唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 起滅分位門 滅尽定 (10)

2010-12-13 23:10:30 | 五位無心

Imagescanaosbo 

 

親鸞聖人が九歳で得度され二十九歳まで仏道修行をされた、比叡山延暦寺根本中堂彩色図面

      (画像はGoogle 提供)

 「九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿 干時、従四位上前若狭守、後白河上皇近臣、聖人養父 前大僧正 慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿御息、月輪殿長兄 の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまいき。範宴少納言公と号す。自爾以来、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横河の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。」(真聖p724 『御伝鈔』)

 第三能変 起滅分位門 滅尽定 (10)

― 滅尽定について、末那識における安慧と護法の対論 

 安慧の説に対して、九の過失を挙げて護法が批判しています。第三は違瑜伽の失・第四は違顕揚の失・第五は違七八相例の失・第六は四智不斉の失・第七は第八無依の失・第八は二執不均の失・第九は五六非同の失・第十は総結として会通されています。詳細については第二能変の項において述べる事にします。今は第十の全体をまとめての会通を読んでみます。

 「是の故に、定んで無染汙(むぜんま)の意有って、上の三の位に於て恒に起こって現前す。彼には無しと言うは、染の意に依って説けり」(『論』第五・六右)

 (意訳) 以上九の過失を以て安慧の説を批判してきた。この故に、必ず無染汚の末那識が存在し、先に述べた三位(滅尽定・聖道・無漏)において、恒に起こって現前する。論等に末那識が無いというのは、染の意が三位に存在しないということに依って説かれているのである。

 護法は安慧の説を論破して、三位には染汚性が無くなるのであって、末那識の体そのものは残るのである、と。そして無染汚の末那識は存在するという。法執の残っている末那識は存在するというこなのですね。

 「安慧の解釈では、末那は人執に限られている。したがって、凡夫にはむろんあるが、聖者には否定される。しかし護法では、末那にも法執があるというのである。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在するというのである。二乗の無学にも法執が存在するというのである。人執ということは、法執を前提として成り立つのである。人執は必ず法執によるものである。法執は必ずしも人執ではないが、人執は必ず法執を前提とする。護法は、そのように徹底せしめたのであろう。」(『唯識三十頌』聴記・三 p34 安田理深述)

 二乗(声聞・縁覚)は人執は滅しているけれども、法執が残っている末那識が存在する。しかし法執は有っても、二乗の阿羅漢果は得ているので、悟りの智慧は妨げないという、これを無染汚の末那識という。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