昨年12月18日、伊藤詩織さんに対するレイプ事件(準強姦事件)の民事判決が出た。
被告人は、元TBSワシントン支局長の山口敬之氏(53)。官邸に最も近いジャーナリストと喧伝され、TVに出ずっぱりだった。TV朝日の玉川キャスターに言わせると、安倍首相に直接電話で話をできる関係だそうだ。日本の権力中枢に最も近いジャーナリストと言っても過言ではなかった。
東京地裁は山口氏が「酩酊状態で意識がない詩織さんに、合意がないまま性行為に及んだ」と認定。330万円の支払いを命じたのだ。
そもそも、この事件には不可解な点が多すぎる。
・・・詩織さんが被害を受けたのは2015年4月3日のこと。同月30日には警視庁に告訴状を提出し、高輪署が受理。準強姦容疑で捜査を進め、同年6月8日には逮捕状を手にした捜査員が、帰国する山口氏の身柄を押さえるため、成田空港で待ち構えていた。
ところが、土壇場で上層部から「待った」がかかった。当時、警視庁刑事部長だった中村格氏は「私が決裁した」と週刊新潮の取材に答えている。中村氏は官邸で菅官房長官の秘書官を長く務めた経歴の持ち主。アベ友のレイプ事件もみ消しの褒美ではないだろうが、今や警察庁ナンバー3の官房長に出世し、警察庁長官も視野に入る。
2016年7月22日に東京地検は山口氏を不起訴処分とし、刑事では無罪放免。結局、詩織さんが2017年5月、検察審査会に審査を申し立て、顔と名前を出してレイプを告発するまで、山口氏はのうのうとメディアで顔を売っていたのだ。やはり類は友を呼ぶ。安倍に負けないずぶとい神経である。
・・・
世界が疑う「日本は法治国家なのか」(日刊ゲンダイ)
この記事で指摘されている疑問は、大げさに言えば、法治国家としての日本を根底から疑わざるを得ない問題である。
① 高輪署が伊藤詩織さんの訴えを受理し、逮捕状まで取ったと言う事は、犯罪事実があったという疑いが濃厚。
② ところが、土壇場で当時警視庁刑事部長だった中村格氏が逮捕状執行に待ったをかけている。嫌疑不十分だというのが理由だそうだが、高輪署の扱っている事件に本庁の刑事部長が待ったをかけるなどという話は異例中の異例。しかも、逮捕状執行寸前である。警視庁回りの記者連中に聞いても、あり得ない話だそうだ。
⇒※そもそも、山口氏逮捕の話をどこから知ったのか。警視庁の刑事局長が注意を払うような重大事件でもないし、通常一分署の事件など刑事局長の耳に入るはずがない。それを逮捕寸前にどうして知ったのか。様々な推理が成り立つが、奥の院の話なので、真相は藪の中。一番胸にストンと落ちる話は、逮捕状執行の話を聞いた山口氏が官邸に助けを求め、官邸の北村氏が中村氏に電話。中村氏が逮捕状執行を止めさせたという話なら理解できる。
③ その結果、東京地検は山口氏を不起訴処分にした。2017年5月伊藤詩織さんは、検察審査会に申し立て、自らの顔と名前をさらして、レイプ告発するまで、山口氏は平然としてメディアに出続けた。
ところが、この「検察審査会」の審査もきわめて異常なありようだったと、八木啓代さんが書いている。「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」(八木啓代代表)の情報開示請求に対して、東京第六検察審査会は昨年12月、一部文書を開示しているのだが、八木代表は驚いたという。
「通常、法的なアドバイスをする補助弁護士が付くのですが、詩織さんの審査会にはいませんでした。審査員は法的な論点を理解できません。また、どんな証拠が提出され、どのような議論を経て『不起訴相当』の判断に至ったのかの理由が一切示されていないのです。ちゃんと審査されたのか疑問です」
さらに、八木代表の目を点にさせたのが、審査員選定の立会人だ。過去には立ち会った検事と判事の実名が開示されていたが、詩織さんの審査会分はなぜか黒塗りだった。突然の不可解な変更について、八木代表が審査会に問うと、事務局は「自筆署名なので個人情報とみなし、今回から不開示にした」と答えたという。
