【1】明仁天皇の象徴天皇制へのこだわり
私自身は、日本の支配階層(政治・官僚・財界、メディアも含む)の中でもつとも日本国憲法の遵守義務を実践されているのは、明仁天皇であると考えている。
明仁天皇は、何故、ここまで憲法の精神(※特に象徴天皇制)を遵守しようとされているのか。
・・・2016年8月8日、明仁天皇は、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」をテレビやラジオ、インターネットを通じて人々に伝えた(本書二六三頁)。この「お気持ち」は自身の意思を強くにじませながら、しかも自身の考える象徴天皇のあり方や天皇制という制度の問題についても言及していた。
明仁天皇はこのなかで、「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」と述べ、「象徴」としての天皇像を自身がこれまで模索してきたことを強調している。その模索とは、憲法に規定された国事行為だけではなく、「象徴」としての立場からなされる「公的行為」の拡大と言える。
全国各地を訪問し人々と触れ合うことや被災者の見舞いを行うことなど、明仁天皇が重要視する活動は「公的行為」とよばれるものであり、憲法や法律にはそれに関する規定はない。それは、天皇が「象徴」としてのあり方を模索してきた結果生み出されたものであった。
「お気持ち」では、そうした公的行為を含めた「公務」すべてが「象徴」としてのあり方だと主張されている。自らが模索し形成してきた「象徴」としての天皇像への強い自負とも言えるだろう。そして「お気持ち」では最後に、「国民の理解を得られることを、切に願っています」と結び、自らが模索してきた「象徴」像を人々に問うた ・・・
河西秀哉の「象徴天皇制とは何か ★――★制度と個人のはざまで」
https://www.amazon.co.jp/平成の天皇制とは何か――制度と個人のはざまで-吉田-裕/dp/4000247239
この会見で、明仁天皇自らが語っているように、天皇自身が象徴天皇としてのあり方を模索し続けてこられたことが正直に語られている。
河西氏が指摘しているように、天皇としての【国事行為】だけでなく、象徴としてなされる【公的行為】の拡大により、象徴天皇としてのあり方を模索し続けてこられたことが良く分かる。
このような明仁天皇の象徴へのこだわりは、どのように生まれてきたのか。これまでわたしには今一つ腑に落ちなかった。
しかし、12月15日NHKTVで「歴史秘話 小泉信三 波乱の人生」の再放送を見て、明仁天皇が身をもって実践されている【象徴天皇制】への強いこだわりと自らを律する強い信念は、どのようにして育てられたのかが理解できた。
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★日本国憲法第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
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上記の規定がどのような過程とどのような議論に基づいて書かれたのか。憲法9条問題はかなり詳細に議論されているが、「象徴天皇制」についての議論は意外と少ない。逆に言えば、現在の象徴天皇制のありようがそれだけ国民に認知されている、という証左かもしれない。
同時に、この議論の少なさにも関わらず、明仁天皇が自らの人生を賭けて普遍化しようとした【象徴天皇制】について、国民はもう少しきちんとした議論をする必要があると思う。
【2】教育係としての小泉信三
上記の問題を考えるとき、明仁天皇の教育係としての小泉信三の役割を外して考えるわけにはいかない。
小泉信三は、慶應義塾大学塾長をつとめた学究。父信吉は、福沢諭吉の初期の門下生。その縁で慶應義塾大学に入学。経済学を学ぶ。晩年の福沢諭吉にかわいがられた。英・仏・独の大学で学び、帰国後慶應義塾の教授・塾長になる。
長男は戦死。自身も昭和20年3月の東京大空襲で被災。顔面などに火傷を負う。
昭和22年に慶應義塾大学塾長を辞任。昭和24年に東宮御教育常時参与に就任
皇太子 明仁親王(平成天皇)の教育係になり、「ジョージ五世伝」 「帝室論」 を説く。
小泉信三の略歴をざっと述べたが、彼自身の思想傾向は基本的に自由主義者だと考えてよい。彼は共産主義に対する強固な反対論者だったが、その反面唯物史観に対する一定の評価もしていた。特にマルクスの「資本論」は高く評価していた。その意味では、バランスの取れた知性の持ち主であったと考えられる。
彼は明仁親王の教育係としての信念を以下のように述べている。
・・「皇室がうまくいかないと言う事は、日本の不幸でもある。この厳しい言葉を伝えるのが自分の役割。
