唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 念 その(3) ・ 釈尊伝(92)

2010-08-30 22:48:07 | 心の構造について

          釈尊伝 (92) 縁起の法  

            - 不苦不楽 ー

 苦因苦果、楽因楽果というのですが、この場合の楽ということは、世間でいう快楽のことではありません。世間の快楽をすてて、苦行を修している者に対しての言葉でありますから、それで苦行は決してさとりに至る道でないのだといえます。それでは、世間の快楽はということに対して、世間の快楽もそうではないのだというので、不楽といわれるのです。で、不苦不楽の中道と。この中道という表現、よくわれわれが考える中道は、どっちつかずのことになってしまいますけれども、これは縁起の法をいうのであります。

 一応こういうわけで、釈尊のさとりは縁起の法として表現せられたが、そういう言葉にくくられるものではないということであります。ですから五人の比丘に最初に説かれるときには、「不苦不楽の中道」ということをお説きになったと。そうして、正しく道を修する、中道を修するというときには、八聖道をお説きになったといわれております。

        - 表現されないもの -

 この不苦不楽の中道ということでなにを注意せねばならないかといいますと、釈尊のさとりは、表現せられた言葉だけでとどまるものでないということであります。

 したがってまた、この不苦不楽の中道ということだけでとどまるものではない。そこに眼を注いだのが、真実に仏の教えというものを行証するという立場でありまして、そこから仏教の歴史が人びとの生活を通じて流れてきたということであります。

 こういう意味で、親鸞の教えた道も同じく、この釈尊のさとりというものを基礎として、生まれてきたといえるのでありまして、別な証拠をもってこなくても、この意義を十分に了解できますならば、そのことが自ら認識されますので、はじめに申し上げましたように、あの歎異抄という短い物語の中にも、その片鱗があらわれているといえるのであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

             - ・ -

 第三能変 別境 念の心所 その(3)業用をさらに説く

 「謂く、数(しばしば)曾(むかし)受けし所の境を憶持して亡失せざら令め、能く定を引くが故に」(『論』)

 (意訳) 念の働きをさらに詳しく説明します。つまり、しばしば、むかし受けた所の認識対象を憶持(記憶して維持すること)して忘れないようにし、よく定を引き起こすからである。

 「重ねて業用を釈す。「曾し受けし所の境」というは、念の中に、或いはすでにかのを受けしことあり。或いは未だ体を得せず、ただかのをうくるなり。無漏を縁ずる染汚心等の如し。即ち近く親取するを、かの体を縁ずとなづく。もし遠く取って着せざるを総じてこの類となづく。他界縁の使等を並びにかの類に摂す。後得智の有漏無漏を縁ずる等は、かの体を念ずとなづく。真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく。無分別智の真如を縁ずる時は、かの体を縁ずとなづく。初起の一念は、かの類を縁ずとなづく。曾受にあらずといえども、曾し(真如の)名を受けしが故に。加行道のうちに、かの観を作せしが故に、名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく。心をして明記せしめ、此れが定を生ずというは多く増せるによるが故なり。定は専注なるが故なり即ちただ善の念が正定を生ずるが故なり。もし散心の念ならば、必ずしも定を生ずるに非ず」(『述記』)

 『述記』には、念は、心に対象を明記せしめて、定を生起するのは、多増(多くは念の力によって増進するという)するからであり、定に専注(せんしゅ)するからであるという。すなわち、善の念が正定を生じるのであって、散心の念は定を生じるものではないという。

 体(境)と類(境)について - 念の対象は、曾習の境です。串習の境ともいいます。「数曾受けし所の境」のことです。この念の境が体境と類境の二つに大別されます。この体境と類境に二通りの考え方があるといわれています。

  1. 直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。
  2. 過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの。

 ここに述べられています体境・類境は私たちの聞法や念仏と大きく関わっている問題が提起されています。『述記』の記述が大きく物語っていますので、意訳を通して考えてみたいと思います。(1)で述べられていますことは、「曾し、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」ということです。すなわち、直接的に経験し認識したこと(体境)がなく、名を聞いた(類境)ことさえないものにおいては、すべてにおいて念はおこらないという。名を聞いた、ということは仏の名号や涅槃等の名を聞くということです。名を聞くということ、聞名です。これが人生のキーワードになるということを教えています。(未完)