「安倍案件である森友問題と詩織さんの検察審査会は、不透明で異例ずくめという印象です。恐ろしいのは、市民が下した判断だけに“悪しきお墨付き”になること。実際は、政治介入の余地があり、そのことを外から一切検証できないのです。まずは、メディア、国民が検察審査会に関心を持つことが必要です」(八木代表)
・・・・・(日刊ゲンダイ)
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/266700
伊藤詩織さんが、自らの人生を賭け、顔も名前も世間にさらして訴えたレイプ事件は、はしなくも、日本の司法、なかんずく、警察・検察・検察審査会の怪しげな実態を白昼にさらけ出した。
カルロス・ゴーン氏の逃亡で、日本の司法のありようが問題になり、元東京地検特捜部(いわゆるヤメ検)の弁護士連中がTVに出て、検察擁護の論陣を張っていたが、上記の問題などについては知らぬ顔。まあ、都合の悪いことはほっかむりの体質は、いずこも同じと言う事だろう。
以前、わたしは、「戦前の日本における罪の軽重は、権力との距離に反比例する」と書いた。権力に近い人の罪は、出来得る限り軽くなり、権力に遠い人の罪は、異様に重くなる。この法則に当てはまる国家は、ファシズム国家であるとも書いた。
今回の伊藤詩織さんレイプ事件はその典型である。山口敬之という「権力中枢」に最も近いジャーナリスト(御用ジャーナリスト)の犯罪は、警視庁の幹部によって逮捕を免れ、検察によって不起訴になり、検察審査会で不起訴正当にされた。八木女史から言わせると、本当に検察審査会で審議したのか、という疑いも捨てきれないそうだ。
もし、これが反権力で名を売ったジャーナリストなら、即座に逮捕され、有る事ない事、徹底的に暴露され、裁判が始まるまでに彼の社会的生命は抹殺。小沢事件を書いたウォルフレン流の言葉(誰が小沢一郎を殺すのか 角川書店)で言えば、完全に「人格破壊」されているだろう。現に、ゴーン氏に対するメディア報道は、彼の「人格破壊」に主眼を置いている。
これが、現在の日本の現状。見事なファシズム国家だと言わざるを得ない。この状況に危機感を抱かないメディアや政治家は、自らが上級国民であると白状したようなものである。
ただ、この現状を嘆くばかりでは、何の変化もない。伊藤詩織レイプ事件を日本の現状認識と日本の未来への変革へと繋げなければ、彼女の懸命な訴えを無にすることになる。
まず、伊藤詩織さんに象徴されるように、日本での女性の人権が未だ完全に確立されていないという現状をどう考えるかである。
「MeToo」運動の一環として捉えるのも一つの考え方ではあるが、わたしは、現在の日本の女性の権利状況は、戦後の米国支配の一つの到着点だと考えている。彼女の人権回復運動は、戦後の米国支配のありように風穴を開ける可能性があると考えている。
以前にも指摘したが、米国は日本との戦争前から、ルース・ベネディクトの『菊と刀』に代表されるように、日本と言う国の国柄や日本人について政治・経済・文化・宗教などあらゆる視点で研究していた。ありていに言えば、米国は日本との戦争前から、日本統治について研究していたのである。戦後、日本を占領し、統治するときに、これらの研究成果が生かされ、米国が他国を統治した唯一の成功例と称せられるような大成功を収めた。
名無しの探偵さんが、戦後史の見直しの大仕事に着手されているようなので、詳細については探偵さんのこれからの書き込みに期待したいと思っているが、私自身は、戦後日本を考える時、日本の伝統的思考と米国によってもたらされた新しい価値観とを対比しながら考えていかないと、真実は見えにくいと考えている。
