唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

別境 勝解 護法の論破 ・ 釈尊伝(88)

2010-08-26 22:24:28 | 心の構造について

   釈尊伝(88) 縁起の法 その(1) 縁起

 菩提樹下の釈尊のさとりの表現は、縁起の法といわれています。縁起は別名を因縁とよびまして、この因縁という場合は、よく因果と間違われますから、それで近代仏教学の表現で縁起というわけです。原始仏教では、主として、縁起とよぶのであります。パーり語などの語源から申しますと、さほど違いもないようにいう人もありますけれども、しかし、それは言葉の上での解釈にもとづくわけでありますから、法という意味からいえば、因果というときには、どうしても時間的に考えられやすいものがありますから、体もまた別ものとなる可能性があります。

            その(2) 因と果

 たとえば、麦の種という場合、種と麦というものは、実際は一つのものでありますが、常識上は、種は麦ではなく、麦になるべきもの、麦は種ではなくして、種が稔ったものと考えられます。そこに、因と果とが体が別ものと考えられてきますが、人間の盲分別といいますか、暗い分別であります。で、今、因果という意味という意味が一体であると。一体の上に、ある意味において因と名づけられ、ある意味において果と名づけられるという立場です。

 そこに因縁といわれ、縁起といわれる意味があるわけです。つまり、因というのも必ずしも永久的ではないわけです。果というのも永久的ではない。果に対して因という意味を持ち、因に対して果という意味を持つ。従って因といっても、その本性は一定でないわけです。つまり、一定でないということは、自由であると。果というのも、その本性は必ずしも一定でない。これといって名づくべきものがないということです。その意義をさとったなら、そうした意義を体得したなら、自ら縛られておった立場からの解放ということが得られるということです。

 その解放せられて立場から、因という意義をみ、果という意義をみるわけです。それを縁起というのであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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  第三能変 別境 ・ 勝解(護法の異義に対する論破)

 昨日の続きになります。解ったようで今一すっきりしないもどかしさを感じています。「大地法」においては、勝解は(欲・念・定・慧も遍行であるという)遍行であるといわれていますが、そうではないのだと、勝解は決定の境に対して、はっきりと何であるのかを認識内容を確定することをもって、その本質的な働きとする、と定義されていますように、自分の方向性が正しく、かつ確定していることをいいます。そうしますと、心心所が生起するときには、必ず勝解が働いているということにはならないですね。ですから有部の異師の説は不障の増上縁(何事をも妨げない縁)にあたるということであるといわれています。

 「勝れて発起するものは根と作意となるが故に」(『論』)

 有部の異師の反論が『述記』に想定され、この異義を護法が論破しているのです。「ただ勝解の増上(勝)力に由るが故に、心等を発起し所礙とならず」(心の生起を障害しないものを勝解といっているのではなく、勝れた力によって、心等を生起させ、障害とはならないことを勝解といっているのである)と。これが異義です。これに対して護法は「勝れて心等を生起させるものは、根と作意であるから、有部の異師が言う増勝力であるという指摘は勝解の働きではない、と論破しています。

 「勝れて発起する因は根とおよび作意との二法の力なり。何ぞ勝解に関せんや」(『述記』)

 また、有部の異師の反論が想定されています。「もし彼が救して、根と作意との自力のみをもって、勝れて諸の心心所を発起することをなす能わず。またこの勝解の力によるが故に、かの根と作意とは方によく発起すと言わば、」(護法の主張している根と作意は、自らの力で諸の心心所を生起させることはできないものであって、勝解の力によって、根と作意に働きかけ、はじめて、根と作意が勝れた力を発揮し、心心所を生起させるのである。これは勝解によるのであるから、勝解は遍行である)と。この異議を再反論するのが次の科段になります。 (未完)


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