「庶民に相談の必要は無い」と事業が始まり、「金儲け」の本音は隠し、夢を振りまき既成事実化に邁進し、傍観せざるを得ない庶民に大枚の金は求めるという不可思議さがある社会。
そんなことを考えさせられる報道が最近続いている。
一つは大阪万博に500億円を追加するという話題である(10月20日朝日新聞デジタル記事より)。これまでの1850億円から500億増の最大2350億円となる見通しを日本国際博覧会協会が正式発表し、各方面から批判が噴出、という内容である。
2020年ごろからのこの話題に関する、主な利害関係者の話を拾っておくと、
・日本国際博覧会協会 石毛博行事務総長
「1850億円(そもそも1850億円自体が2020年12月に当初の1250億円から600億円引き上げられていた)の範囲内で建設を行うミッションを与えられ努力してきたが、不充分ということで苦渋の決断をしてお願いしている」
・2020年12月1250億円が1850億円に拡大した当時の井上信治万博担当大臣
「新型コロナウイルス禍で負担を強いられている中だが、国民が盛り上がる万博にするのがわれわれの責任」
・政府と大阪府・市そして経済界の3者が均等に負担する図式の一当事者の吉村洋文知事は、2020年末の建設費拡大時点で「コストを上げるのはこれが最後」として当時は容認したが、今回は「説明は不充分。改めて質問し、回答を踏まえて判断したい」と発言している。
・推進団体である関西経済連合会松本正義会長
「以前から1850億円で足りるのか、と何度も言ってきた。協会は土壇場で1850億円では出来ないと言ってきた。負担する国民に対する説明が不足しているし、不誠実な態度だ」
もう一つの話題は冬季五輪を画策する札幌市長の発言である。
市長は、1964年東京五輪を我が国が成功して以降、複数回にわたり夏冬五輪で繋いできたオリンピック開催国という我が国の伝統(?)の火を消すことなく、冬季五輪開催を達成することで伝統を繋いでいきたい、等々とマスコミを利用して主張しているようだ。
この市長の主張は、表面的には「善きイメージの理念」を振りまいており一応は市民やスポーツ界の期待を背負った志のある発言であり、行動のように見えてしまう。かかる「善きイメージの理念」の正論と見えてしまう発言に対して、反論するのは勇気がいるし、そもそもおとな気ないのではと、尻込みしたくなる気分にもなるところである。
がしかし、開催が1年遅れ、しかもコロナ禍の混乱の中、そして以前の真夏をはるかに超える異常気象の最中にも関わらずに強行してしまった先の2020東京五輪の実体験(言うまでもなく当初予算をはるかに超えた形で行われていた)のことを思い出せば、「金儲けが主たる目的の」という裏に隠れた深い想いが当時の2020オリンピック招致活動にも働いていただろうし、今回の市長の発言の裏に隠されていると想像することは、容易なことであろう。
敢えて、これ以上は万博やオリンピック絡みの彼ら利害関係者らの発言には触れないが、こういう報道を読むにつけ、始めに記した考えに危機感を抱くものである。
繰り返すが、「庶民に相談する必要は無い」と事業が決まり、傍観せざるを得ない庶民に金は求める社会。「金儲けの為」という本音は隠し、夢は限りなく振りまき既成事実化に邁進し、やがて傍観させられていた庶民に対して、更に膨らみに膨らませた金を要求する社会。それが許されるという不可思議さがある社会。この課題を考えてみたい。
この問題を更に考えていく上で、興味深い一つの視点が、10月10日現代ビジネス掲載の[大阪・関西万博や東京オリンピックがうやむやに始まりグダグダなまま進む。。。「ダメな日本」の致命的な弱点]に述べられている。少し長くなるが現代ビジネスの記事を引用して慶応大学栗田氏の考えを紹介したい。
まずは「ダメな日本」にならないためには、として以下の点を挙げている。
(1) 誰かが何かを主張している場合、了解して受け入れる前に「その主張が論理的なモデルになっているか?入手できる現実のデータをきちんと用いて組み立てているか?」
この部分で納得できなければ、その主張を信じるべきではない、とし、その上で検証可能なモデル分析をしている情報には興味を持ち、主張される結論が自分にとって大切と思えば、その主張に関連する書物や文献に当たって自らその真偽を判定する習慣を身につけることが、現代の情報氾濫時代に自分を守る上で大切と勧めている。
(2) 学者や研究者は自身の研究を専門学術誌に掲載を希望する時には、前段に必ずその分野の他の専門家の「事前査読」による関門が設定されているシステムが存在している。それに合格しない限り学術誌に掲載はされない仕組みが出来上がっている。
一方、政府や地方公共団体が進める各種計画においては、事前の報告書作成は官僚らが依頼した当該分野の識者や専門家らが関与する。しかし出来上がった報告書を他の別の識者や専門家が内容の論理的妥当性を確認するといった計画実施前の「査読」に相当するシステムが存在していない、とされる。
そして、事前査読制度が無い状況で、あえて他の研究者がそうしたチェックを自主的に行っても、学界内で評価されないという土壌が日本社会には存在しており、これが相当大きな問題・課題だと、栗田氏は指摘している。
それらを踏まえて、栗田氏は近年の万博やオリンピックの様子を次のように捉えている。
1. 収支のモデルが粗雑である。入場予定者人数や入場料単価設定が私企業の行うような幅を持たせての予測となっていない。
2. 誰を満足させるためのプロジェクトなのかが常に曖昧にされている。
