蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

花神

2016年01月01日 | 本の感想
花神(司馬遼太郎 新潮文庫)

私は司馬遼太郎アディクションなので、同じ著書を何度か読んでいることが多いです。本書も通算3回目。

再読して思うのは、読んで面白いとか興味を惹かれる部分が若い頃とは変わってきている、ということです。
昔はクライマックス場面(「花神」であれば石見口での戦いや彰義隊の場面)あたりが良かったのですが、最近は若い頃には退屈に思えた導入部(「花神」だと主人公:村田蔵六が大阪で勉強する場面など)が面白く感じられたのです。適塾でのガリ勉ぶり(蔵六本人のみならず、当時の知識層の勉学への猛烈な意欲)が特に興味深く思えました。

ほとんどすべての人が感じることだと思うのですが、教科書で学んでも実務に役立つことはほとんどなく、実務をしつつ学び、学びながら実務をすることで知識や技術が身についていきます。例えば法律の勉強を重ねて司法試験をパスしてもそれだけでは有能な弁護士になれないように。しかし、稀にそういった鍛錬というプロセスを経なくても簡単に熟練者のようなパフォーマンスをあげることができる人がいます。そういう人を天才と呼びます。
軍事はただ一人の天才がすべての指揮を執る時に成功する、という旨の著者の意見が何度か出てくるのですが、本書を読む限り、蔵六はまさに軍事の天才といえましょう。なぜなら、兵士や軍人としての実地的体験が皆無で、洋書を読み込んだ知識だけで維新期の指揮官として多くの戦いを一方的な勝利に導いたのですから。もっとも、当時の日本が徳川300年の泰平を経て軍事的知識・経験が極端に低いレベルにあったことがこうした成功の要因の幾分かを占めているのも確かでしょうが。

そして、天才の常として、変人である点でも蔵六はひけは取りません。特に強調されるのが、酒を好むが肴はいつも豆腐のみである点。それなりの客が来ても出すのは豆腐のみ、なんてことが多かったらしいです。あとは書画収集が趣味で、しょっちゅう骨董屋をひやかすのですが一両以上の品は決して買わなかったとか。

冒頭に述べたように、昔読んだ時は軍事的天才としての蔵六にしびれたものでしたが、年齢を経た今では、変人としての蔵六を描いた場面を何度も読み返してしまいます。


以下は余談です。

天才は本人すら気づかないうちに埋もれてしまうことが多いと思います。
というか、本人はなかなか気づけないので天才を見出す人の存在が肝要なのですが、本書によると蔵六の天才を発掘したのは木戸孝允でした。
本書では木戸に関する記述量もけっこう多くて、特に印象に残ったのは、(慶喜助命の根回しのために)各藩の藩主を祇園で接待した場面。祇園を知り尽くし(遊び尽くし)た木戸のもてなしの趣向に(遊び慣れていない)殿様たちはいたく感動した、というエピソードでした。

現代に例えると、
「総選挙で政権奪取した若き党首は、テロで何度も死にそうになりながらも生き抜いた経歴をもち、イケメンでスポーツ万能(木戸は剣豪並の腕前)で、奥さんは芸能界を代表する人気者(木戸の妻は祇園のNO.1)だったのに今では家庭にはいって彼を支える。でも彼は今でも夜の街の超人気者」
みたいな人だった、ということですよね。かっこいい。


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