(1) 伝統的日本思考⇒いわゆる戦前型の日本人の思考は、軍部などの右派的連中を除けば、仏教などが代表するように、「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」思考。つまり、複雑な利害対立を全て考慮に入れながら、「三方一両損」的思考で解決する。いわゆる典型的な「調整型思考」である。出来得る限り、争いを避ける思考方法と言って良い。だから、自分だけの利害を言い立てる事を「恥じる」感性を持っている。典型的な農耕社会の思考法だと言って良い。
これが日本の農村共同体などを支えてきた。同時に、戦後の日本企業の奇跡的な復活を支え、日本企業の活力を支える重要な精神的要因になった。伊藤忠商事の創業以来の家訓である「客に良し、自分に良し、世間に良し」という「三方良し」思想にそのルーツがあった。
今年、伊藤忠商事は、この「三方良し」を企業理念に掲げる決定をしたそうだ。「今だけ」「金だけ」「自分だけ」の新自由主義理念の対極にたつ「三方良し」理念を正面から掲げると言う事は、日本社会に新自由主義理念に対する根本的疑念が出つつあるという証左でもある。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200116-00000035-jijc-biz
(2) 戦後型思考⇒ところが、戦後型思考は、その中心は、「あれか、これか」の二項対立型思考。どちらが「正しいか」の争いになる。つまり、自分の主張の正しさを徹底的に追及する事が善とされる。
このやり方では、最終的には「勝ち」と「負け」しか残らない。ルース・ベネディクトの言う「恥の文化」など消えてしまう。伝統的メンタリティを持った人間が少なくなるにつれ、日本を「今だけ、金だけ、自分だけ」の新自由主義的思考が幅を利かせ、きわめて短絡的な考え方が席巻し始めている。
大学時代、従兄(新聞記者)が家に遊びに来た。当時、「モータリゼーション」という言葉が語られ始めた時だったので、交通事故の話が話題になった。その時、従兄が言ったことを今でも覚えている。「交通事故を起こしたら、決して自分が悪いと言ってはいけない。自分が悪いと言ったら最後、責任を取らされる。それが西欧流の考え方だ。」
今では当然の事だと思われるだろうが、当時の日本人は交通事故を起こしたら、まず相手の事を心配し、お互いが悪かったなどとして、責任問題の落としどころを見つけ出そうとしていた。えげつない主張をすることを「恥じ」と考えていた。
わたしの実感から言うと、昭和40年前後(1965年前後)が、伝統的日本人の思考が西欧流(米国流)思考に席巻され始めた時期だと考えられる。丁度「安保闘争」が終わりをつげ、次の「全共闘運動」が燃え盛る谷間の時代だと思う。
これこそが、戦後GHQの日本支配の狙いだと考えなければならない。
戦後、奇跡の復興を遂げた日本経済の強さ、日本企業の強さは、「今だけ、自分だけ、金だけ」の刹那主義的経営を排除する事にあった。長いスパーンで計画し、良い品を適正な価格で販売し、金もうけも重要だが、製品の品質向上は金には代えられない信用になり、時代を勝ち取る事ができる、と言う信念で、努力を怠らない。良い品を創造する事に自らのプライドを賭ける職人気質。こういうものが、日本企業や日本を支えていた。
現在でも辛うじて残っているが、技術を持った会社の先輩たちは、自らの技術を会社の後輩たちに教え、後輩たちを育てていった。西欧流にいうならば、こうして育った後輩たちがいずれ自分の席を奪っていくのだから、あほらしくて教えられない、となるのだろうが、終身雇用制時代の日本では当たり前の光景だった。
こういう日本人をどうしたら少なくすることができるか。これがGHQの占領政策の目的だと考えなければならない。当たり前である。米国と日本は、熾烈で悲惨な戦争を戦った敵同士。敵が二度と立ち上がれないように、敵国の強みを抜き去っておく必要がある。神風特攻に象徴される「滅私奉公」的儒教道徳など真っ先に葬り去らなければならない。
