希望は起こらないと云う。また、可欣の事を認識しても、もし希望しない時には、また欲は起こることはないと云う。

 「可厭の処は即ち六識に通ず。あるいはただ六識のみなり。その中容の境は八識に倶に通ず。全く欲を起さず。彼を欣わざるが故に。可欣の境にあらざるが故に。境は可欣なりといえども、もし希望せざるときには、また欲の起こることなきなり。ただ前六識なり。邪見の滅道を撥するときにも、また欲あることなきが如し」(『述記』)

 これが第一師の説になります。

               - ・ -

  第二師の説 - 所楽は所求の境であると云う説

 「有義は、所楽とは謂く所求(しょぐ)の境なり。可欣厭(かごんおん)の於に合せんと離せんとの等く求むるとき、希望すること有るが故に」(『論』)

 これは第二師の説である。所楽とは、所求の境をいう。可欣に可厭をも含むと云う。「ただ、かの可欣の事を求むるうえに、未だ得ざるものに合せんと欲し、すでに得たるものに離れずと願う。可厭の事において、未だ得ざるものに、合することを得ずと願い、すでに得たるものに別離せんと願う中にみな欲を起すことを得。故に論にはただ「合せん離せん等を求む」というは、不合不離を等取するなり。即ちこの二を縁じてみな欲を生ずることを得るなり。・・・故に体は第一より寛なり。ただ第七識なり。あるいはただ第六識なり。この欲あるが故に」(『述記』)

 (意訳) 第ニ師の説は第一師よりも範囲がひろいです。可欣の境に対しても、可厭の境に対しても欲は起こるといいます。未だ求めて得られないものについては、それを得ようと願い、反対に得ている場合には、それを離さないでいたいと願うというように希望する。可厭の場合は、厭うべきものが有るときは、離そうと願い、無い時には合しないでいたいと願うと云うように希望する。共に欲の対象として広く解釈している。

 「中容の境の於には一向に欲なし、欣厭の事を縁ずれども、若し希求せざるときには、亦欲の起こることなしという」(『論』)

 第一師と第二師に共通していえることは、中容の境に対しては欲は起きないと云う事です。正義は中容のものも、欲の対象になるという立場をとりますので、第一師・第二師の説は不正義ということになります。 『樞要』に「若し資具什物を求希する欲有りと云えり。禾稼(カカ・穀物、穀類の事)等豈に欲なからんや。故に並びに正にあらず」と、即ち資具・什物(日常の生活用具)といったものや、麦や米などといった穀類そのものは、欲の対象にならないのか。資具・什物・穀類そのものは中容であるかもしれないが、自分と関係する時には、中容の境ではなく、自分から見て欲するものであるから、中容のものも欲の対象になるはずであるという立場から批判しています。ただ欲の対象になると可欣の境ということになるので問題は出てきます。それを護法は所楽とは欲観の境であるとして説いています。

                - ・ -

    護法正義を述べる。所楽は欲観の境なり

 「有義は、所楽とは、謂く欲観の境なり。一切の事の於に観察せんと欲するには、希望すること有るが故に。若し観ぜんと欲せずして、因と境との勢に随って任運に縁ずるには、即ち全に欲無し」(『論』)

 欲観の境とは「一切の事のうえに、もしは合し、もしは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり」(『述記』)

 (意訳) 護法の説(正義)は、所楽とは、欲観の境である。可欣も可厭も中容も所楽となりえる。一切の事に対して、観察しようと欲するときには、希望するものであるからである。もし観察しようとは欲しないで、因と境との勢力に随って、任運に認識対象を認識する場合には、そのすべてに欲は無い。

 欲観の境とは、心を作意して境を観じようという欲の対象となる境のこと、といわれます。第七識と第八識の二識と六識の異熟心等の一分は、任運に境を認識するので、欲と倶ではないという。それは「因と境との勢力に随って」ですね。欲が起こらない、といわれます。欲が生じないことがあるので、遍行ではない、ということになります。しかし任運に生じないときは、可欣・可厭・中容のいずれであっても、観察しようとするときには、希望する心の働きである欲が生じるというのです。「見ようとする」とか「聞こうとする」、意欲が生じるときに、よくの心所があるのですね。第七識と第八識、そして、第六識の異熟においては、自然に起こってくる意識なので、欲の心所ではないということです。それで遍行ではなく別境であると。有部の大地法を批判していくわけです。

