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老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

日本的集団主義:「日本はゲームオーバーした」

2018-09-29 20:41:17 | 民主主義・人権
「日本的集団主義」の議論への竹内氏のコメントで、重要な問題提起がありました。学校と政党だけの今日的状況だけでは分析が不足していました。「日本はゲームオーバーした」という分析にまったく同感。竹内さんのコメントに触発されました。

企業の労使関係で、労働者を過労死させながら内部留保金を400兆円も貯め込んでいる。これは労働者の給料がここ10年以上も上がらず、しかも年収で50万円も下がっているという「平均値」からも、企業のみがゲームを恣意的に牛耳ってゲームの規則を逸脱しているからに他なりません。(カジノ法案まで立ち上げた安倍最低内閣ですが、ゲームの規則も守らない政権のカジノ法制は全く言語道断です。)

安倍政権は「同一労働同一賃金」などと口当たりのいい言葉を安倍自ら表明したのに、実際に出てきた「働き方改革」の中味の中心事項は、高プロという残業代ゼロ法案でした。

また、厚労省の忖度と違法があり「裁量労働の拡大」も引っ込めたばかりです。まさにインチキ政権です。これでも多くの国民(労働者が大半)は羊のように安倍政党に投票しています。

更に竹内さんの指摘で重要なのは、「国民の心中は政治に対する不信感」で一杯だということ。これは宮本太郎氏の国民意識調査でも指摘されています。

また、「日本内部だけなら問題はないが(実は問題大アリです。学校でのいじめと自殺がとまりません。企業内部でも同じです。)、得たいの知れない外国が絡んでくると、危機が迫って来る」という指摘です。

実際には迫っているどころか、沖縄の辺野古基地への移設問題は危機という状況をはるかに超えています。国連への提訴も必要だと思っています。国連もこの問題に勧告を考えている状況だと思います。実際一部の動きもあります。

竹内さんのコメントに感謝いたします。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
名無しの探偵
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日本的集団主義:「集団と個人」の関係、制度的な問題

2018-09-28 09:29:18 | 民主主義・人権
日本的集団主義の問題」の根底にある3人の思想家の論理」の続き...。

流水さんの的確な体験に基づいた意見に賛同します。まず、自分たちの身近な集団の問題から議論されていることに納得します。「集団と個人」の関係はどこの国でも同じなので日本だけが「集団主義」に傾いているということはありません。アメリカも9・11以後は集団主義がひどかったし、今になってトランプが大統領に選ばれたことは偶然ではありません。

「民主主義」と日本では一口に言ってそれで終わりになる傾向は強いです。歴史が浅く、議論がなされない国民性(大学も同じ)からか議論の蓄積と形成に寄与していません。

日本の集団主義と「戦後」民主主義は密接不可分だと思っています。8・15の「夜」が明けると、昨日まで神州不滅だとか鬼畜米英を唱えていた日本人がみな一億民主主義思想者に「転向」していた、というマイナーな意見をかなり多く聞いたことがあります。憲法改正問題も、戦争体験者が少数になると自公政権の改正案に反対する人もマイナーになってきました。

民主主義ということは一口で議論して終わりになる問題ではありません。流水さんが指摘したように、個人という存在は意識面で集団の影響を受けやすいと思います。議論がなされない背景の方が問題です。

学校現場から始まって、国政の現状でも同じです。学校の規則の問題で憲法違反のルールも最近では目立ちます。元々「赤毛」の女子に黒く染めてこいという事件がありました。この教師は民主主義も個人の尊重も何も分からずに大人になった人です。この学校も同じ。集団主義にみんな染まっていった。これは少数の事例だという意見もあるでしょう。

同様に、今回の総裁選で石破派の大臣に「石破に入れるなら辞職届けを出してから投票しろ」という圧力までありました。三谷氏の議論どおりなら「集団主義」は終わっているはずなのに、自民党内部でも「集団主義」的な圧力は依然として根強いです。誰を総裁にするかは個人の問題であり、多分、民主主義を取っていない国でもこれくらいの「自由」はあるはずです。

集団主義という伝統はねじれた形で残っています。昔からのルールだった「村八分」さえも、学校や自民党という政党には残っていません。「「村八分」であって、二分の配慮は守られたからです。

次に、少し制度的な問題に言及します。民主主義の問題(特に憲法上での基本原則)で一番大きな政治的な問題は、「少数意見の尊重」(これは個人の尊厳などと関連してくる)だと考えます。

殊に西欧などで発展してきた民主主義の原則では、多数決の専制から個人の権利や思想を守る場合には「少数意見の尊重」という政治的な重要命題(基本的な自由の前提条件)は、制度的にも保障されるようになっています。〔戦時下における「良心的兵役拒否の権利」、各人の「信教の自由」などなど。(政治と宗教の分離原則として確立)〕

そして第二次大戦後には、全体主義の猛威から圧政に苦しんだ経験を活かして、「違憲立法審査権」の制度が日本をはじめ各国で採用されました。この制度の目的は「少数意見の尊重」以外あまり存在理由は考えられません。明らかに「多数の専制」(集団主義のマイナス面)を抑制する制度です。

「選挙」だけでは民主主義や立憲主義(国家の権力を制限する憲法の原則)が守られないことは、世界的に合意されているということです。ちなみに、安倍さんは「立憲主義」を理解できていませんでした。

※次回からは思想史などの問題に移ります。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
名無しの探偵
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「普天間、必要なら本土移転」 東京・小金井市議会が陳情採択

2018-09-27 11:54:11 | 沖縄
きのうの沖縄タイムスの記事です。

「東京都小金井市議会(五十嵐京子議長)は25日、9月定例会の本会議で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の代替施設が必要かどうかを広く国民的に議論し、必要となれば本土で民主的に建設地を決めるよう求める陳情を賛成多数で採択した。」

