蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

データの見えざる手

2018年07月24日 | 本の感想
データの見えざる手(矢野和男 草思社)

著者は日立製作所の研究所で、ウエラブル機器の開発やそれによって得られたビッグデータの解析をしている研究者。

手首に装着する腕時計型や首にかけるカード型のセンサで事務職の人の活動を調べたところ、人が一日に活動できる量には(人によって総量は異なるものの)ほぼ一定であることがわかったという。

(これは別の学者の説→)幸福感(を得られるか否か)は、半分くらいは遺伝的なものだが、残りは(家庭・仕事環境や資産の多寡など(こうしたものにはすぐ人は慣れてしまう)ではなく、「日々の行動のちょっとした習慣や行動の選択の仕方によるというのだ。特に、自分から積極的に行動を起こしたかどうかが重要なのだ。自らの意図を持って何かを行うことで、人は幸福感を得る」という。
そしてこうした行動による幸福感は加速度センサを備えたカード型センサで計測できる、というのが著者の主張だが、ちょっと強引かも。

本書は、2014年に出版されているが、ビッグデータやAIの活用については、3年後のちょうど今(2018年)世間で言われているようなことを先取りしていると思う。
例えば次のような点(以下引用)

「従来、データの分析(アナリティクス)は、演繹の特異なコンピュータを使って分析者が行ってきた。このような分析ができる専門家は「データサイエンティスト」と呼ばれ、現在もっとも注目される新たな職種の一つと期待されている。
しかし、そこには大きな問題があった。データ分析は、本来「帰納的」な仕事である。しかし、その「帰納的」な仕事に、「演繹用」に作られたコンピュータを使わざるを得ない。このギャップを埋めるために、データ分析では、人が適切な「仮説」を設定しなければいけないのだ。実際に人は適切な仮説を設定できるだろうか」

「仮説を作ってそれを検証することは、問題解決のための正しい手順である。しかし、ビッグデータが存在する問題では、その仮説を作るのは人ではない。コンピュータが仮説を作ることにこそビッグデータの価値があるのだ。人が仮説を作るという、固定観念を捨てる必要がある。(中略)大量のデータの全貌を人間が理解することは不可能だ。全貌どころか、その概要すら把握できないのがビッグデータの特徴なのだ。その状態で、人がつくった仮説とは、必然的に、大量データの恩恵を受けていない(無視した)経験と勘に頼ったものになってしまう。多種大量のデータがある問題については、仮説はコンピュータにつくらせる時代になっているのだ」

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