「新憲法によって天皇は国政に関与しない事になっていますが。しかし、何ら発言なさらずとも、君主の人格、識見は良くも悪くもおのずから国の政治に影響するものであり、殿下のご勉強と修養とは日本の国運を左右するものとお心得ください」
そうしないと天皇制は生き残れない、と小泉信三は考えていた。同時に、彼の皇室に対する敬愛の念は、戦前型知識人の一つの典型だった。
「世の君主、皇太子たるものの第一の義務が人の疾苦を思う事である。」・・疾苦とは、人々の悩み苦しみを指す。
小泉の天皇制存続に対する厳しい見方は、彼がGHQや日本国内での天皇に対する厳しい意見を知っていたからである。(例えば、戦後皇居前で行われたメーデーのプラカードに掲げられた文言。“朕はたらふく食っているぞ。汝臣民、飢えて死ね”)
彼の明仁親王に対する帝王学進講は、「天皇制存続」のための存亡を賭けた講義でもあった。
小泉は親王教育に積極的にテニスを取り入れた。小泉は、欧州留学の最後にウィンブルドンの大会を見学するくらい、テニス好き。英国貴族などのテニス好きを肌で知っていたのだろう。英国ではテニスは紳士のスポーツとされていた。その為、親王教育にテニスを積極的に採用した。
当初、明仁親王は、練習中、ボールを自分で拾いに行かなかった。彼には自分でボールを拾うという感覚がなかった。何事もおつきのものがしてしまうので、自分自身が何かをしなければならないという感覚が育っていなかったのである。
「貴族のお姫様は、恥ずかしさという感覚がなかった。だから平気で人前で裸になった。それが恥ずかしいことだと言う感覚が育っていなかった」という話がある。これと同じ事が明仁親王の感覚にもあった。小泉信三は、この感覚を直す事から始めた。彼は、我慢強く明仁親王がボールを自分で拾うまで待った。この当たり前の感覚を養うところから、明仁親王の帝王学は始まった。
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【何ら発言なさらずとも、君主の人格,識見は良くも悪くもおのずから国の政治に影響するものであり、殿下のご勉強と修養とは日本の国運を左右するものとお心得ください】
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これぞ、帝王学。儒学の教えだが、良くも悪くも日本の支配階級は、こういう姿勢で統治にあたっていた。君主の道とは、自らを厳しく律する道だと言う事である。
この番組では触れられていないが、英国貴族に【Gentleman Ideal】という考え方がある。日本の武士道と同様な「紳士の道」とでも言うべき考え方である。この中で特徴的なのは、エリートたるものは、頭脳はもちろん、自分の部下に腕力・体力でも負けてはならないという考え方がある。日本流に言うならば、【文武両道】である。同時に、自分の行為に対する「責任意識」も強かった。小説で言えば、シャーロック・ホームズのイメージ。彼はボクシングも強かった。
戦争中、英国人捕虜の中で将校を見つけ出すのは簡単だったと言われる。彼らは一般の兵より、身体が図抜けて大きかった、と言われている。映画「戦場にかける橋」でアレック・ギネスが演じた将校の姿が英軍人の将校の姿に近いと言われている。
このような紳士像は、英国の厳しい階級社会で生まれた。支配階級は一つ間違えば、革命でその地位を追われてしまう。文字通り、自らの生命がかかる問題。そういう中で自らの支配を継続する。生半可な姿勢ではできない。その緊張感がこのような教えを生み出した。
小泉は英国留学をしている。同時に父親は武士。当然、武士道の教えの中で育っている。これらが相まって、明仁親王に理想的な天皇像を構築してほしいという願いを託したのであろう。
安倍晋三や麻生太郎たちに聞かせてやりたい言葉である。
【3】福沢諭吉の「帝室論」とは
小泉の進講した福沢諭吉の【帝室論】は、1882年の4月26日から5月11日まで12回にわたって無署名社説として連載され、同年5月に単行本が刊行された。
福沢諭吉 帝室論 現代語訳
https://www.amazon.co.jp/帝室論-福沢諭吉-著-現代語訳-三島堂-福沢諭吉-ebook/dp/B014KG19C2
福沢の帝室論の肝は、政治上の争いに「帝室の尊厳とその神聖」を利用してはならないと言うところにある。その為に、帝室は「今後政治社会の外に立ちて、高尚なる学問の中心となり、かねてまた諸芸術を保存してその衰頽を救わせたまう」と述べている。福沢は、1887年に書いた「尊王論」でも同様の趣旨を主張している。
家永三郎は、福沢の政治的狙いについて、以下のように述べている。
・・・自由民権運動の展開に伴う官民の抗争の中で、政府与党が民権派を天皇制に敵対するかのように非難し、民権派の中にも事実共和主義の傾向を帯びた動きを生ずるおそれもなしとしなかったのを深く憂い、天皇を政治から隔離する事により、天皇を政治上の闘争が天皇制の安否に波及するのを防止し、その安全を図ろうと考えたところから出ている。
