自民党総裁選のありようを見ていると、もはや自民党は民主主義国家の政党ではない、と断言せざるを得ない。
民主主義のイロハのイだが、異なる意見の持ち主が、侃々諤々の議論をし、それを聞いている人間が投票し、多数の支持を得たほうが勝利する。多くの人が、投票をする参考にするのだから、異なる意見の候補者が【議論】を戦わすのは、当然。その議論を避けたり、嫌がる人間は、そもそも立候補する資格がない。
ところが、今回の総裁選。安倍晋三は議論をしたくないそうだ。その為、正式の立候補をぎりぎりまでせず、時間切れで議論を最小限に抑えるのが選挙戦術だそうだ。そして、その後も東方経済フォーラムに出席するそうだ。外交を口実にした論戦回避。誰がどう考えても、議論をして、ボロを出すのが怖いとしか思えない。
自民党各派閥は、よくもまあ、こんなお粗末な候補を推薦したり、支持できるものだ。おまけに安倍晋三は、地元山口で「現職総裁に挑戦するのは、現職を否定する事だ」などと語り、総裁選挙に立候補する事自体を否定して見せた。「俺に逆らう奴は許さない」と言うわけだ。
森友問題・加計問題、財務省の公文書改竄問題、昭恵夫人の関与問題、文科省の汚職問題、北朝鮮問題で完全に蚊帳の外に置かれた外交の大失敗、米国との間の貿易摩擦問題、日銀の買い支えで株高と円安誘導を行い、実態より経済を良く見せる「粉飾経済」を行うアベノミクスの大失敗(日銀出口戦略はどうなるのか)、その後に襲うかもしれない経済の大失速。格差の拡大、働き方改革に名を借りた「働かせ方改革」による過労死の増加やブラック企業の増加問題。さらに、年金は減額の一途。医療費や税金、生活費は増加の一途。全国の老人は泣いている。
こんな国内外の政治状況、経済状況、社会状況の総括(議論以外にない)もせずに、自民党各派閥が、安倍首相の三選をもろ手を挙げて支持するなどという事態は、過去の自民党ではあり得なかった。
この自民党の惨状は、彼らが拠って立つ【保守主義】の歴史的・理論的理解ができていないのが原因である。少なくとも保守主義の旗を掲げるなら、現在の日本で進行している事態が【真の保守主義】と相いれないばかりか、相反するものだ、くらいの見識は持たなくてはならない。
安倍晋三は、「保守とはこの国に自信を持ち、今までの日本が紡いできた長い歴史をその時代に生きてきた人たちの視点で見直そうとする姿勢です」と国会で述べている。
この言葉に対して、政治学者中島岳志が、8月22日付け毎日新聞の「特集ワイド」で厳しく批判している。
彼は保守主義の祖とされる英国のエドモンド・バークの主張を引用して安倍を批判する。
「バークはフランス革命の指導者たちの人間観がおかしいと考えました。つまり、旧来の秩序を破壊して自分たちの設計図通りに社会を作ってゆけば必ずうまくいくという人間観です。しかし、歴史上、わたしたちは不完全であり、どんなに頭の良い人でも間違いを犯す。不完全な人間が理想社会を作ろうと無理をすれば、考え方の違う人間を徹底的に排除する暴力が生じる。案の定、フランス革命は粛清が長期間にわたって行われた」
↓
中島は、この指摘に続いて以下のように語る。
「本来の保守は、懐疑的な人間観を持っています。それは他者だけではなく、自分も間違えているかもしれないという人間観です。だから、自分とは異なる意見を聞き、合意形成を試み、着地点を見出していくことが重要なのです」※中島氏は、【迷い】が重要であると指摘している。
この視点から見ると、現在の安倍政権の力づくの国会運営や、党内議論や国会議論を軽視(嫌悪)し、合意軽形成を無視する政権運営のやり口は、「真の保守主義」とは相いれないと厳しく批判する。
「このような政権運営は、合意よりも自分の主義主張を押し付ける権力の使い方です。北朝鮮や中国共産党の指導者とよく似た権力の使い方です。保守にとって最も避けなければならない人間観が根底にあります。」
↓
数を背景に少数者を排除する過激な民主主義は、必ずフランス革命のような専制政治を生み出す可能性が高い、と批判する。ナチスドイツの権力掌握も同様である。
中島氏によれば、上記のバークが代表する「真の保守思想」は、「立憲主義」にならざるを得ないという。
「権力を縛る国民とは、その大半が選挙で民意を示す生者ではなく、死者たちを意味します。つまり、過去の為政者たちが犯した失敗や、それに基づく経験知を集め、時の為政者がやってはいけないルールを示したのが憲法」
↓