その意味で、「自由」と「民主主義」は、まことに重宝な武器。「わたくし」の権利の尊重を主張すれば、誰にも納得できる。そして、西欧流民主主義のように「公」と「私」の問題を長年の歴史の中で考え抜いて、社会的遺産として蓄積してきた歴史がない日本。「わたくし」の重要性を主張させることにより、「公」の意味を薄めるという狙いは、的を得ていた。
「自由」と「民主主義」を植え付ければ、かなりの程度、日本の好戦性を除去できる。同時に、「あれか、これか」の二者択一的思考を根付かせれば、日本人の知恵の源である「あれも、これも」の「複眼的思考」を減殺できる。
この狙いは、伝統的思考の持ち主が少なくなり始めた昭和末期から平成にかけて、見事に花を開き始めた。同時に日本の沈没も静かに始まったと言って良い。米国の占領目的は見事に達成しつつある。
(3) 戦後型思考の定着方法としての3Sを利用する。
3S=Screen、Sports、Sex
① Screenとは、戦後のある時期までは映画を意味したが、TV画面と考えたほうが良い。要するに、文章などを読んで考える力のある国民を育てるより、TVのように面白い画面を通じて、国民を洗脳する方が効率が良い。特に現在のTVのように、吉本とジャニーズがTVを席巻し、ニュースなどもお笑いやジャーニーズが報道するような状況で、国民が正しい判断などできるはずがない。愚民化ほど、その国を支配する最高の方策はない。
さらに現在はスマホ全盛時代。わたしは、毎月2、3度通院のため列車に乗るが、その時の列車内の雰囲気には、毎回驚かされる。皆、無口に黙々とスマホをいじっている。しゃべっている人をほとんど見かけない。皆、スマホの画面に熱中している。
今年1月15日の羽鳥のモーニングショーで「レディファースト」とは何かが話題になった。世界のレディファーストとは、高齢者や病人や女性や子供などの肉体的弱者に対するいたわりの心の発露だと言う話から、コメンテーターの浜田女史が、日本の人々の間にレディファーストの精神が定着しないのは、他人に対する異様な「無関心」だと語っていた。その通りだと思う。黙々とスマホをいじる姿は一種異様で、これからますます「他者に対する無関心」さが増幅するだろうと思う。
笹井さんがスマホを拒否する信念を語っておられたが、列車の中での誰もがスマホを黙々といじる異様な光景を見ていたら、ぞっとする。わたしたちは、もう一度スマホの功罪について考え直す時期に来ていると思う。
このように、現在の安倍政権は、米国の企図した愚民化政策の上に存在しているといって過言ではない。お陰様で、日本の国富は米国にしゃぶり尽くされ、国民は貧困化の一途を辿っている。
② Sports⇒わたしもスポーツ大好き人間なので、偉そうに言えた義理ではないが、スポーツは国民の不満のはけ口の絶好な場所になっている。
戦後、敗戦国として落ち込んでいた日本人を鼓舞したのは、「フジヤマの飛び魚」と称された水泳の古橋広之進の活躍。TV草創期、プロレスの力道山の活躍。TVの前に大勢の日本人が集まり、力道山とシャープ兄弟との戦いに熱中したものだ。国民は、彼らの活躍で敗戦国民としての鬱屈した気分を晴らした。スポーツの持つ効用の一つだ。
同時に、オリンピックに象徴されるように、何の抵抗もなく、「愛国心」を強調できる場所でもある。同時に、ファッショ的「滅私奉公」や「精神論」を強調できる場所でもある。TVの金メダル至上主義がさらにこの傾向を助長する。円谷幸吉の悲劇で懲りているはずなのだが、未だにメダルメダルと騒いでいる。
さらに、TV朝日が象徴的だが、サッカー放映のため、二度も三度もニュース・ステーションが中止になった。ニュースよりサッカーが大事という姿勢が、現在のTVメディアの主流だとすれば、国民が馬鹿になるのも頷ける。