「陳情は、8割を超える国民が日米安全保障条約を支持しておきながら、沖縄にのみその負担を強いるのは『差別』ではないか」と提起。普天間問題を解決する手順を描く。

 (1)辺野古新基地建設を中止し、普天間飛行場の運用を停止する
 (2)本土の全自治体を普天間代替施設の候補地にする
 (3)米軍基地や代替施設の必要性を国民的に議論する
 (4)必要という結論なら、公正で民主的な手続きで決定 」


「『沖縄発 新しい提案』という本に基づく取り組みで、中心になって執筆した司法書士の安里長従さん(46)は「安保や基地に対する賛否両方の意見を尊重した上で、沖縄に対する差別をやめ、民主的に解決する方法を探った。」

というものです。

私はこのことをフェイスブックで知りました。
本土の新聞にも載っているのでしょうか?

このことは鳩山さんが「最低でも県外」と言っていたときから、私が考えていたことと重なります。
もしも基地が必要と考えているならば、自分の住んでいるところでも引き受けようと行動するべきではないか、と。
機会があれば、議員さんやまわりの人々にもそう投げかけたいと思っています。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/320293

「護憲+BBS」「 新聞記事などの紹介」より
コナシ&コブシ
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貴乃花:相撲界から引退か

2018-09-26 14:59:49 | 安倍内閣
昨日、突然、貴乃花が相撲界から引退するという記者会見が行われた。その会見場所が法律事務所で、相撲界での現在の貴乃花の居場所を象徴する場所だった。

通常、引退会見は、相撲協会が引退届を受領し、その後行われるものだが、相撲協会が受領していないのに引退会見を行うのはきわめて異例。案の定、相撲協会の芝田山広報部長(元横綱大乃国)は、手続きの不備を理由に引退を了承していないと述べた。

弁護士流に言うと、「引退届」なら圧力で引退したとか様々な理屈をつけることが可能。この先、貴乃花部屋の力士の行き先、処遇が決まり、貴乃花個人になれば、様々な訴訟も可能。「退職届」なら、あくまで自己都合で退職したのだから、そんな理屈付けをすることは不可能。だから、芝田山親方は、退職届でなければ受け取らない、といったのであろう。

貴乃花親方が弁護士事務所で記者会見を行ったと言う事は、そういう含みがあるという憶測を招いても仕方がない。ひょっとすると、貴の乱第二弾かと協会側が身構えるのも無理はない。

わたしは貴乃花騒動の時、三度にわたって貴乃花批判とメディア批判を書いた。(「メディアと貴乃花の正義」、「貴の乱始末」、「貴の乱異聞:見るに耐えないメディアの劣化」。)だから、今回の貴乃花の引退問題についても語らざるを得ない。

丁度、名無しの探偵さんと「日本的集団主義」の話をしている最中。今回の貴乃花引退問題は、その象徴的問題の一つとして取り上げる価値があるだろうと思う。

民主主義的観点から言えば、貴乃花は自らの主張を相撲協会に属している親方衆や理事などに理解してもらい、自らの考える相撲道に限りなく近い相撲界にするためにも貴乃花の理解者を増やさなければならなかった。

ところが、貴乃花というのは、そういう主張をするタイプではなく、相撲界でも【孤高】の存在として有名で、それが売りの存在でもあった。

しかも、貴乃花の考える相撲道は、戦前の国体思想に近い古色蒼然としたもので、どう見ても現代に生きる相撲という観点からは時代遅れと言わざるを得ないもの。

・・・『戦前型「国体思想」では、「国家が『国体』に於て真善美の内容的価値を占有する」とされている。「真善美」とは、歴史的淵源をたどれば、プラトンに由来するが、日本型国体思想では、異様に「美しさ」に固執する。
安倍晋三が「美しい日本」を取り戻すなどと喚いているのを見れば一目瞭然だが、この「美しさ」という概念に酔いしれているのが、日本型「国体思想」の特徴である。

貴乃花のいう「相撲道」も、「美しさ」が基本である。横綱は、強くなければならないが、何よりも「美しい勝ち方」「美しい相撲」を心掛けねばならない。』・・・
(メディアと貴乃花の正義)

・・・『この国家活動を貴乃花の行動と解釈すれば、貴乃花の不可解な行動も理解できる。つまり、貴乃花は自らのうちに「絶対的価値」を体現していると信じており、それが「真善美の極致」だというわけである。つまり、貴乃花の行動を縛る「道義的基準」などないという結論になるからである。

この恐ろしく独善的な論理が戦前日本を戦争に導いた。今回の貴乃花と相撲協会の確執を戦前の日本と他国との確執(戦争)と見れば、きわめて相似形であることが理解される。

このような思想の持ち主の行動は、一見きわめて「改革主義者」に見える。というより、自分自身の思想を実現しようとすれば、全て「他者」を否定しなければ実現できない。安倍晋三も小池百合子も「改革者」を自称するのはこの理由による。もう少し極端に言えば、一種の「革命家」に見える。「革命家」というより「破壊者」と言った方が正鵠を得ているだろう。』・・・(メディアと貴乃花の正義)

このような一種の求道者にも似た感性の持主である貴乃花であるため、集団の中での「多数派工作」などという世故に長けた方法など一番苦手なやり方。

通常、このタイプの人間が多数派工作を行うとすれば、参謀的人材が絶対に必要になる。例えば安倍首相の場合で言えば、菅官房長官のような存在である。これまでは、阿武松親方がそうだった。彼のおかげで、貴乃花は、理事として存在感を保ってこられたと言って良い。