 「斯の理趣に由って、欲は遍行に非ず」(『論』)と結ばれています。


第三能変 別境 列名釈義門 欲の心所 ・釈尊伝(80)

2010-08-14 12:04:52 | 心の構造について

033_2 夏の猛暑の中、優雅に咲き誇る数輪の花に、生きることの意味が伝わってきます。

              - ・ -                        釈尊伝 (80) 四苦八苦 その(3) 真の解放 

 これなどは いってみますと、怨憎会苦と愛別離苦ということがごちゃごちゃになっているようなものといっていいでしょう。このような特殊な苦しみが一般にいわれる苦しみということに考えられてしまいますから、仏教というものがまた特殊化されてきたといえます。釈尊はそれを特殊化してみたわけではありません。人間の真の解脱、人間の真実の解放は、この生老病死の四苦を離れるということではなくてはならんという表現をとる以外になかったということであります。

 その生老病死の意味は、前にいいました、われわれのの主体性の欠如の悩みとでもいいましょうか。人間は生まれながらにして自由がないと。しかし人間は造られたものとして生きるというときには、厳しい試練を受けて、初めて造られたものとして生きられる。これはキリスト教における考え方になるだろうと思います。その場合、造られたものとして受ける厳しい試練は、いわゆる正義であります。正義ということがシンボルになります。しかしそのような人は実に針の穴をラクダに乗って通るというよりまだ難しいと、キリスト教のバイブルにものべられてあるわけです。われわれが造られたものとして生きているときには、なにか決められた型にはめられなくてはならないわけです。しかし、それが本当に生きるということなのか、そういう問いをおこして、しかもどうすることもできない中から道を求めて、そして人間としての真の解放ということを自覚されたということが仏陀としての名のりであったということであります。

        ー その(4) 仏陀の名のり ー

 その仏陀としての名のりは、果たして、その意味を人々に伝えうるか否かという問題としてでてくるわけであります。これを伝えようとして伝えた言葉は、やはり客体的にとらえて、生老病死という言葉は、一般の老人、病人、死人というようなものに解放せられてきたということがあります。仏陀が成道せられて、つまりさとられて、そのさとりの意義を、果たして人々に伝えることができるかという疑問をおこして、これを伝えることをためらわれたということが仏伝の一節にあります。そのためらいの意義は、現実において、われわれの歴史になっているということでありまして、それにもかかわらず。それをあえて世の中の人々に伝えたのは、梵天の勧請ということが述べられております。梵天の勧請には、どういう意味があるのか、それを考えてみてください。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より・次回より第三章 転法輪にはいります。 梵天の勧請の意味ですね。私が問われているのですね。どう問われているのか考えてみてください。非常に今日的な問いかけであると思います。

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    第三能変 列名釈義門 欲の心所について

 「云何なるをか欲と為す。所楽(しょぎょう)の境の於(うえ)に希望(けもう)するを以って性と為し、勤(ごん)が依たるを以って業と為す」(『論』)

 問いと答えです。この答えについて三つの部分に分けられる。「初めに体と業とを解す。次に前の文を広ず。後に異執を破す。(云何為欲)これは即ち問いなり」(『述記』)

  その(1) 欲の本質的な働きと(性=体)と業とについて

  その(2) 欲の対象である所楽の境とは何かについて

  その(3) 欲を遍行とする有部の説を論破する

 「然も勤が依たることは、この下に説くが如し。および対法の第十等にみな、信を依となし、欲を精進の依となすといえり。即ち仏法に入る次第の依なり。然るに欲はすでに三性に通ず。即ちただ善の欲のみ依となす」(『述記』)

