・・・「立派だったよね。今まで見た佐川さんの中で一番立派だった。官僚的には考え抜かれた立派な答弁」「野党から見ると、佐川さんにこういうこと言ってほしいという内容はゼロだった。そういう意味で、佐川さんの答弁は100点ってことじゃないですか」
呆れた発言の主は財務省の幹部や職員だ。27日、佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問への反応として、日本テレビが報じたものだ。・・・
(日刊ゲンダイ)
これが日本の最高頭脳の集まりと称される財務省の高級官僚たちの思考である。見事なばかりに【真実を語る】などと言うモラルが抜け落ちている。それどころか、「野党から見ると、佐川さんにこういうこと言ってほしいという内容はゼロだった。そういう意味で、佐川さんの答弁は100点ってことじゃないですか」と言う評価を下している。見事なばかりの日本の支配層(政治家・官僚など)の伝統的な思考法「民は寄らしむべき、知らしむべからず」の表現である。
この評価で分かるように、日本の最高の頭脳集団たちの思考法は、国民に真実を知らせず、如何にその本音を隠した答弁を行うか、という点に集約されている。論理明晰で意味不明という【東大文学】そのものである。
日本の官僚答弁の難解さは、国民に物事の本質を知らせず、それでいて何かよくわからないが、国民の支持(積極的支持ではなく、文句を言わない消極的支持)をいつのまにか取り付けているような雰囲気を醸成するための方法論であることに起因する。その為に、官僚たちは、【言質】を取られないように、断定を避け、どうにでも言い訳が利くように持って回った表現をする。財務省は、そのような答弁の達人が多い。
ただ、日本の最高の頭脳集団と呼ばれる彼らの能力をこのような目的のために使う、というのは、「才能の無駄遣い」。日本にとって大きな損失。本当にもったいないと言わざるを得ない。
文部科学省の前次官前川喜平氏は、そのような官僚の能力を無駄遣いする政治のありように異を唱え、政権と厳しく対峙した。前川氏は「教育に対する自らの信念」に忠実であろうとした。
日本と言う国や社会で、自らの信念を貫こうとすると、それこそありとあらゆる場所や場面で既存のシステムや権威とぶつかり、【角】を立てなければならない。そういう中で、前川氏は次官まで上り詰めたのだから、彼には能力の高さ、行動力と言動の慎重さと説得力と人望があったのだろう。そこが貴乃花などと決定的に違った。
前川氏は次官まで登り詰めるまでには、自らの信念を曲げるような妥協を何度も何度も繰り返してきたはずである。そうしなければ、次官まで出世できない。
そんな彼が役人生活の最後に時の政権と厳しく対峙した。何も言わずに黙って退職すれば、天下り先は保証され、億を超える退職金をもらえ、勲章ももらえ、悠々自適の老後が保証された。それにも関わらず、それらを全部投げ捨て、自らの信念に殉じて政権と対峙した。
「あった事を無かったとは言えない」という彼の倫理観は、多くの国民の心を打った。官僚の道徳観、倫理観とはこういうものか。エリートの責任感とはこういうものか。どれだけ多くの国民が、前川氏の言動に心を打たれ、喝采を贈ったか。彼ほど、日本の官僚の名誉を高めた人物はあまり見当たらない。
それに比べて佐川氏はどうだろうか。財務省の後輩たちの評価は、【見事な官僚答弁】だという事らしいが、国民たちの心をつかめたろうか。彼の答弁が国民の心にストンと落ちたであろうか。
答えはNOである。彼の答弁は、何一つ国民の心に響かなかった。ただ一つ、明快に理解できたのは、【刑事訴追】の恐れのある事に手を染めていたのであろう、という推測と、自己保身のための理屈ばかりだ、という事である。
彼の答弁を聞いていると、官僚としての苦悩、人間としての苦悩・悩み・苦しみが伝わってこない。彼の答弁は、「答弁マシン」ではないか、と思えるほど、一切の人間的要素が削り取られていた。
わたしは、証人喚問前、佐川氏に同情していた。安倍夫妻や安倍政権のために、自らの責任でもない事案の答弁を行い、答弁の整合性を取るため、決裁文書の改竄までやらされた。「すまじきものは宮仕え」を地でいったような人物だと思っていた。
証人喚問では、その「宮仕え」の苦悩が滲み出るのではないかと期待していたが、見事に裏切られた。彼は、最後の最後まで悪い意味での【骨の髄まで官僚】だったと言う事になる。
一体全体、彼の倫理観、道徳観はどうなっているのか。この点について、面白い記事が載っていたので紹介する。
佐川氏証人喚問で露呈した「小学生レベルの道徳性」 あの情けない姿を心理学的に見る
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55040
2018.03.29 原田 隆之 筑波大学教授 現代ビジネス・・