阿武松親方は、今回の一連の騒動で貴乃花を生き残らせる道は、一度身を引いて捲土重来を期す以外ないと考え、今回は理事選に立候補しないように貴乃花を説得したが、貴乃花の頑固な性格がそれを聞き入れず、貴乃花はわずか二票で落選した。

彼が間違えたのは、メディアが貴乃花を【改革者】として喧伝した事にある。上で指摘したように、貴乃花は自らを【絶対的価値】の体現者として考えていたはずである。メディアもそういう視点で貴乃花を評していた。

だから、彼は全てを拒絶し、【白か黒か】の二分法的思考法で協会に迫った。「俺が正義」だと信じていたはずである。

ところが、場所中の弟子の暴力事件発覚で、【絶対的価値の体現者】としての貴乃花の自尊心が音を立てて崩れたのだろう。そうでなければ、その後の彼の異様な恭順さは理解できない。「俺が間違っていた」というのは、貴乃花にとって耐えられない屈辱だったに相違ない。

わたしは、以前から、貴乃花は決して「改革者」ではなく、復古主義者であると断言してきた。

・・・『「暴力」、特に強者が弱者に対して行う「暴力」=「いじめ」は、大学の体育会系などで顕著にみられたように、「閉鎖的社会」で起こりやすいというのは、今や常識であろう。

と言う事は、相撲社会を「閉鎖集団」から「開放された集団」に変革することを、真っ先に考えなければならない。

実は相撲協会は以前の暴力問題の反省から、その事を実践している。暴力事件の温床になる相撲界の「閉鎖社会」の最大の要因は、「部屋制度」と「親方絶対制度」にあるという認識から、改革に乗り出しているのである。
※意外と報道されていない。(ネグレクトされている)

★相撲取り一人一人が相撲協会員。つまり、相撲協会という会社に就職した会社員というわけである。親方と弟子という関係から、協会と相撲取りという関係に変化している。

★親方は、この会社員を協会から委託され、教育、指導、訓練するための支援員。

ところが、貴乃花は、親方=父 弟子=息子 という認識を強く持っており、弟子を守るという意識を強調している。だから、暴行事件の被害者貴ノ岩には一切メディアで語らせず、隠し通した。

ところが暴力事件を生む温床が「部屋制度」と「親方制度」にあるという考え方は、相撲取り一人一人の自立意識を育成し、物事は、力でなく何事も話し合いで解決するという意識を育てなければならないという認識に基づいている。近代社会では常識であろう。

貴乃花親方の行動は、この認識に反している。』・・・(貴の乱始末)

相撲界の問題発覚以降、レスリング、アメフト、ボクシング、体操などのパワハラ問題や暴力問題などを見れば、その組織、集団の「閉鎖的体質」が問題の根源にある事は明白。相撲協会の改革が、問題の根本的改革の正しい方向性にある事は明白だ。

今回、貴乃花の引退理由の一つに挙げられた「親方は一門に属さなければならない」という改革は、協会から配布されるお金の使途の透明性確保に一門を活用しようとする近代化の一つと考えられる。貴乃花の語る改革とは、完全に一線を画していることが理解される。

貴乃花は、引退会見で弟子に対する愛情を強調していたが、以前の彼なら「相撲道」を強調してやまなかったが、それは影を潜めていた。

ここから見えるのは、彼にとっての「相撲道」というのは、結局、「相撲が大好き」というものだ、と言う事である。彼の語り口を聞いていて、それは感得できた。

これは大変貴重な教訓で、どんな高邁な理念もどんな難しい理屈も、所詮付け足し。余分なものをそぎ落としていけば、「最後に残るのは「大好き」というきわめて人間臭い感情に収斂すると言う事である。

つまり、「相撲道」とか「神事」とか様々な理屈は、所詮【意匠】だと言う事なのである。これが、貴乃花が最後にたどりついた境地なのだろう。

貴乃花が多数派の形成ができなかったのは、「相撲が大好き」という原点を真の意味で周りの人間に理解されなかったところにある。それを「相撲道」とか「国体」とか後から武装した理屈で説得しようとした事が、最後は自分を孤立化させた。

高邁な理念に基づいての行動だから、多少の非礼は許されると考えたのかも知れない。これが命取りになった。

そんな理屈はいらなかったのである。本当に相撲が大好きで相撲を愛しているからこそ、暴力などとは無縁の相撲界にしようとただただ訴えればよかった。それさえ理解してもらえれば、日馬富士も許し、和解に応じればよかった。

スポーツはこのように物事を単純化できるところに良さがある。何故なら、人間は間違いを犯す生き物。しかし、間違いに気づき、反省できる生き物でもある。この単純化に回帰することが、集団・組織の中で自らの考え、理念を理解してもらう最大の武器だ。

この事は子供を教えたら一番良く分かる。こどもを引っ張る事ができるのは、つまらない理屈でなく、「好き」にさせるのが一番。子供が生き生きと活動しているのを見て、怒る人はいない。

その意味で今回の貴乃花の引退は、彼が理論武装してきた【相撲道】という抽象的な理念の敗北でもある。

同時に、【集団】と【個】のありように重要な教訓を残した。組織、集団を内から変革するためには、外部の力を借りて実践するのは最後の最後。内部の改革勢力を糾合する努力をしなければ不可能。

その為には、様々なもめごと、不祥事の解決には、真摯な態度で向き合い、できるだけ合理的な落としどころを探らなければならない。人の恨みを買うのは、もめごとの解決の過程での発言・態度にあるからである。仲間内の論理や個人的思い込みを捨て去る覚悟が求められる。

今回の場合、日馬富士とともに謝罪に訪れた伊勢ケ浜親方の目の前で車に乗り、謝罪を受け入れず、追い返した貴乃花の行為は、相撲協会の多くの人が眉を顰め、人々の反感を買ったはずである。その他、協会の使者を追い返すなどあまりにも非礼で常識に反した行為が多すぎた。