 (意訳) 欲とは願い求める所の対象に対して、希望することを以って、その本質的な働きとし、勤の依り所となることを以って業とする心所である。

 『述記』の記述は仏教に入る次第、順番は信を欲の依り所とし、欲を精進の依り所とすると述べています。勤は精進のことです。同義になります。「仏法の大海はは信をもって能入と為す」、といわれますが、仏法を信ずることから信心獲得を欲しその欲からぐたいてきな精進・聞法が生まれてくるのですね。そして信心の智慧がもたらされるのでしょう。ですから信を欲の依り所とする、ということが大事なのでしょう。そして欲を精進の依り所とするのです。精進は善の心所ですね。ですから善に向かわしめる因と為るのが欲ということになります。「欲はすでに三性に通ず」といわれていますように、善・悪・無記に通じる心所なのですが、注意すべきは「ただ善の欲のみ依となす」ということ、即ち欲が善を推し進める原動力になるということを教えています。「善の欲は能く正勤を発す、彼に由って一切の善事を助成す」といわれるわけです。もう少しまとめてみますと、欲とは「所楽の境に於て」本来求めていること、楽われる対象を希望することが本性であって、そこから勤が出てくる。勤の依となるということ。良遍は「欲ノ心所ト云ハ、善ヲモ悪ヲモ無記ヲモネガイソムル心也」と三性に通ずるといっています。『述記』の記述も三性に通ずると教えていましたように、善にも、悪にも、無記にも動いていくのが欲の心所です。しかし「勤の依たるをもって業となす」といわれるところは、勤は勤精進だということですね。本願の三心でいいますと、私たちが本来求めていること(欲生)、その求めていることが今、決定した(勝解)ことから、至心・信楽が生まれ、その信が聞法(勤精進)に向かわしめ、信心の智慧を生みだしてくると云う事になりますでしょうか。安田理深先生はこのところを「欲・勝解を基礎として信が成り立つのである。『大無量寿経』の三心(至心・信楽・欲生)は、これに照らせば、心理的必然を語っているのである。論理的必然ではない。」(選集三・p275)と語っておられます。考えられたものではなく欲が起こる所に必然としてもたらされる、信心の心理ということがいえるのではないでしょうか。希望することを以って勤の依となる、ということ。ですから、欲とは希望することを直接因(本質的な働き)とし、勤精進を間接的因(二次的な働き)とする心所であるといえます。つまり、欲は勤精進の原動力になるということです。聞法の原動力になるのが欲生心ですね。

 「善の欲は」といわれていましたが、善の欲は善法欲といわれます。「欲を善法欲で語ることによって、仏道や善の達成を希求し、努力を心がけねばばらないこと、そうでなければ精進が生まれない。精進が無ければ善事も解脱も達成できない、精進努力の原動力は、欲、つまり善法欲なのであるということを明示するためであると思われる」と城福雅伸氏は語られていますが、その通りです。また「欲は三性に通ずるから不善の欲には不善の心所(勤)を起す業用がある。然し今は善の欲に約して善の勤即ち精進のみを挙げ、仏法に入るの次第を示す」と花田凌雲先生も述べられています。この間の事情については『述記』に解釈が施されています。その記述は「いま又解す。勤とは勤劬するなり。染法は懈怠なれども勤て諸悪を作すは、またこれ勤なるが故に、無記の事において勤なるに、即ち欲と勝解となり。もし精進というときは、精進はただ善なり。勤は三性に通ず。みな欲を依となす。ただ善の勤のみにあらず。下の文に欲は正勤を起すと説く。前解を勝となす。・・・」と説かれています。即ち精進は善の欲のみを依とする説と、精進はただ善であるが、勤は三性に通じるという説が挙げられていますが、最初の説が勝ると述べているのです。

                           


第三能変 別境について(列名釈義門) ・ 釈尊伝(79)

