千葉の菊さんの書き込みに塩見鮮一郎という懐かしい名前があり、しばらくの間、青春時代の思い出にふけりました。
「貧民の帝都」の著者、塩見鮮一郎氏は、わたしの大学の先輩です。ドイツ文学専攻でしたが、大学時代より小説や評論を発表し、わたしの大学では有名人でした。
彼は野間宏に評価されていたようです。当時、野間宏は新日本文学を活躍の舞台にしており、のちに塩見氏もそこを活躍の舞台にしていました。
わたしとは年齢も学年も違っていたので、あまり詳しくは知らないのですが、学生時代、彼の友達に連れられて、下宿を訪ねたことがあります。強く印象に残ったのは、布団の敷いてある場所を除き、全て本で埋まっていたことです。文字通り、うず高く積まれた本の中で寝起きをしていました。本は重いので、家の床が持たないと、二度三度下宿を追い出されたようです。
話はとにかく難しかった。若いときはどうしても衒学的になりがちですが、彼の話は衒学的などと言うレベルではなく、古今東西の哲学者・文学者の話、映画・音楽・美術など多岐にわたっており、わたしは話の半分も理解できませんでした。とにもかくにも、知識の凄さと読書量に圧倒された記憶が鮮明に残っています。
卒業後、河出書房新社に就職。その後、作家として活躍しています。わたしの読んだ限りでは、「浅草弾左衛門」が彼の代表作ではないかと思います。
彼は、被差別民や被差別を題材として選び、芸能民・社会政策・江戸・東京の都市史を中心に書いていたようです。その表現などを巡って何度か解放同盟とも揉めています。
浅草弾左衛門も車善七もいわゆる「」の頭です。小説の題材としてそういう存在に目をつける、という点に、大学時代からの塩見先輩の反体制思考が色濃く表れています。
余談はこの程度にして、本題に入ります。
わたしは、渋沢栄一の経済思想については、それほど詳しくはないのですが、彼の経済行動の奥底には、人間に対する愛情と国家に対する真摯な思いがあったと評価しています。
近江商人に【三方よし】という教えがあります。「他人(ひと)によし 自分によし 世間によし」というものです。
商売するときには、まず物を買ってくれるお客(他人)様の満足を第一に考えなければならない。だから、売る商品の品質は最高のものにしなければならない。その為の努力を惜しんではならない。そして、商品の価格は、お客様が買い求めやすい価格でなければならない。その為の企業努力も惜しんではならない。
そうは言っても自分自身が損ばかりしては、長続きしない。だから、お客様が満足してくれた後、いくばくかの利が自分に入らなければならない。
そして、その利が大きくなると、自分を生かしてくれている世間様にお返しをしなければならない。そうする事によって、世間様も良くなり、人々も喜び、ひいては、それが自分に返ってくる。商売と言うものは、世間があっての商売であり、決して自分だけのものではない。
これが近江商人の教えです。倫理と言っても良いものです。
わたしは渋沢栄一の経済思想は、この近江商人の考え方に近いのではないか、と考えています。
彼は、埼玉県の豪農出身(養蚕農家)です。コメ農家と違い、養蚕農家は算勘(計算)ができなくてはいけません。彼は14歳ごろから一人で藍葉を仕入れる仕事をしていたそうで、後年、彼の経済への明るさ(合理主義)は、その出自にあると思います。
同時に、彼は四書五経などを学び、剣術の神道無念流を学んでいます。
田舎に住んでいると良く分かるのですが、当時の豪農層(庄屋など)は、世相に大変敏感で、向上心も旺盛。それなりの学問もあり、見識も優れた人物が多かったのです。
例えば、わたしの勤務した中学校に頼山陽の書がありました。頼山陽がその土地の庄屋屋敷に宿泊し、その時揮毫した書だと言われていました。その庄屋の子孫がPTA会長になり、寄贈したものだと言われていました。
この庄屋は大変な文化人だったようで、頼山陽をはじめ、幕末の知識人がよく宿泊していたそうです。瀬戸内海沿岸の町々には、この種の話が多く転がっています。
特に有名なのが広島県の鞆(とも)です。わたしも何度か訪れましたが、海運の街なのに、文化的遺産が溢れた素晴らしい街です。例えば、おひな様ひとつとっても、元禄享保雛から始まって各時代の有名なお雛様を飾っている商家がありました。とても庶民では手が出ない品物です。それだけ裕福でそれだけ文化的で目も肥えていたのでしょう。
彼らは、このように一流の知識人から多くの物事を学び、見識を広めたのです。だから、幕府政治の行き詰まりも肌で感じ取っていて、日本の将来を真剣に考えていたのです。
渋沢栄一も同じように豪農で文化的素養も十分あり、剣術もできたのですから、養蚕農家で一生を終えるのを潔しとしなかったのも頷けます。