さらに、当時の貴乃花の歩き方、表情など、多くの人が「あれは何なんだ」と眉をひそめた。「あんな人間の言う事など信用できるか」と思われても仕方がなかった。

これでは集団の支持など決して取り付けられない。たとえ、貴乃花の主張に理があったとしても、誰も彼を支持しない。

今回の貴乃花の引退理由も釈然としない。あれだけの「乱」を起こしたのである。当然ながら、貴乃花が敵として標的にかけた力士、親方など多くの人間の恨みを買っている。【水に落ちた犬は打て】の報復は覚悟しなければならない。その為には、あの手この手で貴乃花を追い落とす方策が練られても不思議ではない。

そんな内幕をばらしても何の意味もない。所詮、負け犬の遠吠え。「あなたの反乱で傷ついた人間やその仲間がどれだけ悔しい思いでいるかを考えなさい」、と反論されるだけ。

もう一つ、貴乃花が見落としている事がある。彼に全ての責任があるわけではないが、あれだけメディアに取り上げられ、相撲協会や相撲取りや親方衆など相撲に携わる人間たちが好奇心の対象にされたのである。それこそ重箱の隅をつつくように、あらさがしをされ、あれこれ批評されていい気持ちになる人間などほとんどいない。

相撲界で生きている人間にとっては、それこそ迷惑千万。貴乃花はその責任も負っていると考えなければならない。彼が年寄会でつるし上げ同然の立場になったのも無理はない。

外部のメディアを使う事は、その反動の大きさも引き受ける覚悟がいる。メディアを利用すると言う事は、そういうリスクを背負う事でもある。

わたしから言わせれば、【信念を貫いて辞めた】という世間的評価のために、内閣府に提出した告訴状の内容は真実だ、などという反論は、言わない方がよかった。

ただ黙って相撲界を去れば、平成の大横綱の貴乃花の名前は見事な散り際として永久に語り続けられただろう。その方がはるかに貴乃花の言う【美しさ】にふさわしかったと思う。

「護憲+BBS」「マスコミ報道を批評する」より
流水
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医大入試の女性制限から思う医療の問題

2018-09-26 10:40:58 | 社会問題
東京医大が、女性の入学を男性よりも厳しく制限していたニュースが流れた。そして引き続き、他の多くの国公立・私立医大の男性:女性の合格率が、東京医大の1.29を上回り、高いところでは1.5、1.67と男性が多い。試験を受けた女性たちは不公平な扱いを受け、人生を変えられた人もいたことだろう。

女性を制限した理由は、妊娠・出産・育児があるため「戦力外」となる時期があるからだという。

でも、これってハンディだけなのか。自身の体験から、その状態の患者に深く共感できる人が増えることは、医療の現場にも深みを与えるのではないだろうか。

そしてこれは女性蔑視だけでは片付かない問題を孕む。若手医師の毎月何度とある当直、80時間を超える残業が当たり前の現実、無理な業務を押し付けて当然といった、医療の現場の問題がある。

息子の友人のA君。柔和な青年で、さぞ良い医師になったことだろう。その彼は研修医の時、当直明けに日中の業務をこなし、帰宅中に自損事故で短い一生を閉じた。疲れ果てて一瞬の居眠り…と誰もが思った。

日本の医療制度は海外と比べ良くできていると聞く。保険があって、医師を選べて、診察を受けたいときに受診できる。しかしそれが医師を多忙にさせていることも確かだろう。そして「一時期は真夜中まで働かせられないかもしれないから」という女性の差別につながった。

となると、医療を使う私たちも考える必要があるのかもしれない。

10年ほど前になるが、兵庫県の病院で小児科医が過労で辞め、いなくなるかもしれないという事態となった。地域の拠点病院なのに、小児科が閉鎖されれば、産科も閉鎖される可能性が高い。

その時、1人の母親が、医師の過重労働に気づき、自分たちの問題として考えてみようと周りの母親たちに、①重症者のための夜間診療をコンビニ感覚で利用するのは止めよう、②かかりつけ医を持とう、③医師に感謝の気持ちを伝えよう、と呼び掛けた。

小児救急の電話相談を周知させ、緊急性の判断を電話でしてもらえることで母親の不安を取り除く一方で、過重労働から医師を守ることが、地域の子供や住民を守ることであると気づかせたのだ。携帯で医療情報や講座をお知らせし、小児救急冊子「病院に行く、その前に…」は重症児を見逃さないようにと作成・配布されたという。行政も協力して小児科も産科も無くさずに済んだ。http://www.kaibara-hp.jp/

さて、話を元に戻して、女性の受験合格者を減らしたいという医大の思惑が非難されるのは当然だ。女性医師を一律に「戦力外」扱いをするなど、差別以外の何物でもない。

しかし、その時、なぜ医大や病院側が女医を好まないのか、男性医師の多忙も問題ではないのか。医師の過重労働が当たり前になっているところに、自分たち医療を受ける側の問題もまた、潜んでいはしないかと、改めて省み考える必要があるのではないだろうか。

「護憲+コラム」より
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沖縄県知事選:辺野古新基地「絶対造らせない」 玉城デニー氏が総決起大会

2018-09-23 21:34:53 | 沖縄
『30日の沖縄県知事選に立候補した「オール沖縄」勢力が推す玉城デニー氏(58)は22日、那覇市の新都心公園で総決起大会を開いた。玉城氏は「みんなで一つになれば大きな力を発揮することができる。翁長雄志知事の理念を全うし、貫いていく」と決意を述べた。
(略)
ひやみかちうまんちゅの会の呉屋守將会長は「ウチナーンチュ一人一人は弱いが、集まれば万人の矢となって、さらに大きな力となる」と訴えた。富川盛武副知事は「玉城氏は沖縄を誇りある豊かさに間違いなく導く」と主張。翁長氏の妻樹子さんも登壇し「翁長が心の底から愛して、140万人県民を本当に命掛けで守ろうとした沖縄。ぬちかじり(命の限り)頑張りましょう」と呼び掛けた。』
沖縄タイムス+ニュース9/23
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/318842