・アメリカの心理学者のコールバーグは、道徳性の発達について、6つの段階に分けて説明している。それは、以下のような6段階である。
(1)罰の回避と服従の段階
(2)相対主義的な利益を志向する段階
(3)同調し「よい子」を志向する段階
(4)既存の法と秩序そのものを尊重する段階
(5)合意や契約によって変更可能なものとして法や秩序を遵守する段階
(6)一人ひとりの人間の尊厳の尊重といった普遍的倫理原則を志向する段階
小さな子どもは誰しも、親や大人に叱られたり、罰を受けたりすることがないように行動する。それが、子どもの道徳性である(第1段階)。
しかし、成長に伴って、より打算的になる。「相手が自分にとってよいことをしてくれれば、自分もよいことをしてあげる」という相互主義的なルールに従って行動する。一見、公正であるように見えても、自己中心的な道徳性である(第2段階)。
その後、仲間集団など、自分が準拠する集団のルールに同調し、「よい子」「よいメンバー」として振る舞うことが道徳的だと思うようになる。これも一見、「よい子」には見えても、拡大された自己中心性にすぎず、より大きな社会のルールや規範を無視してしまうこともある(第3段階)。
もっと成長すれば、自分や自分の属する小さな集団の利益ばかりを追求することが「よいこと」なのではなく、社会の法や規範を守ることが道徳的なのだと言うことを理解し、そのように振る舞うことができるようになる(第4段階)。
さらに進んだ段階として、権威から押し付けられた法や社会規範が絶対なのではなく、社会にはさまざまな価値があり、それを守るために合意によってルールを変更すべきだという柔軟な道徳性を持つに至る。われわれがルールに仕えるのではなく、自分たちのためにルールはあるということを理解できる段階である(第5段階)。
そして、最もレベルの高い道徳性は、普遍的価値、倫理的原理に従った行為が正しい行為だととらえる段階であり、法を超えてでも「正しい行い」をすることができる。ときには、その社会や時代には理解されず、後世になってその偉業が称えられることもある(第6段階)。
・・・
前川氏の言説を聞いていると、彼が第6段階の普遍的価値、倫理的原理に従った行為が正しい行為だと捉える段階にあったと言える。
では、佐川氏はどの位置なのだろうか。どう贔屓目に見ても、第5段階や第6段階に達しているとは思えない。せいぜい、2か3の段階ではないかと思える。
日本の最高頭脳の集団である財務省での出世街道の頂点は、三つ。その一つである国税庁長官まで上り詰めた人物の道徳性が、せいぜい2、3段階だとは寂しい話である。
わたしは元教師。「荒れる中学」時代に現役だった。その頃、連日連夜学校内外で問題行動があり、毎日のように子供たちから事情を聴いたり、誰がやったのかを問い詰めたり、二度と問題行動を起こさないように説教したり、説得したり、席の温まる暇はなかった。
この当時の経験から言うと、頭が良くて目端が利き、口がうまく、道徳心の欠落した子供ほど困る子供はいなかった。
こういう子供は、クラスの中でも一目置かれていて、隠然たる勢力を持っている場合が多い。「いじめ」などの中心にこのタイプの子供がいると、その根絶には本当に苦労させられる。こういうタイプの子供は、教師のおためごかしの台詞など鼻であしらい、聞く気などさらさらない。しかし、頭がよく、要領がよいので、教師の前では叱られないように振る舞うすべを知っている。だから、教師もあまり叱れない。
ところが、クラスの他の子供は、その子の正体を知っているので、叱れない教師に対して不信感を抱く。これがクラスの乱れのもとになる。
わたしは佐川氏の答弁を聞いていて、このタイプの優等生を思い出した。佐川氏はあまり裕福でない家庭に育ち、兄弟たちが学資を出して東大を卒業したそうだ。佐川氏世代には、戦後前期のように大半が苦学生だった時代とは違い、苦学生の数はそれほど多くはなかったはずである。
しかも、東大生の親の年収が、きわめて高いと言われ始めた時代。想像するに、佐川氏の青春時代は、あまりバラ色ではなかったのではないかと思う。彼には、自らの能力以外頼むものがなかったはずである。
実家が裕福だった前川氏との決定的違いはそこらあたりの事情によるのではないかと想像できる。
「カーリング女子と裁量労働制」で指摘した「公・公共・私」でいうと、佐川氏には【PUBLIC≒公共】の精神が欠落しており、私=公の世界で生きてきたため、普遍的価値や倫理的原理などという視点が決定的に欠落したのであろう。
日本の勉強秀才の一つの典型であり、そのような志向が【決裁文書改竄】という信じられない行為を犯したのであろう。彼らに前川氏のような【PUBLIC≒公共】という価値観があれば、このような無残な行為に歯止めがかけられたはずである。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
