最近の新聞を賑わせた事件に、お年寄りが亡くなられているのに、家族が葬儀も届出もしなかった。そして中には意図的に届を出さず、年金を受取り続けていた家族もいた、という事件がある。
この問題は、社会の高齢化に加えて、核家族化、個人主義といった戦後の日本社会の流れの中で、共同体の崩壊と一致して起こってきた問題だと思う。
共同体は窮屈なもので、田舎に育った私は、未だに実家に帰れば少なからずそれを感じる。だが、そこには、容赦なく注がれる好奇の目と同時に、ひとたび何かあれば、すぐに気づいて駆けつけ、助け合う温かさも同居している。
しかし、地域共同体の崩壊はある程度やむを得ないだろう。そして子供は親の面倒をみるべきだという考え方の社会も、もう成り立たなくなっている。
何故なら、高齢の親を高齢の子供が看るという事態が生じているのが、この高齢化社会だからだ。60代になった私も90代と80代の両親を遠距離介護で看ているが、いつまで体力が続くかは分からない。
誰にも知られずに息を引き取る独居老人も増えている。高齢者を抱えた家族も孤立化している。貧困な状態にある高齢者も多い。そういう中でこの事件は起きている。
それに対し、もっと家庭に公的機関が踏み込む方が良いという考え方が出てきた。年金制度は逼迫しているので、不正受給は許せないという気持ちが強いのだろう。
しかしこれは、ジョージ・オーウェルの描いた『1984年』の管理国家・管理社会につながるおそれがあるのではないだろうか。市民は自分自身で判断し、互いに助け合う能力のある存在でありたい。判断力がなくしょっちゅう問題を起こす未熟な存在であるなら、国の管理が必要となり、コントロールされる存在になりかねない。
今回の行方不明の高齢者の問題を行政に任せてしまえば、管理社会への道を歩むしかないだろう。管理社会を望まないならば、市民自身の、家族に代わる何らかの共同体、共通の問題を持った人同士、互いに助け合う形を模索することが必要ではないだろうか?
この事件を、どういう社会が望ましいかを、市民自身が考え合うきっかけとしたい。すぐに解決とは行かなくとも、「お隣のご老人」へのほんの少しの気配りのある社会にしていくことはできるのではないだろうか。
私たちのほとんどは高齢者になるのだし、事故や病気で社会的弱者となる可能性もある。そういった方々を自然に助け合うという空気を作り出すのは、一人ひとりの利他的な小さな行動からではないだろうか。まずは小さな一歩を心がけようと思う。
「護憲+コラム」より
珠
この問題は、社会の高齢化に加えて、核家族化、個人主義といった戦後の日本社会の流れの中で、共同体の崩壊と一致して起こってきた問題だと思う。
共同体は窮屈なもので、田舎に育った私は、未だに実家に帰れば少なからずそれを感じる。だが、そこには、容赦なく注がれる好奇の目と同時に、ひとたび何かあれば、すぐに気づいて駆けつけ、助け合う温かさも同居している。
しかし、地域共同体の崩壊はある程度やむを得ないだろう。そして子供は親の面倒をみるべきだという考え方の社会も、もう成り立たなくなっている。
何故なら、高齢の親を高齢の子供が看るという事態が生じているのが、この高齢化社会だからだ。60代になった私も90代と80代の両親を遠距離介護で看ているが、いつまで体力が続くかは分からない。
誰にも知られずに息を引き取る独居老人も増えている。高齢者を抱えた家族も孤立化している。貧困な状態にある高齢者も多い。そういう中でこの事件は起きている。
それに対し、もっと家庭に公的機関が踏み込む方が良いという考え方が出てきた。年金制度は逼迫しているので、不正受給は許せないという気持ちが強いのだろう。
しかしこれは、ジョージ・オーウェルの描いた『1984年』の管理国家・管理社会につながるおそれがあるのではないだろうか。市民は自分自身で判断し、互いに助け合う能力のある存在でありたい。判断力がなくしょっちゅう問題を起こす未熟な存在であるなら、国の管理が必要となり、コントロールされる存在になりかねない。
今回の行方不明の高齢者の問題を行政に任せてしまえば、管理社会への道を歩むしかないだろう。管理社会を望まないならば、市民自身の、家族に代わる何らかの共同体、共通の問題を持った人同士、互いに助け合う形を模索することが必要ではないだろうか?
この事件を、どういう社会が望ましいかを、市民自身が考え合うきっかけとしたい。すぐに解決とは行かなくとも、「お隣のご老人」へのほんの少しの気配りのある社会にしていくことはできるのではないだろうか。
私たちのほとんどは高齢者になるのだし、事故や病気で社会的弱者となる可能性もある。そういった方々を自然に助け合うという空気を作り出すのは、一人ひとりの利他的な小さな行動からではないだろうか。まずは小さな一歩を心がけようと思う。
「護憲+コラム」より
珠