それは帝室の存続を図るための提案であるという点では、天皇制護持論の形をとっているけれど、そのためには天皇を政治上の実権から遠ざけねばならぬとする点では、天皇の大権強化を主張する政府とその他一般のいわゆる「尊王論」とは、名は同じでも、実際は著しく違ったものだと言わなければならない」・・・・・
家永三郎 筑摩書房 現代日本思想体系 福沢諭吉 解説 35p
家永は、このような福沢の考え方を彼の乾いたプラグマティックな発想にあると考えている。
・・・「第一。福沢が天皇制を護持しようとするのは、彼が心から天皇制を尊貴なものと仰ぐのではなくて、彼自らが露骨に言っているとおり、「経世上に尊王の要用」を認めたからに外ならず、言いかえれば、天皇制に利用価値があるというだけの話なのである」・・・・
(同上書)
小泉信三は経済学者。晩年の福沢の知己を得ている。福沢の人となりを知らないはずがない。もちろん、帝室論の中の福沢の乾いた認識を知らないはずがない。
同時に、彼は、新憲法制定の経緯についてもある程度知っていたはずである。天皇制存続についてのアメリカ国内の論議、諸外国の論議、GHQ内の論議もある程度知っていたと考えられる。(委細後述)
その彼が、あえて、明仁親王に「帝室論」を講義したのはなぜか。わたしの想像では、三つあると考えられる。
一つには、皇室存続の危機感がある。戦勝国の間にも、昭和天皇の戦争責任を問う声が少なくなかった。皇室存続の危機は、間違いなく現実の危機だった。
新憲法で、象徴天皇制として皇室が存続したのは、ある意味僥倖といってもよいくらいのものだった。だからこそ、次の天皇を担う皇太子(明仁親王)には、次の時代にふさわしい【天皇像】を創出する課題(皇室にとっては、責務と言って良い)があった。
二つ目は、戦前の歩みへの反省があった。福沢が、「天皇を超越的存在に祭り上げ、政治の領域外の存在」として位置づけた最大の理由は、「天皇の政治利用」が進むと国を誤る、と考えたからに相違ない。その福沢の杞憂が杞憂でなくなったのが、戦争までの日本の歩みである。この反省が小泉に無かったとは考えにくい。
三つ目は、新憲法の【象徴天皇制】の規定である。天皇制をどうするかについては、戦争が終わる前から、アメリカ国内でも議論されていた。戦争が終わり、いよいよ新憲法が制定されるという時、天皇制存続か否かの議論は、アメリカにとって最大の課題だった。
この問題について最も影響力を持ったのが、「極東における政治・軍事問題-日本統治制度の改革」(PR32)という国務省の指針である。詳細な事実の羅列は、煩雑になるので省略するが、PR32では、【日本がポツダム宣言を受諾した事を踏まえれば、天皇制を廃止してアメリカ型共和制に移行させるよりイギリス型立憲君主制にとどめることを勧告したのである。
・・・新憲法制定と象徴天皇制の起源- マッカーサー草案の成立過程- 小倉裕児
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110000413796.pdf?id=ART0000543098
ここから読み取れるように、象徴天皇制の制度は、イギリスの立憲君主制(王は君臨すれども 統治せず)をイメージして設計されたことは確かである。
小泉信三は、皇太子(明仁親王)に上記の問題を総合的に考え、皇室としてのあり方を模索させるために、福沢諭吉の「帝室論」と英国王室の「ジョ-ジ五世伝」を講義したと考えられる。
【4】 象徴天皇制の役割
戦後政治史における象徴天皇の政治的役割の研究では、一橋大学教授
渡辺治のものは避けては通れない。
『戦後政治史の中の天皇制』(青木書店、1990年)
渡辺氏は戦後天皇制を以下のように断定する。
・・常に「保守政治の従属変数、利用の対象」 であったと定義。内奏などによる天皇の政治介入の余地は残ったものの、総攬者としての権力が外形的にも存在しないために、実際の政治的な影響力は少なかった。・・・(同上書)
「保守政治の従属変数」とは手厳しい評価だが、現実の天皇制の評価としては、そんなものだろうと思う。
問題は、一般の人にはなじみが薄い【内奏】という言葉である。
◎内奏(ないそう)は天皇に対して国務大臣などが国政の報告を行うことである。
芦田内閣では行われなかった内奏が、第二次吉田内閣で復活した。現在においても首相をはじめとした閣僚による内奏は不定期ながら行われている。
政府は、内奏について「天皇の教養を高めるために閣僚が所管事項の説明を行う」「国情を知っていただき、理解を深めていただくということのためにご参考までに申し上げる」としている。・・・ウィキペディア ・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A5%8F
