作詞家なかにし礼が死んだ。82歳だった。
わたしは、なかにし礼は作詞家では、阿久悠と双璧だと高く評価している。
なかにし礼と阿久悠の違いは、二人の戦争体験の違いにある。この違いから、阿久悠は「瀬戸内少年団」を書き、なかにし礼は「赤い月」を書いた。
なかにし礼の出世作は、【恋のハレルヤ】。黛ジュンが歌いヒットした。
ハレルヤ 花が散っても
ハレルヤ 風のせいじゃない
ハレルヤ 沈む夕陽は 止められない
・・・ https://www.youtube.com/watch?v=cBF7v8lfsg0
なかにしが「ハレルヤ」と書いた時、彼の脳裏にあったのは、大連の青い空と海だった。なかにしによれば、「僕の歌は戦争体験の記録だ」そうだ。
そういえば、「沈む夕陽は止められない」と書いている。満州経験のある人に聞くと、誰しもが「赤い夕陽」が忘れられないと言う。なかにし礼が満州に住んでいたのは8歳まで。子供心に地平線に沈む赤い夕陽の景色が心に刻み込まれたのだろう。
この歌が出たのは1967年。戦後すぐの貧しさからようやく脱し、高度成長経済のとば口に差し掛かったころである。
わたしは黛ジュンという歌手をよく覚えている。ボーイッシュな髪と小太りの身体。スカートはミニ。見るからに健康そうな足でリズムに乗った軽快な歌を歌っていた。
彼女は、間違いなく戦後が表現した世界の明るさを体現していた。おそらくなかにし礼は、意図して戦後世界が具現化してほしい「希望」の松明を黛ジュンに託したのだと思う。これが、なかにしが8歳まで住んでいた満州の日本人世界が持っていた一種の明るさにつながっていたのだろう。
なかにし礼は引揚者。敗戦以降の満州の荒野をさまよいながら、人間世界の地獄絵図を見てきた。引揚者にとって、日本と朝鮮・満州を隔てる対馬海峡は、絶望的に遠かった。
日本の戦後も地獄だったが、植民地が崩壊した朝鮮や満州の開拓民や移住者の地獄とは比較にならない。彼らは、一夜にして自分自身の存在やアイデンティティが根こそぎ崩壊したのである。
しかも、自分たちを守ってくれるはずの役人も軍隊も見事に消え失せ、身一つの裸のままで放り出されたのである。文字通りの棄民になったのである。
彼らは、国がなくなる悲哀と地獄を自らの体で味合わざるを得なかった。満州や朝鮮の人々が一夜にして豹変し、全てが、植民地に入植した日本人の【敵】に変貌したのである。
この恐怖は、本土の日本人には想像もできないものだったろう。朝鮮や満州の引揚者たちは、カフカの【城】の世界を現実に体験したのである。
対馬海峡を隔てた満州や朝鮮と日本の人々の間には、その人間観においても、越すに越されぬ隔たりが生まれたのである。
この体験が人間を変えないわけがない。小説家五木寛之などもその一人である。わたしは、五木寛之などの引揚者たちの複眼的思考を【海峡の思想】となずけている。なかにし礼もその体現者だったと言わざるを得ない。
なかにしによれば、弘田三枝子の「人形の家」も満州経験から書いたそうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=rEEax0Nd4L8
“顔をみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/信じられない・・・・(中略)・・・
愛されて捨てられて/わたしは あなたに 命を預けた“
なかにしは、この歌詞は国に見捨てられた旧満州の日本人の絶望を詠んだものだと言う。
それに比べれば、阿久悠の戦後は違う。「瀬戸内少年野球団」の若い女教師や少年たちの野球に打ち込む姿は、明らかに戦後という新しい時代をもっと明るく表現していた。
★六三制 野球ばかりが強くなり!
