「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いし 。」(真聖p616・恵信尼消息)
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第三能変 起滅門 滅尽定 (11)
― 滅尽定について、末那識における安慧と護法の対論 ―
「四の位に阿頼耶識無しと説けども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾る応し」(『論』第五・六右)
(意訳) 三乗の無学位と不退の菩薩(四の位)に阿頼耶識は無いと説かれているけれども、阿頼耶識の体が存在しなくなるわけではないようなものである。したがって此処に説かれていることも亦同様のことである。つまり三位に末那識が無いと説かれている場合も、末那識の体が無くなるのではない、と説かれているのである。
『樞要』(巻下本・二十三右)に「護法、末那法執に通ずと立て、諍が中に十有り。」と安慧の説に対しての批判を十に配当して説明しています。「十に総結、会するなり。或いは総じて三に分かつ。一に立理引証(理を立てて証を引く)・二に総結(総じて結す)・三に会違(違いを会す)。初の中に九有り。即ち前の九是れなり。「是の故に定んで有」と云うより下は結なり。言彼無者(彼に無しと言うは)と云うより下は違いを会するなり。」と。
『述記』には九の過失と、「是の故に、定んで無染汚の意有って」と云うより「此れも亦爾なり」を全体をまとめて会通の解釈をおこなっています。
「述曰。故に無染の意あり。上の三の意に於いて亦、恒に現前す。二乗の三の位には、法執の無染あり。菩薩の三の位には、或いは浄無漏の無染心起こる。是れ所応に随って之が差別を思う。迴心向大せるも其の理然なり。
論に三の位に末那無しと説けるは、三乗中何れの乗に随うも染汚の意無しと説くなり。第七識の体無きには非ず。
四の位の不退の菩薩の等に阿頼耶識無しと説くとも、第八識の体無きには非ず。染の名を捨つるが故にというが如し。
故に人執には倶に定んで法執有り。下に自ら更に無漏に亦浄の第七識有りということを解せり。一々、皆『仏地論』(巻第三)に説くが如し。及び『樞要』にも説けり。
諸門分別することは第十(『述記』第十末)に解するが如し。下は唯正義なり」(『述記』第五本・八十八右)
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