蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

オスマン帝国500年の平和

2009年05月24日 | 本の感想
オスマン帝国500年の平和(林 佳世子 講談社)

14世紀から19世紀まで約500年間に渡ってバルカン半島から中東地域まで広大な領土を支配した帝国の略史。

歴史の教科書などでは、オスマン朝トルコなどと呼ばれることが多いが、実際この王朝が最初に栄えたのはバルカンであり、その後アナトリア(小アジア)に進出して領土を拡大していったのであり、またトルコ人が支配階級の多くを占めていたわけでもない。著者は、従ってこの王朝は「オスマン帝国」と呼ばれるべき、とする。

私も、オスマン朝の第一の栄光期はメフメト二世によるコンスタンティノープル占拠の時だというイメージを持っていた。そのため、その当時、領土の半分以上はバルカン半島にあり、アナトリア地方の半分程度しか領有していなかったというのは意外であった(コンスタンティノープルを陥落させてからバルカン半島に進出したという誤ったイメージを持っていた)。
また、イスラム教が最初から国家運営の根本原理だったわけではなくて、スレイマン大帝の前のスルタン、セリム一世がエジプトやアラビア半島に遠征し、イスラム教の聖地を占拠したことで、同教の守護者として自他ともに認めるところとなったあたりから始まったことらしい。
遠征に明け暮れていたセリム一世が、エジプトにはなぜか長期滞在し、その文化の影響を受けたようだ、というのも興味深い。著者も指摘するように古来エジプトには英雄を魅了する何かがあるらしい。

オスマン帝国が500年の長寿を維持できたのには、著者が挙げるだけでも様々な要因がある。その中で特に印象に残ったのは、次の点。

①キリスト教、ユダヤ教といった異教徒すらもイスラム法の下に保護し、権利を認め(て活用し)ようという寛容さ。現代における、バルカン~アラブ地域の民族間の絶え間ない争いと比較する時、この支配原理は一段と輝くように思える。

②帝国の周辺部は、極力直接支配せず属国化することで、外敵に対するクッション役としていたこと。近代にいたって西欧列強が周辺各地を実効支配する時代になっても帝国の中核部分は生き延び続けた。

③緻密で堅固な官僚機構。中国の清王朝やオスマン朝は、鈍重な官僚支配が滅ぼした、みたいなイメージがあるのだけれど、スルタンがハレムの奥深くひっこんでしまった平和な時代には、巨大で法に支配された官僚機構が帝国をながらえさせる大きな要因となった。
(オスマン朝においては、各種の法的・行政的指示はすべからく文書を持って行われたそうで、莫大な書記官僚が必要とされたそうである。一方で科学技術は当時の世界最先端にあったらしく、このような社会においては印刷技術が発展しそうなのだが、イスラム教においては宗教的なテキストは手写しされてこそ意味があるとされていたそうで、あまり発達しなかった、という話が、一方西欧では聖書を大量発行するために活版印刷が活躍したことと考え合わせると、面白かった。)
コメント
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