2010-08-13 23:40:38 | 心の構造について
   釈尊伝 (79) 四苦八苦 その(2) 生苦
 こういう意味で、苦しみということが考えられておりますが、四苦のうちで、初めの生という苦には、必ずしも苦と感ずることは一般にはないわけです。しかし苦を感ぜざるをえない場合に出あうことがあります。人間に生まれなかった方が良かったんだというふうに感ずることがあります。老病死ははっきりと苦しみだと常識的にわかります。普通は生の苦といいますが、これを苦と必ずしもとらないのですけれども。愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦というようなものに出あうと生きていることが苦しみだと感ずるような破目になるわけです。
 昔、「生まれざりせば」という小説がありました。中学時代に借りて読んだことがあります。わたしが中学時代に読みましたのは、漱石全集ぐらいのものでありまして、そういうものを読んだことがありませんでしたので、、内容が大変めずらしかったので覚えているのです。それは母親と妻との間に立って夫が悩むという平凡な問題なのですが、くわしいことは忘れてしまいましたが、最後は母親が若い男と家出をして、そしてどこかで心中するのです。そして本人も自殺する筋書きでした。「生まれざりせば」という題だけを覚えております。少年時代、それに初めてそういう小説なるものを読んだのですから、記憶があります。読んでみましてなにが生まれざりせばかわかりませんでしたけれども、ただ普通のものならば世間話の一つで終わるわけです。なぜ母親が年がいってから若い男と家出して、そうして心中するという、そんなことをしなければならなかったか腑に落ちなかったですが、ある意味でそういうような人間の苦しみがあるのかなあというふうに思ったことがあります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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  第三能変 別境について その概略(列名釈義門)
 『唯識三十頌』 第十頌
 「初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同」
この第十頌は第九頌を受けて述べられていますが、遍行については初能変に詳しく述べているので、ここでは省略し、別境について述べられます。ただ別境についても初能変 巻三にて述べられていますが簡略されていて、第三能変に至って詳しく述べられるているのです。
 別境という意味は、本分と『述記』」から考えてみたいと思います。
 「次に別境とは、謂く、欲より慧に至るまでなり。所縁の境の事。多分不同にして、六位の中に於いて、初めに次いで説くが故に」 (『論』)
 「述して曰く、第一に名を列して別境の義を釈す。第二句の上の三字(次別境)を解す。以下の二字(謂欲)と第三句の全(勝解念定慧)は文に別に解するが如し。第四句(所縁事不同)を釈し、および次の言を解す。別境の名を釈すなり。一一に知るべし。五十五に、所楽と決定と串習げんじゅう)と観察との四境の別なりといえり。つぎに別に五を解す第二に出体なり。体のうちに二あり、初めに別を出す。後に総じて遍行に非ざることをいう。」(『述記』)
 『論』では所縁(認識対象)となる境の体は、それぞれがそれぞれの認識対象が異っているといい、その境は四境の別であると釈しています。所楽・決定(けつじょう)・串習を曾習(ぞうじゅう)・観察を所観の境と記されています。この境が五の別境に配されて述べられます。欲は所楽の境に対し、勝解は決定の境に対し、念は曾習の境に対し、定と慧は所観の境に対して活動するといわれています。
 (意訳) 次の別境とは、つまり、欲から慧に至るまでである。(別境の)認識対象となる境の体は、その多くが同じではなく、認識対象が異っているので別境という。六位の心所の中で、初めの遍行の次に述べられるから次別境といわれるのである。
 尚、「多分不同」という意味は、五の別境がすべて異った境に対して活動するのであれば、不同でいいわけですが、定と慧は同じ認識対象としますから、多くは同じではない、多分不同であると述べられているのです。
 『唯識三十頌』聴記 安田理深先生の多分不同に関する講義を紹介します。(選集第三巻 P274)
 「別境という意味は、「所縁事不同」で語る。「所縁事不同」なるがゆえに、欲・勝解・念・定・慧を別境というのである。所縁事とは境であり、不同とは別々であるということである。 『成唯識論』では「多分不同」と「多分」を補っている。多分というのは、別境の心所は五つあるのであるから、境も五つあらねばならないが、定と慧の境は同じなので「多分」というのである。 
  欲  -  所楽の境(未来の境)
 勝解 -  決定の境(かって定まらなかったものが今、       決定した・・・・・現在の境) 
  念  -  曾習の境(過去にかって経験した境
  定     
    } -  所観の境(三世に通ずる境) 

