昨日、突然、貴乃花が相撲界から引退するという記者会見が行われた。その会見場所が法律事務所で、相撲界での現在の貴乃花の居場所を象徴する場所だった。
通常、引退会見は、相撲協会が引退届を受領し、その後行われるものだが、相撲協会が受領していないのに引退会見を行うのはきわめて異例。案の定、相撲協会の芝田山広報部長(元横綱大乃国)は、手続きの不備を理由に引退を了承していないと述べた。
弁護士流に言うと、「引退届」なら圧力で引退したとか様々な理屈をつけることが可能。この先、貴乃花部屋の力士の行き先、処遇が決まり、貴乃花個人になれば、様々な訴訟も可能。「退職届」なら、あくまで自己都合で退職したのだから、そんな理屈付けをすることは不可能。だから、芝田山親方は、退職届でなければ受け取らない、といったのであろう。
貴乃花親方が弁護士事務所で記者会見を行ったと言う事は、そういう含みがあるという憶測を招いても仕方がない。ひょっとすると、貴の乱第二弾かと協会側が身構えるのも無理はない。
わたしは貴乃花騒動の時、三度にわたって貴乃花批判とメディア批判を書いた。(「メディアと貴乃花の正義」、「貴の乱始末」、「貴の乱異聞:見るに耐えないメディアの劣化」。)だから、今回の貴乃花の引退問題についても語らざるを得ない。
丁度、名無しの探偵さんと「日本的集団主義」の話をしている最中。今回の貴乃花引退問題は、その象徴的問題の一つとして取り上げる価値があるだろうと思う。
民主主義的観点から言えば、貴乃花は自らの主張を相撲協会に属している親方衆や理事などに理解してもらい、自らの考える相撲道に限りなく近い相撲界にするためにも貴乃花の理解者を増やさなければならなかった。
ところが、貴乃花というのは、そういう主張をするタイプではなく、相撲界でも【孤高】の存在として有名で、それが売りの存在でもあった。
しかも、貴乃花の考える相撲道は、戦前の国体思想に近い古色蒼然としたもので、どう見ても現代に生きる相撲という観点からは時代遅れと言わざるを得ないもの。
・・・『戦前型「国体思想」では、「国家が『国体』に於て真善美の内容的価値を占有する」とされている。「真善美」とは、歴史的淵源をたどれば、プラトンに由来するが、日本型国体思想では、異様に「美しさ」に固執する。
安倍晋三が「美しい日本」を取り戻すなどと喚いているのを見れば一目瞭然だが、この「美しさ」という概念に酔いしれているのが、日本型「国体思想」の特徴である。
貴乃花のいう「相撲道」も、「美しさ」が基本である。横綱は、強くなければならないが、何よりも「美しい勝ち方」「美しい相撲」を心掛けねばならない。』・・・
(メディアと貴乃花の正義)
・・・『この国家活動を貴乃花の行動と解釈すれば、貴乃花の不可解な行動も理解できる。つまり、貴乃花は自らのうちに「絶対的価値」を体現していると信じており、それが「真善美の極致」だというわけである。つまり、貴乃花の行動を縛る「道義的基準」などないという結論になるからである。
この恐ろしく独善的な論理が戦前日本を戦争に導いた。今回の貴乃花と相撲協会の確執を戦前の日本と他国との確執(戦争)と見れば、きわめて相似形であることが理解される。
このような思想の持ち主の行動は、一見きわめて「改革主義者」に見える。というより、自分自身の思想を実現しようとすれば、全て「他者」を否定しなければ実現できない。安倍晋三も小池百合子も「改革者」を自称するのはこの理由による。もう少し極端に言えば、一種の「革命家」に見える。「革命家」というより「破壊者」と言った方が正鵠を得ているだろう。』・・・(メディアと貴乃花の正義)
このような一種の求道者にも似た感性の持主である貴乃花であるため、集団の中での「多数派工作」などという世故に長けた方法など一番苦手なやり方。
通常、このタイプの人間が多数派工作を行うとすれば、参謀的人材が絶対に必要になる。例えば安倍首相の場合で言えば、菅官房長官のような存在である。これまでは、阿武松親方がそうだった。彼のおかげで、貴乃花は、理事として存在感を保ってこられたと言って良い。