そう揶揄された戦後の子供たちの姿が見事に表現されていた。かく言うわたしも、野球以外の競技はスポーツでないくらい野球が好きだった。
この違いがなかにし礼と阿久悠の歌の世界の違いだろう。
なかにし礼の歌が、【昭和という時代への愛と恨みの歌】とすれば、阿久悠の歌は【昭和という時代への愛と喜びの歌】なのかもしれない。
コロナに明け暮れたこの一年。この国の本質は、旧満州の地獄絵図を招いた戦前の国の姿と、さほど変わっていないのかもしれない。
“わたしは あなたに 命を預けた”のは良いが、“愛されて 捨てられて”の結果を招きかねないのが、この国の本質だろう。
こういう国の本質をズバリ切り捨ててくれる詩人がまた一人鬼籍に入った。心から冥福を祈りたいと思う。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
わたしは、なかにし礼は作詞家では、阿久悠と双璧だと高く評価している。
なかにし礼と阿久悠の違いは、二人の戦争体験の違いにある。この違いから、阿久悠は「瀬戸内少年団」を書き、なかにし礼は「赤い月」を書いた。
なかにし礼の出世作は、【恋のハレルヤ】。黛ジュンが歌いヒットした。
ハレルヤ 花が散っても
ハレルヤ 風のせいじゃない
ハレルヤ 沈む夕陽は 止められない
・・・ https://www.youtube.com/watch?v=cBF7v8lfsg0
なかにしが「ハレルヤ」と書いた時、彼の脳裏にあったのは、大連の青い空と海だった。なかにしによれば、「僕の歌は戦争体験の記録だ」そうだ。
そういえば、「沈む夕陽は止められない」と書いている。満州経験のある人に聞くと、誰しもが「赤い夕陽」が忘れられないと言う。なかにし礼が満州に住んでいたのは8歳まで。子供心に地平線に沈む赤い夕陽の景色が心に刻み込まれたのだろう。
この歌が出たのは1967年。戦後すぐの貧しさからようやく脱し、高度成長経済のとば口に差し掛かったころである。
わたしは黛ジュンという歌手をよく覚えている。ボーイッシュな髪と小太りの身体。スカートはミニ。見るからに健康そうな足でリズムに乗った軽快な歌を歌っていた。
彼女は、間違いなく戦後が表現した世界の明るさを体現していた。おそらくなかにし礼は、意図して戦後世界が具現化してほしい「希望」の松明を黛ジュンに託したのだと思う。これが、なかにしが8歳まで住んでいた満州の日本人世界が持っていた一種の明るさにつながっていたのだろう。
なかにし礼は引揚者。敗戦以降の満州の荒野をさまよいながら、人間世界の地獄絵図を見てきた。引揚者にとって、日本と朝鮮・満州を隔てる対馬海峡は、絶望的に遠かった。
日本の戦後も地獄だったが、植民地が崩壊した朝鮮や満州の開拓民や移住者の地獄とは比較にならない。彼らは、一夜にして自分自身の存在やアイデンティティが根こそぎ崩壊したのである。
しかも、自分たちを守ってくれるはずの役人も軍隊も見事に消え失せ、身一つの裸のままで放り出されたのである。文字通りの棄民になったのである。
彼らは、国がなくなる悲哀と地獄を自らの体で味合わざるを得なかった。満州や朝鮮の人々が一夜にして豹変し、全てが、植民地に入植した日本人の【敵】に変貌したのである。
この恐怖は、本土の日本人には想像もできないものだったろう。朝鮮や満州の引揚者たちは、カフカの【城】の世界を現実に体験したのである。
対馬海峡を隔てた満州や朝鮮と日本の人々の間には、その人間観においても、越すに越されぬ隔たりが生まれたのである。
この体験が人間を変えないわけがない。小説家五木寛之などもその一人である。わたしは、五木寛之などの引揚者たちの複眼的思考を【海峡の思想】となずけている。なかにし礼もその体現者だったと言わざるを得ない。
なかにしによれば、弘田三枝子の「人形の家」も満州経験から書いたそうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=rEEax0Nd4L8
“顔をみたくないほど/あなたに嫌われるなんて/信じられない・・・・(中略)・・・
愛されて捨てられて/わたしは あなたに 命を預けた“
なかにしは、この歌詞は国に見捨てられた旧満州の日本人の絶望を詠んだものだと言う。
それに比べれば、阿久悠の戦後は違う。「瀬戸内少年野球団」の若い女教師や少年たちの野球に打ち込む姿は、明らかに戦後という新しい時代をもっと明るく表現していた。
★六三制 野球ばかりが強くなり!
そう揶揄された戦後の子供たちの姿が見事に表現されていた。かく言うわたしも、野球以外の競技はスポーツでないくらい野球が好きだった。
この違いがなかにし礼と阿久悠の歌の世界の違いだろう。
なかにし礼の歌が、【昭和という時代への愛と恨みの歌】とすれば、阿久悠の歌は【昭和という時代への愛と喜びの歌】なのかもしれない。
コロナに明け暮れたこの一年。この国の本質は、旧満州の地獄絵図を招いた戦前の国の姿と、さほど変わっていないのかもしれない。
“わたしは あなたに 命を預けた”のは良いが、“愛されて 捨てられて”の結果を招きかねないのが、この国の本質だろう。
こういう国の本質をズバリ切り捨ててくれる詩人がまた一人鬼籍に入った。心から冥福を祈りたいと思う。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