沖縄県知事選に向けて、佐喜真淳氏と玉城デニー氏が現在激しい選挙戦を繰り広げていますが、昨日のデニー氏の決起集会「玉城デニーうまんちゅ大集会」には、ネット上にも映像と共に感動のコメントがたくさん流れてきました。

下記は、デニー氏と翁長樹子さんのスピーチ部分の映像ですが、どちらも沖縄の心をまっすぐに語り、翁長前知事の遺志を継いで沖縄を守るという力強い決意が語られた、感動的な映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=kRb56vS1hDc&feature=youtu.be

デニー氏は、自分の生い立ちを紹介しながら、自分のよって立つ「沖縄のアイデンティティ」を、「とぅーぬいびーや いぬたきーやねーらん (10本の指は同じ高さではない)」「いーまーる(結)」「ちむぐくる(肝心)」、すなわち「多様性」「相互扶助」「優しさ、心の底から相手を思う気持ち」だと語りました。

デニー氏はその上で、子供を大切にし誰一人として取り残されることのない優しい社会を作る具体的な構想を語り、なおかつ、平和と経済を両立させる、平和であることを希求するとして、辺野古基地は作らせない決意を訴えました。

集会の最後にスピーチをした故翁長氏の妻樹子さんは、涙に言葉を詰まらせながら、
「県民の心に1ミリも寄り添おうとしない相手の方に、悪いけど、私は譲りたくありません。ウチの人の心をデニーさんが継いでくれるのかと思ったら涙が止まりませんでした。残り1週間、マグマを噴出させてでも必ず勝利を勝ち取りましょう。 簡単には勝てない 簡単には負けない。 必ず勝利を勝ち取りましょう。 」
と言って、大きな拍手の中、デニーさんと固い握手を交わしました。

安倍自民党は、自民党総裁選同様、この沖縄県知事選でも、争点隠しや、怪情報の流布、権力・組織による締め付けと、沖縄の大らかなアイデンティティとは真逆の手法で、形振り構わない選挙戦を繰り広げています。

デニーさんもスピーチで言っていましたが、沖縄県知事選での勝利は、日本政府やアメリカから沖縄を取り戻すだけでなく、人と人を分断する政府の悪政と対峙する全国の人々の勝利に繋がります。その意味からも、何としてもこの選挙戦に勝ってもらいたい。沖縄県外に暮らす私は外から見守るしかありませんが、心から応援したいとの思いを新たにしました。

結果まであと一週間。「ぬちかじり、ちばらなやーさい!」(命の限り頑張りましょう!)

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
笹井明子
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「日本的集団主義の問題」の根底にある3人の思想家の論理

2018-09-23 10:14:52 | 社会問題
流水さんの体験的な問題提起に私なりの回答を現在準備していますが、問題自体が政治思想の大問題なので現段階では予告(問題点に触れるのみ)しか用意できていません。

この問題を探究してきた思想家は大体3名いると思います。丸山真男、加藤周一、網野善彦。いずれも日本を代表する世界的な思想家であり、歴史家です。

丸山氏は、戦後の著書で戦争(太平洋戦争)の諸相に触れて、日本の国家体制を「無責任の体系」として精緻な議論を展開し、その後も「古層論」で日本の思想史や歴史に通低する論理を明らかにしています。一言で言うと、そのときどきの事態の勢い、趨勢(なりゆき)が、時代状況を決定するシステムであったと言っています。

加藤周一氏は、戦後の早い段階で「雑種文化」としての日本文化論を提起し、日本の通念であった日本文化の純粋主義や独自論を否定しています。そして日本の社会を思想史的に明らかにして、日本社会は「集団主義」であるとし、これは伝統的な性格(多分、近代になってからの伝統であると思います)だと表現しています。

網野善彦氏は、従来の(今も)通念であった歴史の枠組みを疑う古文書や文献以外の証拠(史料としての伝承や遺跡)を新しく発見し、日本文化の単一性をまず批判し、日本の文化は大きく3つに分かれていたこと、特に東と西では歴史の起源からして全く異質であることを実証しています。

そして、律令制という日本の歴史はミスリーディングな制度であるとし、日本が稲作を基本的な文化であるという枠組みを否定。「水田稲作文化」というのは完全なフィクションであると表現しています。

特に江戸時代はこの枠組みは「士農工商」として為政者が国民を分別しているが、大きな擬制にすぎず、能登の海鮮問屋であった「時国家」の土蔵から、この漁師の元締めは「水のみ」と幕府が規定していることはとんでもないフィクションであると批判しています。そして、百姓≒農民という通念を否定し、百姓は多様な性格の職業を持った人々であり、農民はその一つにすぎないと喝破しました。

学界はこの網野説を未だに認めていませんが、士農工商になぜ漁民が存在していないのか、網野説が妥当なことは明らかでしょう。(日本は漁民が活躍してきた国で、歴史学会の結論は笑止千万。)

今回は予告だけなので、以上の思想家の枠組みをもとにあらためて回答を準備する予定です。つまり、集団主義という問題の根底には3名の思想家の緻密な論理構成による実証が存在する。これを流水さんの引用している三谷氏などの論理には反論するような「実証性」があるのか。これが大きな疑問符であるということです。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
名無しの探偵
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日本的集団主義の問題