「多数決に代表される絶対民主制を重視し、合意形成や人間の英知を大切にする保守の理想や立憲的な歯止めを軽視してきた戦後日本の【あだ花】」だと安倍政権を批判している。
バークの言う保守主義とは、おおまかにいえば、下記のような考え方である。
1.人間の理性には限界があるため、是非善悪を全く客観的に判断することはできない。
2.不完全である以上、理性のみに基づいて既存の社会を改革することは、予期せぬ結果をももたらし得るため、危険である。
3.一方で、今の社会、習慣、価値観などは、先人たちが繰り返した試行錯誤の末に生まれてきたものであり、不完全で非合理的であったとしても、間違いが少ないがゆえに生き残ってきたものである。
4.ゆえに、完全な理性を望めない人間は、伝統という「偏見」のなかで生きていかざるを得ないし、それにのっとった生き方の方が正しい。
この考え方は大変良く理解できるし、納得できる。教師のような職業をしていると、「自分の指導が間違っているかもしれない」という怖れは日常的なものである。そう考えて、常に自分の指導を見直さなければ、教師などと言う職業はできない。そうでなければ、「人を指導する事」などできるはずがない。
ここには、以前指摘した、【公】【公共】【私】の基本的考え方が示されている。この思想の基本は、人間に対する【懐疑主義】にある。
◎人間は不完全な生き物(人間の理性に対する懐疑)⇒◎不完全な人間が理想を掲げ、それを絶対視して物事を行えば、悲劇が生まれる⇒◎一人一人が、不完全な人間なのだから、必ず間違うという認識が必要⇒◎その間違いを修正し、さらにそれを修正する。人間の営みは、永遠の「試行錯誤」の連続。⇒◎その中で社会に生き残っているものは、間違いが少なく、社会的に認知されたものだから、大切にしなければならない⇒◎だから、人間は、「歴史」や「伝統」を大切にしなければならない
つまり、【公共】=人々の営みが集積した「伝統」と考えれば良い。【公】はその基盤に立っているのである。つまり、【公共】=人々の営みが集積した【伝統】を無視して、【公】は存在しないのである。
ところが、安倍政権や日本会議や竹中平蔵のような取り巻き連中の口癖は、【改革】【改革】である。「改革」の名のもとに、上記の人間の営みの基本である【試行錯誤】の末に生き残ってきた「伝統」を破壊してしまう。これはどう見ても、「真の保守主義」ではなく、「似非保守主義」と言わざるを得ない。
もう一つどうしても指摘しておかねばならないのは、【構造改革】という言葉である。
日本では、【構造改革】と言う言葉は、まるで水戸黄門の印籠のような扱いを受けているが、これほど危うい話はない。よくよく考えなければならないのは、【構造】とは何かの議論が全くなく、貿易問題の改革程度の議論を全て【構造改革】に落とし込んでいるのが現状。
【構造】を論じるなら、日本と言う国家や社会の基本的ありように対する俯瞰的で全体的な議論が必要であり、その改革をいうなら、その構造の歴史的・時間的な位置をきちんと決めて何をどう改革するかを考えなければならない。つまり、ゼネラル的思考法が絶対に必要であり、それがない【構造改革】ほど危険なものはない。
ところが、日本で「構造改革」を叫ぶ連中の大半は、スペシャリスト(専門家)であり、ゼネラリストではない。そんな片肺的視点で行われる【構造改革】など、結局しなければ良かったという結果に終わるのがせいぜいである。
しかも、前の投稿で【日本の支配層の腐敗】を論じたが、彼らの大半は、【構造改革】論者のくせに、腐敗を行う心情は、江戸や明治と変わらない。しかも、わが身可愛さのため、権力者に忖度するのが当然だと考えているへなちょこ野郎が大半。つまり、彼らの人間の【構造改革】こそが、焦眉の急であると言う事には気づかない。こんな連中が叫ぶ【構造改革】など危ういものである。
だから、「真の保守主義」者は、常に60%の成功をねらって新しい試みを行う。しかし、竹中平蔵などは、常に100%の成功を語る。彼が「似非保守主義者」たる所以である。
自民党はこのような「似非保守主義」者たちに権力を保持させようとしている。わたしから言わせれば、彼らは、「似非保守主義者」などという穏健主義ではなく、日本や日本人が営々と築き上げてきた知的遺産(種子法改正)や社会的財産(水道)などを平気で売り渡す「急進的破壊者」であり、文字通りの「売国奴」である。
自民党が【保守主義】者などという幻想は、捨てるべきである。
「護憲+BBS」「政権ウォッチング」より
流水