唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

別境 (護法の論破) ・ 釈尊伝(89)

2010-08-27 23:18:37 | 心の構造について
 釈尊伝(89) 縁起の法 その(3) 固定される


 で、いまだ解放されない、束縛せられた立場から縁起を考えますと、抽象的になるか、あるいは客体的な解釈になって、固定せられるわけであります。
 仏陀は、そのさとりを縁起と名づけられたのでありまして、われわれは、その縁起という言葉が、仏陀のさとった立場から、名づけられたということを、まず考えておく必要があるわけであります。それをわれわれは、仏陀の教えは縁起の教えであるという。こう解釈して、その解釈がたとえ十分なされましても、さとったことにならないということを、よく認識をしておく必要があるわけでありまして、その認識がないところに、いつまでも仏陀の教えというものにふれられないという、うらみが残るのであります。(つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
 私たちは、仏教といえば、縁起の法であると説明をしますが、それは仏教学を学んで、少しの知識を以って説明しているにすぎないのですね。蓬茨先生はずばりと切りこんでおられます。縁起とは「仏陀のさとった立場から、名づけられた」ということを、まず自分自身に問い返す必要がありそうです。仏教を学んで、何を学んだのか、ということです。「自身は現に」という我が身を問うという姿勢、眼差しが必要なのであることを、教えられています。唯識を学ぶ上でよく“境”という言葉がでてきます。境というときには、境を認識している自己が存在しているのですね。いうなれば、自己において対象が存在しているということになります。自己を抜いて対象は存在しないということが事実なのです。「惑染の凡夫」であるという自己存在の信知を、仏は広大勝解者と讃えられているわけです。この勝解者が真の仏弟子ですね。真の仏弟子の自覚が「何事モヒシト思ヒ定ムル心也」といわれる、別境の心所、勝解になるのですね。「ただ決定の境のみ勝解を起すなり」と。
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   第三能変 別境 勝解について(護法の論破)
 「若し此れに由るが故に彼いい勝れて発起すといわば、此れも復余を待つ応し。便ち無窮の失(とが)有りぬ」(『論』)
 (意訳)もし、勝解によって、根と作意が勝れて心等を引き起こすというのであれば、これ(勝解)もまた、余(他)のものを待つことになる。すなわちどこまでいってもきりのない過失に陥ってしまう。これによって有部の異師の反論は誤りである、ということがわかる。
 有部の異師の再反論の想定は『述記』が述べているところでは、「(護法の主張している)根と作意との自力のみをもって、勝れて諸の心心所を発起することをなす能わず。」というものです。護法の主張している根と作意は、自らの力でもって心心所を生起させることはできないものである、と論破し、根と作意が力を発揮できるのは、勝解の力によるものであって、それによって、心心所が生起するものであるから、勝解は遍行であると再反論していることが、想定されるわけです。その再反論に対しての論破が「若由此故彼勝発起。此応復待余。便有無窮失」になるわけです。唯識は対論形式が多様ですので、ここにもいくつかの問題が提起されていますが、今は省略をしておきます。ただ「勝解」は「決定の境のみ勝解を起すなり」という金言に耳を傾け、「自分の居場所・行き場所をはっきりするということ」が大切ではないかと思います。