安倍晋三がオリンピックなどの優勝選手に嬉々として電話をする場面が良く放映されるが、スポーツの政治利用もきわまれり、である。こう考えると、スポーツも立派な「愚民化政策」の道具である。
わたしが何度もラグビー論を書いているのは、この種の愚民化論的スポーツのありように風穴を開ける可能性を持っているスポーツがラグビーだと考えているからである。ラグビー選手の多様化、多国籍化が、これからのスポーツのありようの象徴だと考えている。この多様性こそが、ファッショ的国粋主義の跋扈を防ぐと思う。
③ Sex⇒戦後最も変化が大きかったのは、Sexに対する考え方である。
人間にとって、SEXはきわめて重要である。種の保存は、生き物の本能。人間も生き物であり、例外ではない。SEXは種を残すために営みであり、人間が生き延びるために欠かす事の出来ない営みでもある。
ただ、人間が他の動物などと決定的に違うのは、この営みを「文化」として昇華させた点にある。例えば、平安時代の通い婚には、男女の間で「和歌」が読み交わされ、その後「性の営み」にいたるというように、時代、時代の文化制度としての「性」という側面が大きくなる。
「性」という、人間にとって本能的で原初的な個人的な営みが、「社会制度」としての営みという側面が大きくなるのである。日本で言えば、「家」という存在が大きくなるにつれ、性という人間本来の営みではなく、「婚姻」という社会システムの方が、意味が大きくなる。
形骸化しつつあるとはいえ、今でも、「・・家」「…家」のご結婚という習慣が残っている。結婚とは、個人の結びつきでなく、「家」と「家」との結びつきであるという封建的家族形態が未だ色濃く残っているのである。
森鴎外の小説に「ヰタ・セクスアリス」がある。明治時代に書かれた小説で、粗筋は以下の通り。
「哲学講師の金井湛君は、かねがね何か人の書かない事を書こうと思っていたが、ある日自分の性欲の歴史を書いてみようと思いたつ。六歳の時に見た絵草紙の話に始り、寄宿舎で上級生を避け、窓の外へ逃げた話、硬派の古賀、美男の児島と結んだ三角同盟から、はじめて吉原に行った事まで科学者的な冷静さで淡々と描かれた自伝体小説であり掲載誌スバルは発禁となって世論をわかせた」
https://www.shinchosha.co.jp/book/102003/
一般的な常識に反して、日本の性が開放的でなくなったのは、明治以降である。江戸や戦国時代の庶民の性のありようは、もっとおおらかで、明るく、非常に開放的だった。江戸の商家の娘さんなどは、結婚までに複数の男性と経験のあるのが普通と書かれている史書もあるくらいだ。
理由は単純。各藩の武士が参勤交代で江戸に集まる。同時に、江戸は常に土木工事などで地方から多くの労働者が集まった。だから、男性の数が非常に多く、女性の数が少なかった。大体、男2に対して、女1の割合だったと言われている。
※男女比が「2:1」だった江戸時代の恋愛事情
https://lovesympo.com/edo-circumstances
当時の言葉で言うと、江戸の男どもは、慢性的に「女ひでり」だった。だから、女性は非常にもてた。一人の男とうまくいかなくても、次の男など簡単に見つけられた。処女でなくてはならないなどと贅沢など言っておれない。嫁がもらえれば、御の字というわけである。
ただ、武家社会だけは、儒教道徳の影響できわめて禁欲的だった。結婚は家の存続の為に行われ、女性の価値は、後継ぎを産むことに集約されていた。「子無きは、去れ」がこの時代の真実。後継ぎが最重要事項(家の継承)だから、禄高の高い旗本、大名などでは、「側室」を置くのが常識。文字通り「女の腹は借り物」だった。
女偏の漢字を見てもらえば理解できるが、女性の目から見なくても、きわめて女性に対する差別意識と偏見に満ちている。嫁、姦、姑、妄、妾、妍、姥、婆 等々。
