第三能変 列名釈義門 有部の説との相違を会通する
「諸法は愛をもって根本と為すと説けるが如し。豈心心所皆愛に由って生ぜんや」(『論』)
「これは即ち難なり。言く、経にまた(愛をもって)諸法の(根本と為すと説く)。豈、一切の心みな愛に由ってあらんや。もし愛の如く遍く心を生ずるにあらずと言わば、如何ぞ欲をもって諸法の本となすと説くや。・・・」(『述記』)
本文にある「愛」は貪欲の事を指します。
(意訳) 先に『中阿含経』を教証として有部は「欲を諸法の根本とする」と主張したが、他の経典には「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれているようなものである。そうであるならば、一切の心は皆、愛という貪欲に由って成り立ってしまう。そうではないであろう、「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれてはいても、諸法が愛に由って生じるのではない。どうして、心・心所が、皆、愛によって生じていようか。そうではないのである。経典にいう愛が心・心所を生じるといった理解ではないからであり、これによって、有部の主張は誤りであることがわかるのである。
これだけでは、わかりにくいですが、次にその説明が述べられています。此れが二つの部分に分かれ、初めは欲が三性に通じることを説き、後、善の欲(善法欲)を説明する。
「故に、欲を諸法の本と為すと説けるは、欲に起さるる一切の事業(じごう)を説くことぞ」(『論』)
「欲を彼の本と為すに由って、三性の法に通じてみな勤あるが故に、この文に由って知る。」(『述記』)
(意訳) (護法が有部の説くところ、「欲を諸法の本と為す」と云う意味は、すべての存在するものが、欲に由って引き起こされたり、あるいは認識されたりするようなものではなく、欲によって引き起こされるすべての行為(事業)を説くことである。即ち、「一切の事業」・善・悪・無記の三性を含む行為が欲に由って引き起こされるという意味であるのです。欲は三性に通じることをも明らかにされています。
後、善法欲を説明する
「或いは説かく、善の欲は能く正勤を発す。彼に由って一切の善事を助成す。故に論に、此れ勤が依たるをもって業と為すと説けり」(『論』)
「善法欲に由って、能く精進を発す。精進に由るが故に、欲の一切の善事を助成す。此れは即ち欲を説いて諸の善法の本と為るをもって。信を法の本と為すと説けるは但、是れ善因なりというが如し。・・・対法十五に、謂く一切法は欲を根本と為す。乃至、出離を後辺となす等といえり。故に対法・顕揚にみな「勤が依たるをもって業となす」と説けり。よくは三世を縁ず。作意して観ぜんと欲するが故に。ただ未来のみならず、以前の三師の一一において、三世を弁ぜんこと対してしるべし」『述記』)
(意訳) 或いは、善の欲は、よく正勤(しょうごん)をおこす。これによってすべての善の事業を助成する。それゆえに、『論』に「此れ勤の依たるを以て業と為す」と説かれているのである。
正勤について - (四正勤ー善への努力)
- 律儀断 ー 未だ行っていない悪を行わないように努力あうること。
- 断断 ー すでに行ってしまった悪は、それを悔い改めもうニ度としないように心がけ努力すること。
- 随護断 - まだ行っていない善事は、実践するように心がけ努力すること。
- 修断 - 善が出来ているならば、持続させ、乱れることのないように、少しの善事から大きく広大に、そして円満に増大させることが出来るように努力すること。
欲が正勤の依り所となるわけですね。以前にも述べましたが、『述記』の記述も仏法の大海に入るには、信を欲の依り所とし、欲を正勤の依り所とする、と述べています。欲が善法因だと。善に向かわしめる入口になるということですね。善に向かわしめるという事は、「現生に涅槃の分を得る」ということに他なりません。「至心・信楽・欲生我国」と説かれていますが、本願の欲生心が私をして浄土に向かわしめる働きに成るのでしょうね。「生まれんの欲え」という頷きが「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず」(真聖 p232 信文類)と、親鸞聖人は、はっきりと言い現わされるわけです。