蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

翔ぶが如く(六~十)

2014年08月30日 | 本の感想
翔ぶが如く(六~十)(司馬遼太郎 文春文庫)

白兵戦レベルの細かさで描かれた田原坂あたりまでの戦記は迫力満点で、「坂の上の雲」とならんで戦争描写の白眉といえる素晴らしさだった。

西郷隆盛自身が(自分の考えを述べたような)文書がほとんどないことは、(作者が恨めしく感じていることがわかるほど)作品中でもたびたび触れられている。
そういう時は自由に西郷のキャラや思想を想像(創造)して作品にする、というのが普通の作家の方法なのではないかと思う。
しかし、作者は、西郷自身からの視点から描くことをできるだけ避けて、あたかも著者が西郷その人になって、彼の視点からその周辺の人達や事件をんがめて描写するような方法を選んだように思える。

一つ例をあげると、
西南戦争が始まるまでは西郷と不離の関係だった桐野利秋は、六巻あたりまでは非常に魅力的な人物として描かれていたのに、戦争が始まったころから西郷に疎まれるようになた途端、単細胞的テロリストがごとき描写になってしまう。

このため、西郷については、終始(西南戦争の指導者としては無能だった点も含め)批判的な見方は感じられない。
(余談だが、この反対に、前線の指揮官として登場する乃木は、軍人としては徹底的に無能者として描かれる。「坂の上の雲」でも乃木への視線は厳しかったが、本作では(「何か乃木さんに恨みでも?」と尋ねたいほど)さらに厳しい扱いだったと思う。)

精鋭ぞろいの薩軍は、
西郷を神のようにまつりあげ、
戦略を立案する機能がなく場当たり的な戦闘に終始し、
兵站を軽視し、
最新の兵器の利用に消極的で、
局地的な勝利しかあげることができなかった。

一方の鎮台(陸軍)は、
個々の兵士の能力は劣悪ながらも、
敵の背後に上陸して第二戦線を築く等巧みな戦争指揮をし、
戦力や物量を十分に蓄積して圧倒的な優位を確信できるまで戦おうとせず、
戦争の中盤からは薩軍を圧倒する。

こうした生い立ちを持つ日本陸軍なのに、後にはまさに薩軍のような軍隊に変貌してしまったのは、なんとも不思議なことだ。

作中で、その原因の一端が述べられている。
●この頃は戦況不利とみて退却したり、敵の捕虜になることは、それほど不名誉とは思われていなかった。捕虜になったら敵方に協力するのが、それほど不名誉なこととは思われてなかった。捕虜になったら敵方に協力するのは当たり前とされていて、秘密が敵方に筒抜けだった。このため、以後、軍隊内では、敵の捕虜になることは許されないという教育がなされた。
●当時、兵器は単なる道具と見られており、退却時に戦場に置き去りにしても問題視されなかった。ために薩軍にこれらの兵器が利用されることが多かった。この反省からか日論戦争頃から兵器は賜物として、時には人間よりも尊重されるようになった。
●薩軍は、戊申戦争を通して、自らの精強さに過剰な自信を持っていた。逆に鎮台兵は「百姓兵」という自覚があるので数的優位がないと戦おうとしなかった。後の日本陸軍も致命的な敗北を経験しなかったためにやがて過信が生じた。

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