「明治32年1月2日」
【時勢の変わりというのは妙なもので、人物の値打ちがガラリと違ってくるよ。どうも、その事が分からなかったがね、今から三十二年前に、初めてわかったよ。ワシが抜擢されて、その頃の上の者と初めて会議などの出た処が、カラキシ、一つも知らない。それはそれはひどいものだ。どうしてこれで事が出来たものかと思って、不思議なほどであったが、その時、初めて、勢いの転じる具合が分かった。
一ツ、大本を守って、しっかりした所がありさえすれば、騒ぎのあるのは、返って善いのだというけれど、どうも分からないね。一つ、大本を守って、それから、変化して往くのだ。その変化ができにくいと見える。・・】
「岩波文庫 新訂 海舟座談 53p」
なかなかどうして、勝海舟という男、一筋縄ではいかない。人や人心の動静、時代の変化というものをよく見ている。時代の転形期を生き抜くには、【一つ、大本を守って、それから、変化して往く】ことが不可欠だと喝破している。要するに、時代の転形期を生き抜くためには、「大本を守る」覚悟がなくてはならないと言っている。「大本」とは、理念とか大義のようなものを指す。人は、権力の階梯を登るにつれて、余分なものを身につける。他者に対する配慮とか礼儀とか挨拶とかその他もろもろのものを身にまとう。ところが理念の強さは、余分なものを削ぎ落とさなければ生まれない。この削ぎ落としが十分でないと「ぬえ」のような人間しか生まれない。
現在の民主党政権の幹部たち、特に松下政権塾出身者たちの権力に酔いしれた無残な醜態ぶりをみると、勝の生きた時代となんら事情が変わっていないことがよくわかる。
以前から何度も指摘したが、日本における政権交代とは他国における革命に匹敵する。革命とは、既得権益層の没落を意味する。自らの没落を前にした既得権益層は必死の反撃を試みるのは誰にでも容易に想像がつく。それが、フランス革命でもロシア革命でも反革命として表出された。日本でそのような動きが起こらないのが不思議で、起こるのが普通。わたしは、民主党政権が誕生した時、民主党はいずれ【強権的手法】を取らざるを得なくなる。その場合は、【緊急避難的手法】だということを肝に銘じなければならない、と書いた。
ところが、鳩山政権は、この手法を取らなかった。鳩山由紀夫の人の良さ、優柔不断さが命取りになった。権力は「仏に会えば仏を斬る」という凄まじい意志がなければ維持できない。この凄まじい意志を振るうには、全てを削ぎ落とした【理念】の強さが問われる。勝の言う「大本」を握って離さない強さが問われる。これさえあれば、大胆な政治的妥協も可能になるのである。鳩山由紀夫の側近に権力のデーモンと添い寝したような人物(たとえば三木武夫のような)がいなかった事が悔やまれる。
菅政権、野田政権には、この種の議論することさえ無駄である。彼らの脳裏にあるのは、「権力欲」のみであり、「政権交代」の【大義】などかけらもない。彼らにとって、「マニュフェスト」など邪魔なもので、百害あって一利なしと考えているだろう。「仏に会えば仏を斬る」という凄まじい悪徳をなすためには、自らの権力を維持することが、国民のためになる、という自らの【大義=理念】に対する揺るがぬ自信がなければ耐えられない。民主党でいえば、政権交代の大義=マニュフェストに対する揺るがぬ自信がなければならない。【国民生活が第一】の理念を文字通り血肉に沁みこませた覚悟がなければならない。そうでなければ、人の支持など得られない。まして、相手は明治以来、権力の中枢に座り続け、権力の隅から隅まで知り尽くした官僚機構を頂点とした既得権益層。あのGHQですら、解体せず、そのまま温存した相手、生半可の覚悟で成功できるわけがない。
この事情を知りぬいた既得権益層のターゲットが小沢一郎だった。民主党の他の政治家など恐ろしくない。恐ろしいのは、権力のデーモンを知りぬき、権力を動かす壺を知りぬいた小沢一郎。彼さえ落とせば、民主党政権などどうにでもなるというのが、政権交代前から既得権益層の狙い。
この先兵にたったのが東京地検特捜部。そして、その為の地ならしをしたのが、大手メディア。カール・ウォルフレン氏のいう【世界に例を見ない一人の政治家に対する長期にわたる人格破壊】報道として表出した。これはもはや報道などという次元ではなく、明確な当為を持った悪質な政治プロパガンダとして見るべきだろう。今回の小沢裁判を契機として、刑事裁判の基本的理念をもう一度考え直す必要がある。
