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「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。」(真聖p724.『御伝鈔』)
ー 末那識・分位行相について ―
第二、法我見と相応する位について
「次のは、一切の異生と声聞と独覚とに相続せると、一切の菩薩の法空智と果との現前せざる位とに通ず。」(『論』第五・六右)
(意訳) 次に法我見と相応する位について説明する。法我見と相応する末那識は、一切の異生と声聞と独覚とに相続するのと、一切の菩薩の中の法空智とその果との現前しない位とに通じて存在するのである。
末那識が滅する状態は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ることなし」と。無漏智が具体的に生起した位です。この位を聖者で、それ以前が凡夫。十地でいえば、七地以前が凡夫で、我執は無始より見道通達位まで存在するといわれています。・八地以上が聖者です。そして無漏智に生空智と法空智の二つがあります。生空智とは人空智ともいわれ、実体としての自己はいないという智慧・我見によって執着するような実体としての自我は存在しないという智慧です。この真理を観ずることを人空観といいます。そしてその智慧をさらにつきつめて、全ては存在しないという智慧に到達したのが法空智といわれています。
「法空智とは、謂く無分別智、法空観に入るの時なり。果と云うは、即ち是れ此の正智が果なり。謂く法空の後得智と及び法空の後得智に依って滅定に入る位となり。無分別智に引起せられたるが故に法空智が果と名づく。此の時に第七識は必ず平等智を起こす。第六の法空心は細なれば、第七の法執、彼の法空智を障えり。法空智起こるが故に平等智生ず。」(『述記』第五末・二左)
法空智とは、無分別智が法空観に入る時をいう。その果とは、この法空智による後得智と、この後得智による滅尽定に入る位を指す。この説明は、法空智と、その後得智と、後得智にによる滅尽定の三つを述べています。そしてこの位には必ず平等性智を起こすと述べられています。「法空智起こるが故に平等智生ず。」といわれる所以です。第六識が人空観を起こすなら、人執は断じられるが、法執は残り、法空智を障える、と。
ですから、法我見と相応する末那識は、上に述べた三つの位を除いた状態が「現前しない位」になるわけですね。すべての異生と二乗と、「一切の菩薩の中で法空智と、その果との現前しない位」の菩薩が執着を起こす位になるのですね。
所縁の境は、「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり」と説かれます。 (所縁の境については次回に述べます。)
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