法然上人と吉水草庵
「それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。」(総結三選の文・『定本 親鸞聖人全集』第六巻・p173 ・ 『行巻』真聖p189・『浄土真要鈔』真聖p697)
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分位行相の種類は並存的に一人に並び立つという意味ではなく、修行の階位に応じてその範囲に相違があるということになります。
(一に補特伽羅我見と相応する) - 人我見の末那識といわれますが、特に補特伽羅(ふとがら)と云われる意味は、生死をくりかえす存在、生命的存在を指し、人と限定されないという意味があります。『瑜伽論』巻八十三に「補特伽羅とは、謂く能く数数(しばしば)諸趣(五趣のこと)に往収して厭足(おんそく)すること無きが故なり。」と。
補特伽羅我見と相応する位を説明しますが、ここが二つに分かれ、初は執と相応する末那識の位を説き、後半は所縁の境が説明されます。
「初のは、一切の異生に相続すると、二乗の有学と、七地以前の一類の菩薩との有漏心の位とに通ず。」(『論』第五・六右)
(意訳) 最初に説かれる「補特伽羅我見と相応する」末那識は、すべての異生に相続し、二乗の有学と、七地以前の一類の菩薩との有漏心の位とに通じて存在する。
『述記』にも、人我見と相応するということは、「正しくは補特伽羅と云うは五趣に通じて摂したり。唯、人のみには非ざるが故に」と説明されています。
二に所縁の境が説明されます。
「彼は阿頼耶識を縁じて補特伽羅我見を起こす」(『論』第五・六左)
(意訳) 補特伽羅我見と相応する末那識は、阿頼耶識を縁じて補特伽羅我見を起こすのである。
阿頼耶識を認識対象とし、阿頼耶識を実体的な我であると錯誤して我執を起こしているのです。
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