呆れた発言の主は財務省の幹部や職員だ。27日、佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問への反応として、日本テレビが報じたものだ。・・・
(日刊ゲンダイ)
これが日本の最高頭脳の集まりと称される財務省の高級官僚たちの思考である。見事なばかりに【真実を語る】などと言うモラルが抜け落ちている。それどころか、「野党から見ると、佐川さんにこういうこと言ってほしいという内容はゼロだった。そういう意味で、佐川さんの答弁は100点ってことじゃないですか」と言う評価を下している。見事なばかりの日本の支配層(政治家・官僚など)の伝統的な思考法「民は寄らしむべき、知らしむべからず」の表現である。
この評価で分かるように、日本の最高の頭脳集団たちの思考法は、国民に真実を知らせず、如何にその本音を隠した答弁を行うか、という点に集約されている。論理明晰で意味不明という【東大文学】そのものである。
日本の官僚答弁の難解さは、国民に物事の本質を知らせず、それでいて何かよくわからないが、国民の支持(積極的支持ではなく、文句を言わない消極的支持)をいつのまにか取り付けているような雰囲気を醸成するための方法論であることに起因する。その為に、官僚たちは、【言質】を取られないように、断定を避け、どうにでも言い訳が利くように持って回った表現をする。財務省は、そのような答弁の達人が多い。
ただ、日本の最高の頭脳集団と呼ばれる彼らの能力をこのような目的のために使う、というのは、「才能の無駄遣い」。日本にとって大きな損失。本当にもったいないと言わざるを得ない。
文部科学省の前次官前川喜平氏は、そのような官僚の能力を無駄遣いする政治のありように異を唱え、政権と厳しく対峙した。前川氏は「教育に対する自らの信念」に忠実であろうとした。
日本と言う国や社会で、自らの信念を貫こうとすると、それこそありとあらゆる場所や場面で既存のシステムや権威とぶつかり、【角】を立てなければならない。そういう中で、前川氏は次官まで上り詰めたのだから、彼には能力の高さ、行動力と言動の慎重さと説得力と人望があったのだろう。そこが貴乃花などと決定的に違った。
前川氏は次官まで登り詰めるまでには、自らの信念を曲げるような妥協を何度も何度も繰り返してきたはずである。そうしなければ、次官まで出世できない。
そんな彼が役人生活の最後に時の政権と厳しく対峙した。何も言わずに黙って退職すれば、天下り先は保証され、億を超える退職金をもらえ、勲章ももらえ、悠々自適の老後が保証された。それにも関わらず、それらを全部投げ捨て、自らの信念に殉じて政権と対峙した。
「あった事を無かったとは言えない」という彼の倫理観は、多くの国民の心を打った。官僚の道徳観、倫理観とはこういうものか。エリートの責任感とはこういうものか。どれだけ多くの国民が、前川氏の言動に心を打たれ、喝采を贈ったか。彼ほど、日本の官僚の名誉を高めた人物はあまり見当たらない。
それに比べて佐川氏はどうだろうか。財務省の後輩たちの評価は、【見事な官僚答弁】だという事らしいが、国民たちの心をつかめたろうか。彼の答弁が国民の心にストンと落ちたであろうか。
答えはNOである。彼の答弁は、何一つ国民の心に響かなかった。ただ一つ、明快に理解できたのは、【刑事訴追】の恐れのある事に手を染めていたのであろう、という推測と、自己保身のための理屈ばかりだ、という事である。
彼の答弁を聞いていると、官僚としての苦悩、人間としての苦悩・悩み・苦しみが伝わってこない。彼の答弁は、「答弁マシン」ではないか、と思えるほど、一切の人間的要素が削り取られていた。
わたしは、証人喚問前、佐川氏に同情していた。安倍夫妻や安倍政権のために、自らの責任でもない事案の答弁を行い、答弁の整合性を取るため、決裁文書の改竄までやらされた。「すまじきものは宮仕え」を地でいったような人物だと思っていた。
証人喚問では、その「宮仕え」の苦悩が滲み出るのではないかと期待していたが、見事に裏切られた。彼は、最後の最後まで悪い意味での【骨の髄まで官僚】だったと言う事になる。
一体全体、彼の倫理観、道徳観はどうなっているのか。この点について、面白い記事が載っていたので紹介する。
佐川氏証人喚問で露呈した「小学生レベルの道徳性」 あの情けない姿を心理学的に見る
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55040
2018.03.29 原田 隆之 筑波大学教授 現代ビジネス・・
・アメリカの心理学者のコールバーグは、道徳性の発達について、6つの段階に分けて説明している。それは、以下のような6段階である。
