無著菩薩像 鎌倉時代 ・ 運慶作
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第三能変 起滅分位門
― 滅尽定における安慧と護法の対論 (2) 護法の正義を述べる ―
三位において末那識の体自体が断じられ無くなるというのが安慧の立場でした。「煩悩障のみと倶なり」と、末那識と倶にあるのは人執のみであり、法執は無いと主張しています。これに対して護法は、そうではない、体は有る、義が無くなるのであると(「三の位には染の義なし、体も亦無と云うにあらず)末那識の染汚性がなくなり、無執の末那を考えるのですね。平等性智に転ずる末那(転識得智)です。末那識が無くなるのではなく、智慧に転ずるのですね。
護法の説は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。「彼が説は教と理とに相違せり。出世の末那をば、経に有りと説けるが故に」(護法は安慧の説は教と理に相違する、出世間(無漏)にも末那識は存在すると経(『解脱経』)に説かれているからである。)これが第一の失で経に違う失といわれています。
第二の失は量に違う失といわれます。
「無染の意識は有染の時の如く定めて倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(無染の第六意識は、有染の時のように、必ず倶生である。それは不共なる所依(第七識)があるはずだからである。)
対象を認識し論証することに相違する過失(量)といわれています。ここは因明の論式(宗・因・喩)をもって説明されています。 (未完)
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