  慧

 これは五つの作用である。作用は五つ。境は四つなので多分不同というのである。」と教えてくださっています。

 巻三の記述は「欲は所楽の事を希望して転ず。・・・勝解は決定の事を印持して転ず。・・・念は唯曾習の事を明記して転ず。・・・定は能く心をして一境に専注ならしむ。・・・慧は唯徳等の事を簡擇して転ず」といわれています。

 尚、別境についての過去の記述は2009年12月30日より2010年1月4日までに簡略に述べていますので参考にして下さい。ここではもう少し補足をしながら述べたいと思っています。  


第三能変 遍行のまとめ ・釈尊伝(78)

2010-08-12 18:06:05 | 心の構造について

001 仏具お磨きの様子です。この後三具足のお飾りをして、同朋奉讃式のお勤めをしました。

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   釈尊伝 (78) 四苦八苦 その(1) 五蘊盛苦

 老病死という意味を申し上げたわけですが、いわゆる四苦八苦というときの四苦です。生の苦・老の苦・病の苦・死の苦、と普通これにさらに四つを加えるわけです。「愛別離苦」、愛するものと別れる苦しみ、それと反対に憎む者と会う苦しみを「怨憎会苦」といいます。それから求めて得ざる苦しみを「求不得苦」といい、身心環境一切を形成する五つの要素が執着されていることからおこる苦しみを「五蘊盛苦」といいます。

 五蘊とは一般にはわからない言葉でありまして、色・受・想・行・識、これを五蘊という。人間のいわゆる対象と主観です。仮にそう申しあげておきます。これはわれわれの主観客観全体を総じて五つの部分に収めるのであります。これが盛んになる苦しみと、盛んになるというとちょっとわかりにくいのですが、盛んになるということがあれば、衰えることもあるのですから、それで苦というのです。色はいわゆるわれわれの身体を色という部分にあてることができましょう。われわれの身体が盛んになる。つまり幼児から青年期にかかけて盛んになります。それは必ずしも普通は苦しみとは、誰も思わないしいわないです。結構なことだというのですが、しかし一方において、それが衰えているということがあるわけであります。どちらかと申しますと、初めの三つ愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦というのが特殊な意識的な苦しみに対して、五蘊盛苦は、それを綜合している苦しみといっていいかと思います。むしろ四苦八苦ということを綜合している意味が、最後の五蘊盛苦だといっていいのではないかと思います。あまり五蘊盛苦について十分に解釈されたものがありませんが、この四苦といい八苦というものを考えてみますと、今申しあげたような意味あいに受け取られるようであります。また五蘊盛苦について適当な解釈がしてあるものがありましたら訂正してください。私の今まで見ました中では十分に納得できるほどの解釈はなく、何か一番しまいが尻切れとんぼのような具合になっているようでありました。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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         第三能変 遍行の心所の結び

 「此れに由って証知す、触等の五の法は、心が起こるときに必ず有り、故に遍行なることを。余の遍行に非ざる義をば、当に至って説かん」(『論』)

 (意訳) 以上に由って、触等の五の法は、心を生起するときには必ず存在することがわかる。故にこれらの五の法が遍行であるということが証明されたのである。以下、遍行以外の心所について説く。これにより『三十頌』第十頌の第一句の頌を説き訖(おわ)る。

 『述記』に「然るに経部等が別に心所あることなしというを破して、故らにこの五は心が起こる時、みな生ずることを顕す」と述べられ、説一切有部等が大地法として挙げている十の心所を破して、遍行と別境に分類をしたことを鮮明に打ち出しているのです。これによって法相唯識が心所の分類において、より精密に・緻密にその哲学を構築していったことが伺え、今日の私たちが心の構造を尋ねるうえでの道しるべになることは間違いのない所です。

 巻三を読みます。「此の五は既に是れ遍行の所摂なるが故に、蔵識とは決定して相応す。其の遍行の相をば後に当に広釈せん。此の触等の五は異熟識と行相異なりと雖も。而も時と・依と同にして所縁と・事と等しきが故に相応と名づく」と結ばれています。