特に江戸に出て神田お玉が池の千葉道場に入門してから大きく変わったと思います。幕末の千葉道場は、若者を刺激するには十分な環境だったのです。千葉道場は、坂本龍馬が学んだことで有名ですが、勤皇思想を信奉する若者が多く集まっていました。
江戸末期という時代は、そういう流動性に富んだ時代だったのです。
栄一は、そこで群馬の高崎城を乗っ取る計画を実行しようとして、説得され、断念していますが、類が親族に及ぶことを恐れた父親により、勘当されます。
その後、京都に出かけたのですが、8・18の政変以降、京都での攘夷派の活動が鈍くなっていました。そこで親交のあった一橋家の家臣平岡円四郎の紹介で一橋慶喜に仕えたのです。
新選組の土方歳三もそうでしたが、農民あがりの武士たちは、先祖以来の武士階級より武士らしく振る舞いました。理由は簡単です。彼らの頭の中の『武士像』に忠実であろうとしたからです。
渋沢栄一も例外ではありません。彼は最後まで徳川慶喜に忠節を尽くしました。それだけの能力もありました。特に慶喜が将軍になった時に、1867年パリ万博に行った事が、後の彼の人生に大きく影響しました。
巷間、薩長藩閥政治が明治維新政府を成功させたかのように言われていますが、詳細に見るとそうとばかりは言えません。国家を運営するには、実務を担当する有能な官僚が必要なのです。口で天下国家を叫べば事足りるものではないのです。大言壮語するだけで国が動けばそんな簡単な事はありません。国家経営というのは、実務であり、具体性そのものなのです。
当時、こういう能力の持ち主は、江戸幕府の家臣に勝る人間はいないと言っても良いのです。だから、徳川幕府の有能な人材の多くは、維新政府に仕えたのです。
渋沢栄一も彼の才能を高く評価していた大隈重信に推挙され、大蔵省に勤務したのです。
そういう幕臣の就職の世話を一手に引き受けていたのが、勝海舟です。政権を返上した幕府の家臣というのは、現在で言う失業者。できれば、新しい就職口を見つけたいというのは人情。当然ながら、幕府の政権返上を考えた勝海舟などには、その就職の斡旋をする義務があります。彼の日記には、その事が詳しく書かれています。
つまり、明治政府の国家統治の実務的側面を引き受けたのは、薩長ではなく、幕府やその他の藩の有能な官僚たちだったのです。そうでなければ、人材不足で、明治政府はうまく回らなかったのです。
歴史家磯田道央の『武士の家計簿』「加賀藩御算学者」の幕末維新(新潮新書)の主人公が明治維新政府に仕えたのも、如何に実務的力量のある人間を維新政府が必要としていたかを示しているのです。この場合の実務的能力とは、算勘の才なのです。武士の才能としては、それほど高く評価されなかった才能です。薩摩藩士の才能にはあまりないものなのです。
西郷隆盛の西南戦争も、このように官僚国家になりつつあった明治政府内で居場所を失いつつあった薩摩の武士層の不満のはけ口の側面が大きかったのです。
渋沢栄一の実業界での業績は様々な文献で紹介されているので省略しますが、一言で言えば、近代的契約社会のやり方を日本に根付かせた先駆的人物だったのだと思います。
名無しの探偵さんが、秩父困民党事件の研究成果を分かりやすくまとめてくださっていますので、それを引用させてもらいます。
・・・「明治維新後、民法の改正(こういう名称ではないが)で江戸時代の法慣習(実は慣習というのは現在も重要だと民法に規定されている)が変わり、土地(農地が多かった)を担保にして借金をした場合、すべて期限までに返却しないと土地を競売処分にされることになった。
「近代的所有権」などと進歩的な名称で官僚や学者は絶賛するが、江戸時代には期限を限らず、いくらでも待ってくれたというのが「慣習法」だったのである。
おそらく、このエポック(明治17年の裁判以後)がなければ秩父事件はなかったはずで、明治時代は国民が路頭に迷う時代の幕開けだったのである(明治中期)。」・・・
(明治維新=国民が路頭に迷う時代のはじまり)
https://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken
第一銀行を設立し、日本の銀行の父となった渋沢栄一には、名無しの探偵さんのような問題意識はなかったはずです。探偵さんの指摘される『慣習法』のあいまいさを非合理的として排除しなければ、世界標準に遅れるという発想ではなかったかと推察できます。
ただ、渋沢栄一は、金儲けするためだけの合理性一辺倒の人物ではなかったと思います。彼の思想の根幹には、「論語」をはじめとする儒教精神がありました。
同時に、養蚕農家を営んでいた実家の家業から見聞した『貧困』にあえぐ民衆たちの生活の実情も彼の脳裏にあったはずです。彼が直接見聞したかどうかは分かりませんが、明治時代の「野麦峠」の貧しさは、彼にも見えていたはずです。