2018-09-22 20:20:23 | 社会問題
名無しの探偵さんが、三谷太一郎氏や小熊英二氏の日本的集団主義理解に「?」を呈しておられます。「さすが」と思います。
https://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/e/d51dd8ffea59b5e64cb463c5806581c2

集団主義の理解も、企業・官庁・労働組合・学校・地域・・スポーツ集団などなど属している集団によって違います。企業でも会社によっても違います。それこそ千差万別であり、本当に「日本的集団主義」とひとくくりにするのが正しいのか。議論の分かれるところでしょう。

そして支配層が【集団主義】にアレルギーを起こすのは、共産党や社会党、労働組合の集団主義だと思います。これを解体するのが、戦後保守政治の一つの目標でしたから。

この問題の難しさに輪をかけているのが、【世間】というよく分からないものがあります。西欧的にいうならば、社会とでもいうのでしょう。

この問題は、多くの社会学者や知識人が取り上げてきました。しかし、現在でも不祥事を起こした個人や会社、政治家などは、「世間をお騒がせしまして申し訳ありませんでした」と謝罪するのです。と言う事は、いまだに日本では社会と世間というものが定義なしに使われているのでしょう。

わたしは教師でしたので、担任のクラスがありました。その中で、もつとも苦心したのが、学級集団の雰囲気と質の問題でした。ですから、集団と個人の問題を考える事は、教師の仕事そのものでした。この問題は教師の経験のある人ならだれでも理解できるのですが、なかなか部外者には理解してもらえないものです。

同じクラスと言っても、生徒はみな別人格を持った個人です。それぞれの個性があります。一人一人の生徒の個性尊重が戦後教育の建前です。

ところが、生徒たちの能力も個性も千差万別なので、それを充分に尊重し、一人一人の個性を伸び伸びと発揮させるのは至難の業なのです。そのノウハウなど理屈では多少理解できても、実践するとなるとほとんど不可能ではないか、と思えるほどです。

ですから、日本的集団主義の当否などを考える前に、現実の集団をどう考え、どう一人一人の個人を生かしていくかは、まったなしの実践的な課題なのです。この点が肝心です。

私見では、ここで一番重要なのは、集団と個人の【意識】の問題です。相手は生きている人間です。【意識】は毎日毎日揺れ動きます。これをきちんと観察できるかどうか、が担任教師の力量です。

まず教師がきちんと認識しなければならないのは、個人の「意識の総和」が「集団の意識」にストレートにならないということです。例えば、強権的で独裁的な担任教師の場合、生徒たちは教師に忖度した【意識】にならざるを得ません。担任教師は、「生徒は良く分かっている。俺のクラスはきちんとしている」と錯覚します。

ところが、担任はそれで満足でしょうが、往々にして他の教師は大変迷惑を受ける場合が多いのです。単純な話です。担任教師に辟易した分、他の弱い教師の授業で元を取るのです。担任教師が「俺のクラスの子供はきちんとしている」と胸を張っていても、本当の生徒たちの意識は別のところにあるのです。

このように、集団の意識(例えば試合に勝とう)が個人の意識にならない場合も多いのです。理由は明白です。この「集団の意識」というのは、往々にして教師の意識の投影になる場合が多いからなのです。学校・教師という立場上、やむ負えない部分もありますが、担任をしているからには、その辺りはきちんと認識しておく必要があります。

次に重要なのは、「個人の意識」は、「集団の意識」に非常に感化されやすいのです。(※いじめなどが典型的な例)授業中の雰囲気もクラスの意識に連動します。だれかがあの教師の授業は厭だな、と言い始めます。当然、俺も嫌だ、あたしも嫌だ、という付和雷同者も出ます。これが授業の雰囲気を壊します。酷いときには、授業が全く成立しない場合もあります。当然、その教科の成績は落ちます。

義務教育では、クラスの生徒はみな同じ時間帯で同じ勉強し、給食を食べ、掃除をします。否応なく「集団生活」を営まなければなりません。その生活リズムが乱れたり、真剣に取り組めなかったりしたら、その生徒一人の問題だけではなく、同じクラスの生徒全員が不利益をこうむります。

わたしも何度も経験しましたが、生徒の信頼のない担任教師のクラスの成績は間違いなく落ちます。それは見事なくらいです。成績だけがすべてではありませんが、入試がある以上、ある程度の成績は取らなければなりません。この問題をどう解決するか。

最大の問題は教師の力量ですが、これだけは教えてできるものではありません。教師本人の考える力、物事をきちんと見る力、判断する力、生徒の心を理解する力(共感する力)、実践する力などなどそれこそ人間としての総合力が問われるのです。

一人一人の生徒を大切にし、個性を尊重し、楽しく伸び伸びと学校生活を送り、大切な友人もつくり、学業生活もきちんと行う、というのが理想です。

同時に教師たちにも、どうしても教えておきたい事柄もあります。例えば、一人一人の人権を大切にするにはどうしたら良いか。大きく言えば環境問題に収斂しますが、教室の美化・清掃活動をどうやって熱心に取り組むか。話し合い活動を通じて、民主主義のイロハをどのように身につけさせるか。等々。

学級つくりを行う事は、集団と個人の問題をどのように克服するかを問う事と同義なのです。同時に、【人権】とか【民主主義】とかをどのように現場で具体的に根付かせるかの実践の場でもあります。

例えば、授業だけで「人権」を教えても、生徒たちは決して変わりません。生徒たちの日常生活の中で何気なく出る言葉、態度、声音などをその場で注意し、その場で一つ一つ指導しなかったら身に付くものではないのです。この時は本気で怒ります。絶対、建前では怒らない事にしていました。

同時に、クラスで起きた【人権侵害】にあたる問題は、それこそエンドレスで話し合う覚悟がいります。簡単な注意や指導で治るなら、とっくの昔に「いじめ」など無くなっています。

