唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 起滅分位門 五位無心 滅尽定 (13)

2010-12-16 22:39:05 | 五位無心

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  上の太子 聖徳太子 御廟

 十七条憲法 

  「二つに曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。すなわち四生(よつのうまれ)の終わりの帰(よりどころ)、万(よろず)の国の極めの宗なり。何の世、何の人か、この法を貴(とうと)びずあらん。人、はなはだ悪しきもの鮮(すく)なし。よく教うるときは従う。其れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 

 親鸞聖人は聖徳太子を和国の教主と仰がれ、生涯、太子の恩徳を謝されていました。 今、唯識において五位無心を学んでいますが、このことは自利利他の問題だと思うわけです。そういえば曇鸞は「声聞は自利にして大慈悲を障う」といわれていました。要するに五位における問題は自利のみという、自己中心的な解脱を目指し、そこに執着するということなのでしょう。仏陀は自利利他円満の覚者といわれますね。そうすれば、私の上に自利利他円満するということは、私が仏陀にならなければ成就しないのでしょうか。大乗仏教の旗印である「上求菩提・下化衆生」は名目だけに終わってしまうのでしょうか。そうではありませんね。仏教の歴史は自利利他円満成就する道を模索してきたのではありませんか。親鸞聖人もその課題をもちつづけながら比叡山での修行に二十年の歳月を費やされたのでしょうか。六角堂から上の太子の聖徳太子の御廟に足を運ばれ、三宝に帰することの意味を尋ねられたのではないでしょうか。そして師、法然上人に邂逅されたのですね。「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と『教行信証』の結びに記されています。「本願に帰す」ることにおいてのみ、自利利他円満成就の道があるという感慨を記されたのではないでしょうか。ここに大乗仏教が大乗仏教として成就する道が、すでにして開かれていたことを開示されたのですね。そうとすれば、如来の本願は阿頼耶識と一つのものといえますね。命と共に歩み続けるものが阿頼耶識であり、そこに如来の本願が働き続けているのではないでしょうか。如来の本願は夢物語ではなく、私が生きていることの根底に働き続けている命の事実ではないかと思います。


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