故小室直樹氏は「日本人のための憲法原論」の中でこう述べている。
“刑事裁判とは被告を裁くためのものではありません。ましてや「犯罪者を裁くためのもの」などとんでもない。
そもそも、刑事裁判においては、被告は有罪が確定するまでは無罪と看做されるというのが近代デモクラシーの鉄則です。
たとえ、どれだけ物的証拠があろうと、心証が真っ黒であろうとも、その人は無実であるとして扱わなくてはなりません。
では、いったい刑事裁判は誰を裁くためのものか。
それは検察官であり、行政権力を裁くためのもの。
裁判で裁かれるのは、被告ではありません。行政権力の代理人たる検察官なのです。
言うならば検察性悪説が近代刑事裁判の大前提。国家はひじょうに強大な権力を持っているのですから、その権力の横暴から被告を守らなければならないというわけです。
ですから、刑事裁判では検察側に1点でも落ち度があれば、ただちにアウトです。少しでも法に触れる捜査をしたり、手続上のミスが1つでもあったり、真実の証明が少しでも不完全ならば、検察は負け。鵜の目鷹の目で検察側の落ち度がないかを調べるのが、裁判官の本来の仕事です。”
今回の小沢裁判に当てはめると、証拠の改竄などが明らかになった時点で、この裁判は検察の負け。裁判自体が成立しない。ところが、陸山会事件などの石川、大久保などの場合、証拠改竄が明白になったにも関わらず、登石裁判長は、推認に推認を重ねて、彼らは有罪になった。推認と書くと如何にも重々しいが、簡単に言うと「俺はこう思った」ということ。裁判官が「俺はこう思った」で有罪にできるなら、警察も検察もいらない。登石判決は、司法の自殺に等しい。上の小室氏の論理なら、【証拠の改竄】をした検察こそ裁かれなければならない。強大な権力を持っている検察と裁判所がつるんでは、国民の権利など守れるはずがない。この延長線上に小沢裁判はある。
【日本最強の捜査機関】【巨悪は眠らせない】など数々の異名を持った東京地検特捜部はその出発点から、政治と密接な関係を持っていた。軍の隠匿物質の捜査をGHQから命令されたことが特捜部の始まりだが、彼らが捜査機関として世に知られたのは「造船疑獄」からである。
「日本の造船・海運業界が自由党幹事長佐藤栄作氏に贈賄していた事が分かり、特捜部は佐藤氏を逮捕しようとした。ところが犬養法務大臣の指揮権発動に阻まれて涙を飲んだ。それがこれまで語られてきた定説である。 実は、事情はまったく逆で、検察が政治家に頼んで指揮権発動を頼んだのである。」
・・「裁かれるのは日本の民主主義(田中良紹)」
http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/835.html
今回の小沢裁判の政治性は、実は東京地検特捜部の体質であり、彼らの「正義の味方」然とした振る舞いも一皮むけば、その時々の政治権力と密着していた。その彼らを支えてきたのが、メディアである。時の権力者を一夜にして犯罪者に追い込む特捜部の活動は、国民にある種のカタルシスを与える。このカタルシスはメディアにとって大きな魅力。その為、検察のもたらすわずかな情報を得るためにメディアはやすやすと権力(検察)の走狗となった。今回の小沢事件の洪水のような小沢バッシング報道を見れば、日本の権力構造の何たるかがよく分かる。
今回の裁判で問われているのは、このような日本の体制そのものである。小沢が有罪になろうが無罪になろうが、問題ではない。このような体制そのものをどのように変革するのかが問われている。政権交代の革命的意義は、ここにある。勝海舟のいう「大本」である。
今回の裁判。被告人は小沢一郎だが、小沢一郎が裁かれているのではない。民主党に投票し、このような体制そのものをNONと答えた日本国民と民主主義が裁かれている。その意味からいえば、小沢一郎は本望だろう。自らの存在を賭けて、既得権益層=アンシャンレジームと対峙している。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
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