https://kanjijoho.com/cat/busyu307.html
現在、天皇家の継承問題がクローズアップされているが、理由は簡単。天皇家が側室制度を廃止したから、男性皇族が減少したのである。明治天皇は側室を持っていた。男系男子相続という形態に固執するには、男一人に女性数人(数十人)という側室制度を維持しなければ難しい。側室制度を廃止した時点で、男系男子相続という形態を断念したのに等しい。
明治以降、日本の性が禁欲的になったのは、武家社会道徳が庶民に適用され始めた影響が大きい。この事は、明治以降、日本は近代社会になったという定説も考え直さなければならないほど大きな意味を持っている。何故なら、明治時代の民法は「家制度」を前提に決められており、「個人の権利の尊重」と言う近代社会の常識からはかけ離れたものだった。そのため、「子無きは去れ」とか「女の腹は借り物」という前世紀の遺物のような非人間的思想が生き残ったのである。
このように、女性に対する差別意識が増幅したのが、明治以降だと考えて間違いない。鎌倉時代の方が、はるかに女性の人権が尊重されていたのではないかと思われるくらいである。
※鎌倉時代の女性は強かった
https://www.chunengenryo.com/igasinohen_hojoyasutoki/
鴎外の本が、発禁になったところに、明治と言う時代の日本のありようが見て取れる。それでいて、吉原に代表される売春(公娼)制度が公認されていて、各地に遊郭が設けられていた。つまり、明治国家体制の閉鎖的性道徳は、売春(公娼)制度の中で身を売らざるを得なかった女性たちの犠牲の上に築かれたものだとも言えるのである。
「赤線」とは、役所の文書で、売春地帯を赤線で囲っていたのでそう言われた。「青線」とは、行政の管轄外の私娼窟地帯を青線で囲っていたのでそう呼ばれた。当然ながら、売春(公娼)制度は、常に貧困と表裏一体の関係にあり、体制の矛盾の集約された場所だった。いわば、戦前の日本の貧しさが売春制度を支えていた。
2・26事件を起こした将校たちの最大の精神的動機は、飢饉で疲弊した農村の娘たちが、身売りをしている悲惨な状況を変えようというものだった。
徴兵とは単に兵隊になるだけではない。地方の家の一番の働き手(若者)を軍隊に取られると言う事である。家族の生活の支え手を国家に取られる事を意味した。当時の日本の状況では、女性のまともな働き口など、あまりなかった。姉や妹が身売りをするほど困窮した家族を救うため、脱走兵にならざるを得なくなった部下の兵たちの苦悩を目の当たりにした真面目な将校たちの思いが、将校たちの決起につながったのであろう。
このような公娼制度(売春制度)は、昭和32年に廃止されたが、それまでは、世間的には、素人の女性と玄人の女性は、この公娼制度によって明確に分けられていた。
日本国憲法で男女平等が高らかに宣言されたが、社会の中での男女平等が実現するのはなかなか難しかった。男女平等が国民の目に一番分かりやすく伝わったのは、学校教育だと言って良い。「男女七歳にして席を同じくせず」という教育から、小学校から大学まで男女共学が普通になった。「ああ、時代が変わったんだなあ」と誰にも理解できた。
さらに「結婚は両性の合意にのみ基づく」という結婚観も、戦後という時代を象徴していた。この結婚観は、結婚は男女の恋愛を当たり前の行為として認める(つまり、人権として認めている)事が前提になっている。つまり、男女の性の営みは、両性の合意にのみ成り立つものである、という思想が、戦後の原則になったのである。
男性という生き物は、なかなかこの原則が理解できない。様々な性犯罪の根底には、男性側のこの原則に対する認識の浅さが大きく影響していると考えられる。文学的に言うと、男性にとって、「内なる猛獣」とでも言うべき性衝動をどう処理し、どう抑えるかが、青春の最大の課題だと言って良い。若い男性にとって、性衝動との付き合いに煩悶する時代は、まさに人生の「疾風怒濤時代」なのだ。