 触・作意・受・想・思、これが五遍行です。これによって認識は成立しているのです。一ついいますと、触の心所は外界と触れる、接触をする心所なのですが、ただ受動的に触れるということはありません、そこには必ず自分の心が能動的に働き触れているわけです。これはすべての心所に共通して言えることです。一つの事柄の両面性ですね。唯識無境といいますが、外界に触れてはいても認識していること自分の心の現れであるということなのです。またいずれ初能変の四分義(相分・見分・自証分・証自証分)において詳しくみていきます。第三能変においても前六識の認識構造は、自分の主観でもってしか認識はできないということを教えているのです。

 


第三能変 思の心所について ・ 釈尊伝(77)

2010-08-11 14:51:16 | 心の構造について
今日からお盆休みに入りました。お昼から仏具のお磨きをしたいと思っています。私にとっての夏安居です。しっかりと聖典を読み込んでいきたいと思います。
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 釈尊伝 (77) 自分を縛るもの その(7) 輪廻の意味
 ただ考えていただきたいのは、釈尊は老病死を解脱するのだと、あるいは後生の一大事とかいう、この言葉は、みななにか輪廻思想というもの、人間がしんだらまたどこかに生まれて、そこで罪をつくってまたどこかに生まれるのだと、生まれかわりして、いつもかも迷っているのだと。こういう考えをもとにしなければ仏教というものが考えられないということになっております。もしそうであるならば、輪廻思想のないところでは、仏教というものは、これは問題にならないのです。
 ところが、その輪廻思想もなにもなかったところに仏教というものが伝わってきたのです。中国思想にだって輪廻思想はなかったのです。昔は天に帰るとか、地に帰るなんていっておったのですから、人間の心は天に帰ってしまうのだ。身体の方は地に帰ってしまうのだというようなことです。日本だってそんな輪廻思想はなかったです。生きているうちだけのことで死んでしまえば、黄泉路に行くんだぐらいのことです。行ってしまったらそれっきりで、またもどってくるなんて考えなかったです。そういうなにもないところへきて、なぜ仏教が伝わったのか。そして、なぜそれが生きてきたのかということは、つまりどうしてもまぬがれないところの縛られているわが身の状態に、自由のもてない自分に自覚を与えたからです。自分の縛られている状態をもっとも強烈に、本当にどうすることもできないという意味であらわすものが、老病死という用語なのです。
 老病死という表現が自分のおかれている場というものをはっきりあらわした。そしてそこかれの解脱を、そこから解放する道を教えるのが仏陀の教えであるということですから、なにもないところでも、仏陀の教えというものにみんなとびつき、あるいはその教えというものによって解脱を得ようと求めたということであります。その意味が釈尊の釈尊たるところです。仏陀の仏陀たるところ、つまり釈尊が菩提樹下においてさとりをひらいたという意義になるわけでありますので、その点を一つ十分に考えていただきたいと思います。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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     第三能変 思の心所について述べる
 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せ令む。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り」(『論』)
 遍行とは何かについては巻三に詳しく説かれているところです。ここでも巻三の説明を引用しながら歩を進めているわけですが、第三能変においての遍行の解き方は、何故、遍行といえるのかに論旨が委ねられています。
 (意訳) 思は、心に正因(解脱に向かわしめる善業の因)等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時に、此の善等の中の一つは無いことは無いのであって、必ず存在するのであるから、これからもわかるように、心が生起し活動するときには、思は必ず遍して活動するのである。よって思は遍行であるといえる。
 思とは意志のことです。意志決定をするということ。~にたいしてどうするのか、それを決定する心所ですね。巻三の説明をみてみましょう。
 「思と云うは、謂く心をして造作せ令むるを以って性と為し、善品等に於いて心を役するを以って業と為す。謂く能く境の正因等の相を取って、自心を驅役(くやく)して善等を造せ令むるなり」といわれています。
 良遍は「思ノ心所ハ、心ヲ善ニモ悪ニモ無記ニモ作成(つくりなす)ス心也」と簡潔に説明されています。
 仏教大辞典によりますと「心の動機づけの作用。意志の発動。身・語・意の三業をつくる心作用」と説明されています。
 そして思業・思已業という分類がされます。身口意の三業によって私たちの行為は決定されるわけですが、それが思業・思已業に分類されるわけです。思業は意業です。心の中で思っているだけの業で、種々思考することですね。それに対し、思已業は心の中に思っていることが外に現れた業といえます。身体の動作・言語の発動です。また、思業は尋求思・決定思、思已業は動発思であるといわれています。考える事と、様々な行動を起こすことです。
                尋求思
         思業 -{      }-意業(心の行為)
                決定思
                       語業(言葉の行為)
         思已業-動発思 -{
                       身業(身体の行為)
                『成唯識論要講』p342より抜粋
 まず心の行為です。全ての行為の原点になるのが意志です。意業です。意志決定を通じて動発するわけですから、如何に私たちの意志が重要であるかがわかります。
 「正因等の相」とは、『瑜伽論』巻三を引いて解しています。「此の邪と正と倶相違との行業の因相をば思に由って了別すと説けり。謂く邪正等行とは即ち身語業なり。此の行が因は即ち善悪の境なり。・・・」(『述記』)と。
 正因は善業を行わせる因となる認識対象をいう。(行因即境善悪)、邪因は悪業を行わせる因となる認識対象をさします。倶相違は無記の行為です。このように善・悪・無記の行為が意志によって決定されるということが教えられているわけです。意志が人生において如何に大事かが教えられています。悪に赴いていくならば、とことん奈落の底に沈んでしまいますでしょうし、涅槃に向かおうとするならば、そこに生きる事の意味がはっきりと見定められてくるのではないでしょうか。それを親鸞聖人は「往生極楽の道を問いきかんがためなりけり」(『歎異抄』)と見極められたのであろうと思います。
 参考文献 『瑜伽論』巻三の記述
  「即ち此の邪・正・倶相違の行為(ぎょうい)の因の相は思に由って了別す。・・・思は心の造作なり。・・・思は何の業をか作すや。謂く尋伺、身語業等を発起するを業と為す。・・・」
 今から仏具のお磨きをします。勤行をすませ、夕方家族そろってお墓参りに出かけます。
 