3. 公共事業の常で業者の定価(言われるままの価格)で組み立てられている。即ち、必ず支出が大幅に膨らむシステムになっている。
4. 利害関係者の利益はシッカリと事前に確定・確保している。プロジェクトが成功しても失敗しても業者は必ずもうかる仕組みになっている。口銭利益の存在とその確保もされているのであろう。
5. 特に、スポーツと文化を背景のプロジェクトは関連利益団体や圧力団体の力が強く、またマスコミも基本的に後押しすることで、市民の疑念やサイレントマジョリティの反対意思を反映させる術もなく、あれよあれよという間に計画が既成事実化していき、そして実行されていく。
国民も国会議員も誰ひとり明確に賛成していないのに「日独伊三国同盟」が締結されてしまった、という日本の恐ろしい特質は今も変わっていないと思える、と指摘している。
もう一つの視点が、昨年(2022年1月25日付け)の東京新聞の「こちら特報部」に「五輪中毒」と題して、坂上康博一橋大教授が触れている。坂上氏もそこで「怖いのは招致が決まると、異論が封じられ、国際公約を錦の御旗に有無を言わせずに物事が進行してしまう」と五輪招致活動に前のめりになる我が国の体質を指摘している。
坂上氏によると、戦後主権回復の1952年に東京が立候補し、2021年2度目の東京大会が終わった9月までの69年4カ月の期間、未決定の現在の札幌市の活動を除いても、複数の都市が重なった時期を含めて延べ58年11カ月が招致や開催準備に費やされていた。東京・札幌・名古屋・長野・大阪がひっきりなしに運動しており、空白期間は最長でも1972年札幌五輪後の5年半程度としている。この状況は正に五輪に絡む動きが無いと済まない、という依存症や中毒症状と言える。
そして五輪中毒をもたらしている原因を、スポーツ界、開催都市、地元財界、政治家など複数の活動者の存在だとし、その活動者らが複合的に引き起こしているとしている。
複数の活動者らを突き動かす動因として、一旦招致が決まると、異論が封じられ、施設建設やインフラ整備、そのための立ち退きもスピーディに出来るという例外扱いが通用することを挙げ、この使い勝手の良さが中毒の要因の一つとしている。この五輪圧力が市民側の智恵や創意工夫を封殺し、思考停止状態を引き起こしている、と懸念を述べている。
一つは大阪万博に500億円を追加するという話題、ならびに、もう一つの話題の冬季五輪を画策する札幌市長の発言を基にして、日本の抱えている永く続く、深い致命的弱点そして中毒症状を見てきたが、栗田氏が指摘しているように計画が一方的に決められ、市民は当然のこと、計画検討作成に携わった専門家・識者とは別の専門家・識者すらも排除して計画が決められ、既成事実化が進められていく所に大きな問題が存在していると思う。
合わせてもう1点気になっていることがある。
それは、かかる案件の世の中での「見え方」、または別の言い方からすると我が国特有の「見せ方」もまた大きな課題であると思っている。
即ち、利害関係者らは、「金儲けの手段としての」万博、「金儲けの手段としての」オリンピックという本音を間違いなく常に心に抱いているだろう。しかし傍観させられている一般市民には、決してそのような「見え方」で捉えられないような仕組みも開催都市、地元財界、政治家など複数の活動者は合わせ作っているといえる。
反対に如何に「夢ある」「人類の進歩の印」等々の美辞麗句で塗り固め、表面上は一般市民には付け入る隙がない「見せ方」をも彼らは見事に行っているのである。彼らは奸智に長けている上に力を持っているのである。そして閣議決定される直前までは彼らは本音を隠し通し続けるのである。
そして閣議決定がされた後は、彼らは本音を隠す必要はなくなり、そして市民はそれまでの既定事実の積み重ねや国際公約という錦の御旗の前に、為す術なく予算の可能な限りの彼らの膨張作業を見つめるだけの存在になっているのである。
この悪しき連鎖のなかでは、我々には閉塞感が絶えずただよい、晴れることはない。そしてそれを困ったことだと嘆息をつく位が、取り得る我々の関の山の行動だったとも言える。しかも庶民には大枚の奉加帳が回されてくるのである。
残念ながらこの不可思議さは、今後も延々と続くだろうと容易に想像されるのである。
だが、この悪しき連鎖を断ち切れないものだろうか。
この悪しき連鎖を断ち切るには、閣議決定される前に、「金儲けの手段としての」や「金儲けが主たる目的の」という本音が必ず隠れ潜んでいるという認識を市民が常にハッキリと持つこと、それを意識した行動を組み立てていく習慣を市民が持つことが大切だ、と考えている。
更に過去の悪しき実体験を忘れないで持ち続けること、そして別の識者や専門家らの冷徹な査読システムを万博やオリンピックや他の公共事業の閣議決定以前にシステムとして組み込むという市民の智恵と力を持つこととが大切と考えている。
このシステムを上手く構築でき機能させることが出来れば、無駄だった「死に金」を「生き金」に替えて使っていくことが、次に考える必要のある事柄になる。
例えば放棄され半分死んでいる日本の森林に人の手を入れていく際の資金にも使いたいし、人新世時代を通じて世界平均以上に日本が排出してきた温暖効果ガスの結果、疲弊してしまっているグローバルサウスへの「Loss&Damage」対策資金向けの貢献費用に充てるも善しと思う。日本でも世界でも雇用の拡大に繋がるテーマと考える。
「生き金」の使い方の思索ほど楽しいことはないのでは、と思う。
「護憲+BBS」「 新聞記事などの紹介」より
yo-chan