わたしは「帰りの学活」が終わった後、生徒を残して一時間でも二時間でも徹底的な話し合いをしました。その中で生徒一人一人が変容するのを待つ以外、方法はありません。それこそ「我慢と忍耐」なのです。

わたしの口癖は「だんだん良くなる法華の太鼓」でした。その心は、法華経の「うちわ太鼓」は、近所で聞いている人間にとって、迷惑以外にありません。ところが、毎日毎日叩いているといつの間にか太鼓の音が澄んできて、意外に心地よくなるのです。

それと同じで、生徒たちのやる事は、最初は下手糞だったり、見ておられないのですが、そのうち上手になるものです。特に【意識の問題】は内心の問題です。長い目でゆっくり育つのを待たなければなりません。

ところが現実の学校では、上記のような教育を行う事は求められません。それよりも、問題がない学級を求められます。上記のような教育を行おうとすると時間がかかります。生徒の成長が学校や保護者の要求と食い違う場合が多いのです。現実の学校では、生徒の成長を【待つ】事が難しいのです。

その為、一番手っ取り早い方法論は、教師の強権的指導(上意下達)で生徒を有無を言わさず従わせるやり方です。その時の理屈が、【日本的集団主義】に依拠したものになるのです。

「個人の事情も分かるが、全体の事を考えろ」「個人のわがままは我慢しろ」「人に迷惑をかけるな」「いちいち文句を言うな」的方法論になりがちなのです。日本的集団主義の負の部分がもろに出てきます。これに付け加えて【世間の目】が強調されます。特に管理職は敏感です。「世間はそう思わない」というのが、錦の御旗です。現場の教師たちの抗議もこれで押さえつけるのです。

この方法論に慣れると教師の力量は上がりません。現在の学校現場は、教師の位階が細分化され、上司の教師の権限が肥大化しているので、この傾向が酷くなっていると思います。

ではわたしはどうしたか。まず、クラス(学級)の基本的な考え方です。

①生徒が安心できる学校・学年・学級が一番重要
②生徒たちに教師集団の理念・精神などがきちんと視えている
③教師一人一人が個性的で独自の理念と方法論を持ち、それを発揮できる条件がある⇒※ これが大変難しい。校長・教頭・主任などが強権的体質だった場合、みな同じ顔になるように強制される。学級担任などがそれに抗するのは、至難の業。
④秩序重視の硬直した生徒指導が行われていないか
⑤授業の雰囲気が【生きてるか】⇒授業事態は静かなのだが、生徒の雰囲気は死んでいる授業が多い。⇒生徒の目が生き生きと輝いている授業を創出することが重要
⑥部活動の論理が優先されていないか⇒現在問題になっているスポーツの様々な暴力問題などは、部活動の論理がすべてに優先された結果起きる場合が多い。
⑦自分の教育活動の実践の理論化、実践の総括がきちんと行われているか
⑧女性教員の活躍が保証されているか
⑨その他

教師の活動は、生徒たちの支援者(ファシリテーター)である、という基本姿勢を貫く必要があります。同時に、次に何をどうすれば生徒がより成長できるかを考えるためには、生徒の成長を測る評価の視点を持たなければなりません。

わたしは以下の視点で見るようにしていました。

①自治能力⇒自分たちの生活を自分たちで制御できる力
②自己表現能力⇒自分自身を語れる力、自らの思いを要求する力、身体的・芸術的能力を育成
③耐える力   
④要求する力⇒ ※ この力の育成が重要⇒教師の力を育てる
⑤学習意欲の喚起⇒教師の力量の最大の評価視点
⑥人権感覚をどう磨くか⇒いじめ撲滅の鍵
⑦民主主義的技の習得と習熟⇒民主主義の基本は話し合い。その技を習得しなければ、話し合い活動は活性化しない。

実は、通知簿での「生活評価」より、わたしはこの「生徒の成長評価」を重要視していました。「生活評価」は公簿ですので付けざるを得ませんでしたが、保護者との個人面談の席では、主に「成長評価」で話しました。

列記した項目一つ一つにどのような方法論で育てるかの詳細なプログラムを作成し、それを基に学級(クラス)を育てました。

最大の目標は、生徒一人一人が自立し、学級が自治的に運営できるように、子供たちの人権を最大限保証し、誰もが安心して生活し、誰もが平等で公平な立場で学級生活を送れる学級を創出する事でした。

その中でマイナスイメージが多い【集団教育】に新たな光を当てるのが、目標でした。

今回の「平成時代とは」で三谷教授の【日本的集団主義】が弱体化しているという論を読みながら、30年遅いと思いました。現在、大問題になっている少子化の問題も、わたしが現役時代の教師の間では常識でした。それはそうでしょう。毎年毎年新入学生の数が減ってくるのです。これが将来どうなるのだろうか、と考えない奴は馬鹿です。

以前にも書きましたが、「時代の矛盾は、最初に一番弱いところに現れる」のです。その意味で、このような時代の矛盾を見抜けなかった支配層の意識の低さにあきれています。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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「サロン・ド・朔」9月27日例会のお知らせ

2018-09-21 16:10:29 | イベント情報
「サロン・ド・朔」9月27日例会を下記のとおり開催します。

今回は、2016年に制作され、今年の憲法記念日前後に日本各地で上映されて大きな反響を呼んだドキュメンタリー映画「コスタリカの奇跡」のDVD鑑賞をし、その後参加者全員でフリーディスカッションをします。

【コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~ 】
『世界には軍隊なしで国の平和を保ってきた国々がある。そんな数少ない国の一つで、1948年に常備軍を解体した国がコスタリカだ。
コスタリカは軍事予算をゼロにしたことで、無料の教育、無料の医療を実現し、環境のために国家予算を振り分けてきた。
その結果、地球の健全性や人々の幸福度、そして健康を図る指標「地球幸福度指数(HPI)」2016の世界ランキングにおいて140ヶ国中で世界一に輝いているのがコスタリカである。
またラテンアメリカで最も安全とされている国でもある。 』
https://www.cinemo.info/movie_detail.html?ck=48

日本国憲法を「いじましい」「みっともない」と公言する安倍首相が総裁三選を果たし、改めて「9条に自衛隊を明記する改憲」を任期中に実現したいとの意思を表明。「改憲のための国民投票」がいよいよ現実味を帯びてきました。

そんな状況下、今回の例会では、コスタリカの例をヒントに、「アメリカ一辺倒からの脱却」と「戦力不保持」を両立させる可能性を探り、「憲法9条」の本来的な意味と意義について考え、話し合いたいと思います。

「護憲派」「改憲派」を問わず、「憲法」と「安全保障」についてしっかりと考えてみたい方の参加を歓迎します。
参加ご希望の方は、下記「護憲+」宛てメールに、その旨ご連絡ください。折り返し、会場その他の詳細をお知らせします。
rojinto_goken@mail.goo.ne.jp

■日時:9月27日(木)18:30~21:30
■会場:「フリースペース 朔」(JR水道橋駅から徒歩2分)
■会費:500円(飲み物、軽食付き)

====
☆「サロン・ド・朔」とは、「護憲+」メンバーを主軸に運営するフリーな集まり(@東京)で、原則毎月テーマを決めてそれに相応しい講師をお招きし、勉強会・親睦会を行っています。皆さんの参加を歓迎します。

2017年以降に取り上げたテーマは以下のとおりです。

(2017年)
 1月:「AIはトランプを選ぶのか~民主主義と憲法の未来像~」(他グループ主催シンポジウムに参加)
 2月:「パレスチナ・シリア情勢と子どもたち」
 4月:DVD「いのちの森 高江」視聴/「教育勅語と戦前・戦中教育」
 5月:「森友問題の幕引きを許さない」
 7月:「民進党は民意の受け皿になれるのか」
 9月:「9条問題の本質を「護憲」の立場で考える」
10月:「信念を貫いた人―劉暁波氏と1980年代以降の中国社会」
(2018年)
 1月:「一歩先んじた韓国の民主主義~宇都宮健児さんと行った韓国ソウル視察旅行」
 2月:映画「NO」DVD鑑賞会
 4月:「戦前戦中の女性の研究の目を通して、今の政治・社会を見て思うこと」
 5月:「沖縄の現状と今後」
 6月 「ギャンブル依存症を考える」
 8月:映画「憲法9条・国民投票」自主上映会参加

「護憲+BBS」「イベントの紹介」より
笹井明子
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総裁選が日本の政治を決める?

2018-09-20 17:18:08 | 民主主義・人権
「総裁選が日本の政治を決める?」こうした政治的な重要問題が、民主政治や憲法の基本原理である「国民主権」と大きなギャップがあり、しかも総裁選の候補二人がいずれ劣らぬ反憲法の極右政治家なのである。

なぜ、こうした事態(憲法秩序の空白、民主主義の沈黙)が起きるのか。それは憲法自体の自己矛盾にある。議院内閣制という、本来的に民主主義的な国家ではなかった英国の「一つの時代の産物」を、旧憲法の継承として採用したからである。

英国などのように二大政党がしのぎをけずる国家では、民主主義の破綻(ファシズム)を招いたりはしないが、日本のような集団主義(流水さんの引用する学者たちの見解には疑問が多い?)を伝統とする国家では、全体主義や独裁国家を自ら招いてしまう。国民が選挙を他人事のように考えている風土であるからだ。それが「集団主義」の末路なのである。隘路とも言える。

確かに、経済や会社組織がうまく機能して、労働組合などの中間集団が政治的にも発言力を保っていた(社会党の存在は意外に有効だった)時代には、こうした民主主義がまがりなりにも民主主義を支えていたし、憲法秩序も安定していた。「集団主義」や「戦後民主主義」の黄金時代だったのであり、高度成長という経済的な成功と企業の健全化を示していた。太平洋戦争の惨禍を生き抜いてその反省も生きていたからである。

しかし、この蜜月、黄金時代も(主に米国の操った)日本経済のバブル崩壊とともに「風とともに消え去った」のである。そして世界はグローバリズムという妖怪(モンスターとも言える)の新しい波(ヌーベルバーグ)にも曝された。それはアメリカの低所得層への貸付破綻不況から始まり、リーマンショックで幕を閉じたのである。これは1930年代の大不況を凌ぐものであった。

この二重の不況は戦前の昭和恐慌を思い出させる。その次にやってきたのが軍国主義であった。具体的には軍部による政権の掌握であり、その前夜に起きた5.15事件、2.26事件という政府要人の暗殺テロであった。そして日中戦争、太平洋戦争へと突入し国家自体が崩壊したのである。

現在、この状況が再現されていると私は見ている。実際、歴史家の半藤一利先生、保阪正康先生、坂野潤治先生は、安倍政権を戦前の軍部進出の時代に類似していると警鐘を鳴らす。

議院内閣制という危うい制度が政党独裁化せず、なんらかの形でバランスを取っているときはうまく機能するが、長期に独裁化した安倍政権というモンスター内閣の出現によってバランスが破壊されると、暴走を誰も止めることはできない。

これが現在の悪循環の正体なのである。国民が「観客民主主義」から目覚めない限り日本のファシズムは終わらない。

「総裁選」などという憲法の想定外のことでマスコミが右往左往しているのは、戦前のドイツに起こった「ワイマール体制」の崩壊を想起させる。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
名無しの探偵
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