第三能変 想の心所について

2010-08-10 23:04:50 | 心の構造について

     第三能変 想の心所について述べる

 想とは、所縁の境に於いて、青・赤・黄・白等の区別の相を取るを本質とし、その所縁の境の上に青・赤・黄・白等の名言を施設することを働きとする、といわれるのですが、名言を施設するとは、名言を安立することであるといわれていますが、わかりにくい説明です。大田久紀師は「あらかじめ、身につけている価値観によって我々はものを見ている。言葉によってそれを分類していく。これは言葉による認識」であると、いわれています。

 「想は能く自境の文斉を安立す、若し心が起こる時に此の想無くんば、境の文斉の相を取ること能わざるべし」(『論』)

 巻三には「想とは境の上に像を取るをもって性と為し、種々の名言を施設するをもって業と為す」(p46)といわれ、良遍は「想ノ心所ハ、殊ニ物ノカタチヲ知リ弁テ、其ノクサグサノ名ヲ説ク也」と説明をしています。

 性は取像、像はかたちです。かたちをとる。対象の上に、外界から入ってきた情報を内なる認識をもって成立させていく。対象が何であるかを知覚する作用を想という。青色だと青色であって赤色ではないというように知る働きです。はっきりと知るときは必ず名言をもってとらえる。言葉を持って対象を把握する。業は名言を起す。言葉に由って理解する、概念化する。内なる知性とか感性によって言葉は生みだされてくるわけですから、言葉によって迷う・苦しむという事も起こってくるわけです。執着を起しますからね。「此の像を取るに由って便ち名言を起して此れは是れ青し等と云うなり。性類衆多なり。故に種々となづく」と、このような働きをする“想”の心所がなかったならば、どのようにして認識作用が起こるのであろうか。想の心所があるから認識作用は起こるのであるから、想は遍行であるということがわかるのである。