(1)罰の回避と服従の段階
(2)相対主義的な利益を志向する段階
(3)同調し「よい子」を志向する段階
(4)既存の法と秩序そのものを尊重する段階
(5)合意や契約によって変更可能なものとして法や秩序を遵守する段階
(6)一人ひとりの人間の尊厳の尊重といった普遍的倫理原則を志向する段階
小さな子どもは誰しも、親や大人に叱られたり、罰を受けたりすることがないように行動する。それが、子どもの道徳性である(第1段階)。
しかし、成長に伴って、より打算的になる。「相手が自分にとってよいことをしてくれれば、自分もよいことをしてあげる」という相互主義的なルールに従って行動する。一見、公正であるように見えても、自己中心的な道徳性である(第2段階)。
その後、仲間集団など、自分が準拠する集団のルールに同調し、「よい子」「よいメンバー」として振る舞うことが道徳的だと思うようになる。これも一見、「よい子」には見えても、拡大された自己中心性にすぎず、より大きな社会のルールや規範を無視してしまうこともある(第3段階)。
もっと成長すれば、自分や自分の属する小さな集団の利益ばかりを追求することが「よいこと」なのではなく、社会の法や規範を守ることが道徳的なのだと言うことを理解し、そのように振る舞うことができるようになる(第4段階)。
さらに進んだ段階として、権威から押し付けられた法や社会規範が絶対なのではなく、社会にはさまざまな価値があり、それを守るために合意によってルールを変更すべきだという柔軟な道徳性を持つに至る。われわれがルールに仕えるのではなく、自分たちのためにルールはあるということを理解できる段階である(第5段階)。
そして、最もレベルの高い道徳性は、普遍的価値、倫理的原理に従った行為が正しい行為だととらえる段階であり、法を超えてでも「正しい行い」をすることができる。ときには、その社会や時代には理解されず、後世になってその偉業が称えられることもある(第6段階)。
・・・
前川氏の言説を聞いていると、彼が第6段階の普遍的価値、倫理的原理に従った行為が正しい行為だと捉える段階にあったと言える。
では、佐川氏はどの位置なのだろうか。どう贔屓目に見ても、第5段階や第6段階に達しているとは思えない。せいぜい、2か3の段階ではないかと思える。
日本の最高頭脳の集団である財務省での出世街道の頂点は、三つ。その一つである国税庁長官まで上り詰めた人物の道徳性が、せいぜい2、3段階だとは寂しい話である。
わたしは元教師。「荒れる中学」時代に現役だった。その頃、連日連夜学校内外で問題行動があり、毎日のように子供たちから事情を聴いたり、誰がやったのかを問い詰めたり、二度と問題行動を起こさないように説教したり、説得したり、席の温まる暇はなかった。
この当時の経験から言うと、頭が良くて目端が利き、口がうまく、道徳心の欠落した子供ほど困る子供はいなかった。
こういう子供は、クラスの中でも一目置かれていて、隠然たる勢力を持っている場合が多い。「いじめ」などの中心にこのタイプの子供がいると、その根絶には本当に苦労させられる。こういうタイプの子供は、教師のおためごかしの台詞など鼻であしらい、聞く気などさらさらない。しかし、頭がよく、要領がよいので、教師の前では叱られないように振る舞うすべを知っている。だから、教師もあまり叱れない。
ところが、クラスの他の子供は、その子の正体を知っているので、叱れない教師に対して不信感を抱く。これがクラスの乱れのもとになる。
わたしは佐川氏の答弁を聞いていて、このタイプの優等生を思い出した。佐川氏はあまり裕福でない家庭に育ち、兄弟たちが学資を出して東大を卒業したそうだ。佐川氏世代には、戦後前期のように大半が苦学生だった時代とは違い、苦学生の数はそれほど多くはなかったはずである。
しかも、東大生の親の年収が、きわめて高いと言われ始めた時代。想像するに、佐川氏の青春時代は、あまりバラ色ではなかったのではないかと思う。彼には、自らの能力以外頼むものがなかったはずである。
実家が裕福だった前川氏との決定的違いはそこらあたりの事情によるのではないかと想像できる。
「カーリング女子と裁量労働制」で指摘した「公・公共・私」でいうと、佐川氏には【PUBLIC≒公共】の精神が欠落しており、私=公の世界で生きてきたため、普遍的価値や倫理的原理などという視点が決定的に欠落したのであろう。
日本の勉強秀才の一つの典型であり、そのような志向が【決裁文書改竄】という信じられない行為を犯したのであろう。彼らに前川氏のような【PUBLIC≒公共】という価値観があれば、このような無残な行為に歯止めがかけられたはずである。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水