江戸時代の豪農と水飲み百姓の関係は、ある意味、運命共同体的関係なのです。庄屋や地主階層には、弱者(小作人)に対する責任感が重くのしかかっていました。西欧風にいうならば、「ノーブレス・オブリージュ」の精神があったと思います。
※ノーブレス・オブリージュ⇒貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。
法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われることもある。
・・ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/ノブレス・オブリージュ
この精神や小作人に対する配慮の無い庄屋や地主などは、明治になって大変苦労しています。
千葉の菊さんが書かれている『渋沢は「実業による私利は公益に資するべきであるとの一貫した主張」をもって養育院を護り続けたのです』というのは、その発露だったと評価できます。これもまた江戸時代の庄屋、地主階級の良質な伝統ではなかったのか、と思います。
この精神は、先に紹介した近江商人の商道徳『三方よし』の中の【世間によし】の精神にも通じるものです。
それから、『当時の明治政府の考え方として「外国から要人が来日するのに極貧の浮浪者等が帝都でうろついているのはみっともないからこいつらを集めてどこかに押し込んでしまえ。」ということのようで、同じことが私が住んでいる千葉でも行われています。』という問題ですが、この時に真っ先にやり玉に挙がったのが、被差別の住民でした。
天皇の神格化を企図した維新政府は、天皇の行幸にかこつけて、被差別の移転や住民の移転を強行したりしています。わたしたちが問題を指導する時、常にぶつかる問題の一つでした。「天皇制と問題」は、日本と言う国のあり方を考えるとき、その根源に横たわる問題です。文部省が問題学習を徐々に「人権学習」という形態に変化させた最大の理由の一つです。
最後に渋沢栄一と教育の問題について、余談をもう一つ書いておきます。
渋沢の経済論を一口で言うと、「道徳と経済の合一論」とでもいうべきものでした。
『富をなす根源は仁義道徳。正しい富でなければ、その富は永続できない』
『事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。』
この渋沢の経済論と同様の経済論を唱えていたのが、三島中州。幕末の備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷の一番弟子です。
山田方谷が説いたのが、理財論と言う考え方です。「義を明らかにして利を図らず」という考え方で、藩政改革を成し遂げたのです。
具体的に言うと以下のようになります。
「綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説く」
幕末、松山藩主板倉勝静(松平定信の孫 養子として入り、松山藩主になる)は、幕府の老中になります。山田方谷も藩主とともに幕政に関与するようになりますが、早々に郷里へ引き上げます。
三島中州は、山田方谷について江戸へ赴任します。維新後も東京へ残り、二松学舎を作りました。
三島家は、倉敷の名家です。中州という号は、倉敷に中州という地名があり、そこから取ったと推察できます。岡山県の教育界で、三島家といえば、それこそ知らない人がいないくらいの教育界の重鎮でした。それも三島中州が山田方谷の一番弟子として名をはせ、二松学舎を設立したのが大きな要因だったと思います。岡山県が長野県と並んで教育県と言われたのにも三島家の功績は多かったと思います。
さらに付言すると、備中松山藩はわたしの生まれ故郷のすぐ隣の町です。松山藩、山田方谷、三島中州などの名前は、幼少の時からよく聞いていました。
この三島と渋沢が肝胆相照らす仲だったようで、そのため渋沢は二松学舎の経営にも深く関わったようです。
もう一人、松山藩ゆかりの人物を紹介しておきます。亡くなった鶴見俊輔です。鶴見家は、松山藩(当時水谷氏)の家老でした。鶴見内蔵助が家老だった時代、藩が取り潰しに合います。その時、城受け取りに来たのが、赤穂藩家老大石内蔵助でした。この話は、有名で、小説にもなったそうです。
※鶴見内蔵助
http://takahashi.jyoukamachi.com/name-tu.html
渋沢栄一の話から脱線が過ぎたようです。年寄りの繰り言と思ってご容赦ください。千葉の菊さんの書き込みで、多くの懐かしい思い出が蘇ってきました。
「護憲+BBS」「コラムの感想」より
流水