10月6日付け投稿「犯罪と社会の関係」には基本的に賛同いたします。
特に秋葉原事件(過去にも労働環境の悪化が背景にあった大量殺人はあったが、この事件は因果関係が明瞭である。)などの犯罪動向や、家族間の殺人事件の増加動向に、経団連の代表者が無関心というのは、本当に拝金主義の経営者であり、視野狭窄と思われる。
私は法学の研究を20年くらい続けているが、日本の刑事法学者で「犯罪と社会との関係」を広い視野から研究し著書を書いている人は極稀で、多分、一橋大学名誉教授の村井敏邦氏だけかもしれない。
この学者は岩波書店から「刑法」を出しているが、教授は現在の刑法になった経緯として近代の市民革命を掲げ、その時期の代表的な著書としてチェザーレ・ベッカリアの「犯罪と刑罰」を挙げる。
ベッカリアはその著書の中で、市民革命の前の絶対王政つまりアンシャンレジームと言われた時代こそいかなる犯罪が刑罰を科される犯罪であるか明確にされておらず、それらの犯罪は国王:権力者の「恣意的な」判断で犯罪とされ刑罰を課されていたという。ベッカリアはこの時代に生きた人でもあり、市民革命期に生きながらえてこの著書を書いたのである。
こうした刑法の生きた歴史を過度に抽象化して、ドイツ観念論の刑法的な展開に成り果てた19世紀のドイツ刑法学を継承してなんら変わることなき日本の戦後刑法学は、「犯罪と社会」という視野を過度に軽視している。
その証拠に、小泉改革の過程で出現した「共謀罪」というアンシャンレジームでもなかなか出現しなかった暗黒時代の象徴とも言うべき法案にも、彼ら大学の教員連中はきちんと批判あるいは反対表明も出来ず、相変わらずドイツ刑法学すなわち解釈学的な論理構成に余念がないのである。
そうした大学を背景にして、御手洗発言が脳天気に出てくるのではないだろうか。
「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
名無しの探偵
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賛同のコメントを有り難うございます。時の為政者(経済界も含め)は自分が行政している社会ですから、その中で発生する犯罪を社会と関連づけることは、その行政の非を認めることになり、なかなか出来ることではないと思います。
次に日本の裁判官は、時の政権に人事権を押さえられているようなものですから、それが分かっていても社会=行政を批判できず、社会と犯罪の問題まで踏み込めないのではないかと思われます。
大学教授はもっと自由に研究発表出来るような気がしますが、やはり少数派なのでしょうか。小生は「犯罪と社会の関係」について読んだか講演で聴いたかはっきり覚えていませんが、40年以上前に刑法学者の佐伯 千仭氏(さえき ちひろ、男性、1907年12月11日 - 2006年9月1日)ではなかったかと記憶しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%8D%83%E4%BB%AD
以来人間は社会の中で生き、生かされている以上、良い面も悪い面も社会の影響を受けざるを得ない状況にあり、仮に殺人犯と同じ境遇に置かれて育ったとすれば、自分もそうならない保障はないように思ったりしたものです。
例えば国家による全体主義教育も一つの目的化された社会環境に人を置いて教育するわけですが、皆が天皇陛下万歳!ハイル・ヒットラー!と叫んで戦争に参加する心理状態にさせられるのと同じように、人間同じ社会環境に置かれれば、同じ心理状態に成る確率が高くなるのではないでしょうか。
亀井金融大臣の「経団連が家族間殺人罪を発生させやすい環境を作り出している」の発言は、それを言いたかったのではないでしょうか。亀井氏は警察官僚出身だけにそれなりの自負を持って記者会見でそのような話をしたのだと思います。
「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
厚顔の美少年
特に秋葉原事件(過去にも労働環境の悪化が背景にあった大量殺人はあったが、この事件は因果関係が明瞭である。)などの犯罪動向や、家族間の殺人事件の増加動向に、経団連の代表者が無関心というのは、本当に拝金主義の経営者であり、視野狭窄と思われる。
私は法学の研究を20年くらい続けているが、日本の刑事法学者で「犯罪と社会との関係」を広い視野から研究し著書を書いている人は極稀で、多分、一橋大学名誉教授の村井敏邦氏だけかもしれない。
この学者は岩波書店から「刑法」を出しているが、教授は現在の刑法になった経緯として近代の市民革命を掲げ、その時期の代表的な著書としてチェザーレ・ベッカリアの「犯罪と刑罰」を挙げる。
ベッカリアはその著書の中で、市民革命の前の絶対王政つまりアンシャンレジームと言われた時代こそいかなる犯罪が刑罰を科される犯罪であるか明確にされておらず、それらの犯罪は国王:権力者の「恣意的な」判断で犯罪とされ刑罰を課されていたという。ベッカリアはこの時代に生きた人でもあり、市民革命期に生きながらえてこの著書を書いたのである。
こうした刑法の生きた歴史を過度に抽象化して、ドイツ観念論の刑法的な展開に成り果てた19世紀のドイツ刑法学を継承してなんら変わることなき日本の戦後刑法学は、「犯罪と社会」という視野を過度に軽視している。
その証拠に、小泉改革の過程で出現した「共謀罪」というアンシャンレジームでもなかなか出現しなかった暗黒時代の象徴とも言うべき法案にも、彼ら大学の教員連中はきちんと批判あるいは反対表明も出来ず、相変わらずドイツ刑法学すなわち解釈学的な論理構成に余念がないのである。
そうした大学を背景にして、御手洗発言が脳天気に出てくるのではないだろうか。
「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
名無しの探偵
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賛同のコメントを有り難うございます。時の為政者(経済界も含め)は自分が行政している社会ですから、その中で発生する犯罪を社会と関連づけることは、その行政の非を認めることになり、なかなか出来ることではないと思います。
次に日本の裁判官は、時の政権に人事権を押さえられているようなものですから、それが分かっていても社会=行政を批判できず、社会と犯罪の問題まで踏み込めないのではないかと思われます。
大学教授はもっと自由に研究発表出来るような気がしますが、やはり少数派なのでしょうか。小生は「犯罪と社会の関係」について読んだか講演で聴いたかはっきり覚えていませんが、40年以上前に刑法学者の佐伯 千仭氏(さえき ちひろ、男性、1907年12月11日 - 2006年9月1日)ではなかったかと記憶しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%8D%83%E4%BB%AD
以来人間は社会の中で生き、生かされている以上、良い面も悪い面も社会の影響を受けざるを得ない状況にあり、仮に殺人犯と同じ境遇に置かれて育ったとすれば、自分もそうならない保障はないように思ったりしたものです。
例えば国家による全体主義教育も一つの目的化された社会環境に人を置いて教育するわけですが、皆が天皇陛下万歳!ハイル・ヒットラー!と叫んで戦争に参加する心理状態にさせられるのと同じように、人間同じ社会環境に置かれれば、同じ心理状態に成る確率が高くなるのではないでしょうか。
亀井金融大臣の「経団連が家族間殺人罪を発生させやすい環境を作り出している」の発言は、それを言いたかったのではないでしょうか。亀井氏は警察官僚出身だけにそれなりの自負を持って記者会見でそのような話をしたのだと思います。
「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
厚顔の美少年