阿武松親方は、今回の一連の騒動で貴乃花を生き残らせる道は、一度身を引いて捲土重来を期す以外ないと考え、今回は理事選に立候補しないように貴乃花を説得したが、貴乃花の頑固な性格がそれを聞き入れず、貴乃花はわずか二票で落選した。
彼が間違えたのは、メディアが貴乃花を【改革者】として喧伝した事にある。上で指摘したように、貴乃花は自らを【絶対的価値】の体現者として考えていたはずである。メディアもそういう視点で貴乃花を評していた。
だから、彼は全てを拒絶し、【白か黒か】の二分法的思考法で協会に迫った。「俺が正義」だと信じていたはずである。
ところが、場所中の弟子の暴力事件発覚で、【絶対的価値の体現者】としての貴乃花の自尊心が音を立てて崩れたのだろう。そうでなければ、その後の彼の異様な恭順さは理解できない。「俺が間違っていた」というのは、貴乃花にとって耐えられない屈辱だったに相違ない。
わたしは、以前から、貴乃花は決して「改革者」ではなく、復古主義者であると断言してきた。
・・・『「暴力」、特に強者が弱者に対して行う「暴力」=「いじめ」は、大学の体育会系などで顕著にみられたように、「閉鎖的社会」で起こりやすいというのは、今や常識であろう。
と言う事は、相撲社会を「閉鎖集団」から「開放された集団」に変革することを、真っ先に考えなければならない。
実は相撲協会は以前の暴力問題の反省から、その事を実践している。暴力事件の温床になる相撲界の「閉鎖社会」の最大の要因は、「部屋制度」と「親方絶対制度」にあるという認識から、改革に乗り出しているのである。
※意外と報道されていない。(ネグレクトされている)
★相撲取り一人一人が相撲協会員。つまり、相撲協会という会社に就職した会社員というわけである。親方と弟子という関係から、協会と相撲取りという関係に変化している。
★親方は、この会社員を協会から委託され、教育、指導、訓練するための支援員。
ところが、貴乃花は、親方=父 弟子=息子 という認識を強く持っており、弟子を守るという意識を強調している。だから、暴行事件の被害者貴ノ岩には一切メディアで語らせず、隠し通した。
ところが暴力事件を生む温床が「部屋制度」と「親方制度」にあるという考え方は、相撲取り一人一人の自立意識を育成し、物事は、力でなく何事も話し合いで解決するという意識を育てなければならないという認識に基づいている。近代社会では常識であろう。
貴乃花親方の行動は、この認識に反している。』・・・(貴の乱始末)
相撲界の問題発覚以降、レスリング、アメフト、ボクシング、体操などのパワハラ問題や暴力問題などを見れば、その組織、集団の「閉鎖的体質」が問題の根源にある事は明白。相撲協会の改革が、問題の根本的改革の正しい方向性にある事は明白だ。
今回、貴乃花の引退理由の一つに挙げられた「親方は一門に属さなければならない」という改革は、協会から配布されるお金の使途の透明性確保に一門を活用しようとする近代化の一つと考えられる。貴乃花の語る改革とは、完全に一線を画していることが理解される。
貴乃花は、引退会見で弟子に対する愛情を強調していたが、以前の彼なら「相撲道」を強調してやまなかったが、それは影を潜めていた。
ここから見えるのは、彼にとっての「相撲道」というのは、結局、「相撲が大好き」というものだ、と言う事である。彼の語り口を聞いていて、それは感得できた。
これは大変貴重な教訓で、どんな高邁な理念もどんな難しい理屈も、所詮付け足し。余分なものをそぎ落としていけば、「最後に残るのは「大好き」というきわめて人間臭い感情に収斂すると言う事である。
つまり、「相撲道」とか「神事」とか様々な理屈は、所詮【意匠】だと言う事なのである。これが、貴乃花が最後にたどりついた境地なのだろう。
貴乃花が多数派の形成ができなかったのは、「相撲が大好き」という原点を真の意味で周りの人間に理解されなかったところにある。それを「相撲道」とか「国体」とか後から武装した理屈で説得しようとした事が、最後は自分を孤立化させた。