戦前までは、「遊郭」が若い男性最大の問題である性衝動解決のための社会的に公認された場所であった。いわば、「社会的」に公認された「装置」だった。
古来より、戦争指導者の一番の難問は、兵士たちにどうやって軍規(軍律)をどう守らせるか、だった。若い兵ばかりの集団で、明日死ぬかもわからない状況で闘っているのだから、気持ちもささくれ立っている。いわば、精神的ハリネズミ状態と言って良い。こういうぎりぎりの精神状態だから、若い女性などに襲い掛かるのも理解できないわけではない。自らの子孫を残したいという動物の本能に近いものだろう。しかし、襲われる側から言わせれば、たまったものではない。
だから、相手を殲滅した後に起こる「略奪」と「強姦」は、いくさにつきものだとは言え、民衆の深い恨みを買った。戦争指導者から言えば、自分たちが統治する場所になる地域の住民から深い恨みを買うのは、後々様々な問題を引き起こす要因になる。
木曽義仲が、天下を取り損ねたのも、兵士の「略奪」「強姦」などの行為を抑えられず、都人の恨みを買ったのが大きな理由だった。それに反して、織田信長は、軍規(軍律)違反をした兵を容赦なく切り捨て、軍規を守らせた。彼が天下取りに王手をかける事が出来た一因に彼の軍隊の軍律の厳しさがある。
それくらい、若い男ども性処理の問題は、大問題なのである。昭和32年以降、そういう場所がなくなった日本の若い男性にとって、性処理の問題は、きわめて難しい問題になっていた。
一方、この時期以降、今度は日本の若い女性たちの性意識が大きく変化してきた。男女平等思想の普及、女性の高学歴化、社会進出、結婚観の大きな変化(見合いより恋愛)、それに伴う性意識の変化など、男性よりはるかに女性の方の意識変化が大きかった。
また、この時期くらいから、日本の性表現(雑誌、写真、映画、TV、動画など)がどんどん過激になり始めた。荒れた中学校時代、よくトイレに過激な写真が載っている雑誌や写真集を見つけたものだった。親父が隠し持っていた写真集や雑誌を学校に持ってきて、友達と見せ合っていて、わたしに没収された生徒もかなりいた。本意ではないが、親に黙っておくわけにもいかず、母親に事情を説明すると、母親が父親を厳しく責めたなどという経験もした。
この時代くらいから、性が隠微なものではなくなりつつあった。同時に、この時期くらいから、女子生徒の性教育の必要性が真剣に叫ばれ、女性教師たちも情熱をもって取り組む人も出始めた。
現在、日本の性表現の過激さは世界でも有数で、ある意味世界をリードしていると言っても過言ではない。この状況の大きな要因は、日本には本当の意味で宗教的戒律がない、と言う点に求められる。
キリスト教的戒律やイスラム教的戒律のような厳しい宗教的戒律に縛られていない日本での性表現が、諸外国より過激になるというのは、ある程度頷ける。
性表現の過激さは、当然ながら、その時代に生きる人々に大きな影響を与える。男性は言うまでもないが、女性にも大きな影響を与える。
「産む性」から「楽しむ性」への意識転換が行われ始めた。「産む性」を意識から減退させ始めると言う事は、子供を育てる人生から、自分自身の人生を生きるという意識転換を意味している。
女性たちのこの意識転換こそが、戦後日本の社会状況を劇的に変えた、とわたしは考えている。女性たちが自分自身の人生を生きることに力点を置き始めると言う事は、日本における封建的「家」の存在が薄れてゆくことを意味する。「家」存続の為に、自らを犠牲にする事を拒否する強さを女性たちは手に入れた。「厭なら離婚すればよい。」自立する女性たちの強さを象徴する言葉だ。
※2019年の離婚率。2019年6月に厚生労働省が公表した最新の数値。
https://womanslabo.com/c-marketing-20190510-1
これは「年間離婚届出件数÷日本人の人口×1000」という計算式で求められたもの。人口1000人あたりの離婚率が1.68ということは、1000人のうち約1.7人が離婚しており、1年間で20万7000組が離婚している計算になる。
たしかに、少子化は、日本の経済状況と賃金情況と働き方に大きな問題があるが、子供を産むかどうかの選択権を持っている「産む性」としての女性たちの判断も一つの要因になっている。一時期、草食系男子という言葉が流行った。自立した女性の強さに圧倒され、男性的な荒々しさを失ってしまい、女性化した男性が増加し始めたのも、こういう傾向の生み出したものだろう。
実は、この少子化という状況こそが、アメリカの日本統治の理想の形だと考えなければならない。歴史上、人口減少国家の国力は必ず衰退する。これこそが、敵対国家としての米国の戦略だと考えておかねばならない。
三つのSに象徴されるアメリカの日本統治の狙いが見事に結実しつつあるのが、現在の日本だと考えなければ、伊藤詩織さんの問題の本質は見えない。
つまり、ネットなどに氾濫する性描写の過激さに刺激されてはいるが、現実の自立した女性の強さに圧倒され自信を失った男性が、今の日本には多数存在する。結婚でも、高学歴、高身長、高収入が条件など、女性たちの要求がエスカレートする。ますます自信を失う男性が増えるのも頷ける。しかし、本能ともいうべき性衝動だけは抑えきれない。こういう連中のなかに、痴漢やストーカー、強姦などの性犯罪に走る連中が出ても不思議ではない。
その反面、少数の男性になるのだろうが、社会的勝利者(勝ち組)の男性が存在し、彼らは自分の周囲にいる女性たちに対して自信満々に行動する。雄としての男性として行動する。中には、一種のハーレム状況の男性もいるようだ。
山口敬之という似非ジャーナリストの意識もそんなものだったに相違ない。TBSTVで報道部長までのし上がり、時の総理大臣(安倍晋三)に深く取り入り、権力中枢に食い込んだ。人間はさもしいもので、権力中枢に近いというだけで、自らが権力者になった気分になるのだろう。
何度も書いたが、戦前の軍隊の将校たちは、何か説教をするたびに、「気をつけ!畏れ多くも天皇陛下におかせられましては・・・・・」と自らの考えを天皇という権威に仮託して語るのが常態化していた。天皇の名前を出すだけで、皆が恐れ入り、自らの考えが正当化され、権威づけされるのだから、堪らない。将校たちは、自らの全能感に酔いしれていたに違いない。絶対的な権力と言うものは、それに群がる人間たちの意識に決定的な腐敗を齎すのである。
山口敬之も同様。時の総理に近いという位置が、彼の精神状況を狂わせたのだろう。彼の驕り高ぶった心が、女性をただの「性の道具」と考え、伊藤詩織さんに対するレイプ事件を引き起こした。
彼自身は良く分かっていないのだろうが、彼の心それ自体が、前時代的封建的女性観をそのまま引きずっている古めかしい思想の表現である。権力に群がる人間たちのさもしい心根が手に取るように見える。
同時に、この前時代的思想を擁護する連中が、いまだに数多く存在する。この連中が懸命に擁護する権力者が、安倍政権だと言う事も明白だ。
彼らには、「文化としての性」の役割も 、女性の「自立としての性意識」の変化も何も分かっていない。あるのは、ただただ自らのよこしまな性欲を吐き出すためのエゴとしての性意識だけである。
そこには、人類が数十万年の歴史を積み重ねて作り上げた「人間文化としての性」などという意識すらない。女性にとって、まさに唾棄すべき存在だと言える。
「護憲+BBS」「 メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水