高邁な理念に基づいての行動だから、多少の非礼は許されると考えたのかも知れない。これが命取りになった。
そんな理屈はいらなかったのである。本当に相撲が大好きで相撲を愛しているからこそ、暴力などとは無縁の相撲界にしようとただただ訴えればよかった。それさえ理解してもらえれば、日馬富士も許し、和解に応じればよかった。
スポーツはこのように物事を単純化できるところに良さがある。何故なら、人間は間違いを犯す生き物。しかし、間違いに気づき、反省できる生き物でもある。この単純化に回帰することが、集団・組織の中で自らの考え、理念を理解してもらう最大の武器だ。
この事は子供を教えたら一番良く分かる。こどもを引っ張る事ができるのは、つまらない理屈でなく、「好き」にさせるのが一番。子供が生き生きと活動しているのを見て、怒る人はいない。
その意味で今回の貴乃花の引退は、彼が理論武装してきた【相撲道】という抽象的な理念の敗北でもある。
同時に、【集団】と【個】のありように重要な教訓を残した。組織、集団を内から変革するためには、外部の力を借りて実践するのは最後の最後。内部の改革勢力を糾合する努力をしなければ不可能。
その為には、様々なもめごと、不祥事の解決には、真摯な態度で向き合い、できるだけ合理的な落としどころを探らなければならない。人の恨みを買うのは、もめごとの解決の過程での発言・態度にあるからである。仲間内の論理や個人的思い込みを捨て去る覚悟が求められる。
今回の場合、日馬富士とともに謝罪に訪れた伊勢ケ浜親方の目の前で車に乗り、謝罪を受け入れず、追い返した貴乃花の行為は、相撲協会の多くの人が眉を顰め、人々の反感を買ったはずである。その他、協会の使者を追い返すなどあまりにも非礼で常識に反した行為が多すぎた。
さらに、当時の貴乃花の歩き方、表情など、多くの人が「あれは何なんだ」と眉をひそめた。「あんな人間の言う事など信用できるか」と思われても仕方がなかった。
これでは集団の支持など決して取り付けられない。たとえ、貴乃花の主張に理があったとしても、誰も彼を支持しない。
今回の貴乃花の引退理由も釈然としない。あれだけの「乱」を起こしたのである。当然ながら、貴乃花が敵として標的にかけた力士、親方など多くの人間の恨みを買っている。【水に落ちた犬は打て】の報復は覚悟しなければならない。その為には、あの手この手で貴乃花を追い落とす方策が練られても不思議ではない。
そんな内幕をばらしても何の意味もない。所詮、負け犬の遠吠え。「あなたの反乱で傷ついた人間やその仲間がどれだけ悔しい思いでいるかを考えなさい」、と反論されるだけ。
もう一つ、貴乃花が見落としている事がある。彼に全ての責任があるわけではないが、あれだけメディアに取り上げられ、相撲協会や相撲取りや親方衆など相撲に携わる人間たちが好奇心の対象にされたのである。それこそ重箱の隅をつつくように、あらさがしをされ、あれこれ批評されていい気持ちになる人間などほとんどいない。
相撲界で生きている人間にとっては、それこそ迷惑千万。貴乃花はその責任も負っていると考えなければならない。彼が年寄会でつるし上げ同然の立場になったのも無理はない。
外部のメディアを使う事は、その反動の大きさも引き受ける覚悟がいる。メディアを利用すると言う事は、そういうリスクを背負う事でもある。
わたしから言わせれば、【信念を貫いて辞めた】という世間的評価のために、内閣府に提出した告訴状の内容は真実だ、などという反論は、言わない方がよかった。
ただ黙って相撲界を去れば、平成の大横綱の貴乃花の名前は見事な散り際として永久に語り続けられただろう。その方がはるかに貴乃花の言う【美しさ】にふさわしかったと思う。
「護憲+BBS」「マスコミ報道を批評する」より
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