この「内奏」問題をクリアするために、小泉が選んだのが、「ジョージ五世伝」。おそらく、この伝記の中で引用されているウォルター・バジョットの君主論における三原則を重要視したのだろうと推測されている。(ケネス・ルオフ)
●バジョットの三原則(王は諮問に対し以下の権利を持つ)
①忠告し ②奨励し ③警告する
↓
内奏行為を正当化する
※ケネス・ルオフ (Kenneth James Ruoff, 1966年 - ])はアメリカ合衆国の歴史学者、日本研究者。ポートランド州立大学教授。 Center for Japanese Studies(日本センター)所長]。著書『国民の天皇』で2004年大佛次郎論壇賞受賞。
‥ウィキペディア・・
※ウォルター・バジョット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88
このように、象徴天皇制議論を詳細に詰めていくと、きわめて難しい要素が多く存在する。
ただ、このウォルター・バジョットの考え方は、マキャベリの「君主論」を発展させたもので、きわめてリアリスティクで福沢諭吉の乾いたプラグマティズムと認識を共有するものがあると考えられる。小泉が、「帝室論」と「ジョージ五世伝」を進講の材料に選んだ理由もその辺りにあるかもしれない。
【5】小泉信三の考える象徴天皇制
小泉が、「帝室論」について触れたのが、1948年。彼の解釈は以下の通り。
・・「皇室は政治社外に仰ぐべきものであり、またかくてこそ始めて尊厳は永遠に保たれる。 苟も日本において政治を談じ、政治の事に関するものは、その主義においてかりそめにも 皇室の尊厳と神聖を濫用してはなら」ない。皇室の任務というのは「日本民心融和の中心」 となることである。政治は人の「形体」は支配できるが、「人の深奥の心情」を動かすこ とはできない。であるから、「人情の世界を支配し、徳義の風俗を維持する一事に至って は終にこれを皇室に仰がなければなら」ない。「爾来六十年を経て回顧すれば、先生の尊 皇の志とその先見洞察とは、新憲法の制定せられた今日において特に人の心に感ぜしむる ところが多いと思う。」 ・・・・
小泉の帝室論の解釈は、福沢の皇室の活用法と言う意味できわめてプラグマティック。彼は、皇室の任務というのは「日本民心融和の中心」 となることである、と断じている。
・・政治は人の「形体」は支配できるが、「人の深奥の心情」を動かすことはできない。であるから、「人情の世界を支配し、徳義の風俗を維持する一事に至って は終にこれを皇室に仰がなければならない・・・
これは、ある意味、日本独特の考え方と言って良い。「人情の世界を支配し、徳義の風俗を維持する」のが、象徴天皇制の最大の役割でこれは皇室にしかできない、と言っている。
ここが立憲君主制のイギリス王室との大きな違いになる。イギリス王室の住人は、お世辞にも【徳義の風俗】を維持する中心とは言い難い。逆に言えば、彼らは、君主であっても人間で、人間としての喜び、悲しみ、苦悩、煩悩を体現している。
小泉の言う【徳義の風俗維持】というのは、戦前の神格化された天皇制の残滓を引きずっていると言わざるを得ない。この辺りが、戦前の良質な知識人であった小泉の限界だったかもしれない。
このように読んでみると、小泉は、福沢の「帝室論」に象徴天皇制のモデルを見ている。事実、彼は、「爾来六十年を経て回顧すれば、先生の尊皇の志とその先見洞察とは、新憲法の制定せられた今日において特に人の心に感ぜしむる ところが多いと思う。」と書いている。
このように見てくると、小泉信三が何を思い、何を考えて、「帝室論」を明仁親王の進講の教材に使ったかは明らかであろう。
同時に、彼は象徴天皇制の歴史とか意義とか思想的意味とか、そのような形而上的問題については、あまり語っていない。そんな事を語っても、「生まれながら天皇として生きる事を定められた宿命」のもとに生まれた明仁親王に何の意味もない。
彼はあくまでも、定められた宿命をどのように生きるか、を具体的に語った。「人情の世界を支配し、徳義の風俗を維持する」には、どうしたら良いか。おそらく、小泉は、皇太子への進講のすべての目的をこれ一本に絞った。テニスボールを自ら拾う、などという何でもない行為一つ一つに、「人情の世界」の具体性を教え、【徳義の風俗を維持する】具体的行為を教えたのであろう。
【6】 明仁天皇の考える象徴天皇制
昭和天皇が最初に担った戦後の「象徴天皇制」の歴史的役割については、渡辺治氏の「保守政治の従属変数、利用の対象」であって、実際の政治的力はほとんどなかった、という評価は、肯定しなければならない。
その後を継いだ明仁天皇は、父親である昭和天皇のやり方をほとんど踏襲しているが、天皇の国事行為をきちんとこなした後、象徴としての【公的行為】に力を注いだ。実質的には、【公的行為】の拡大と言って良い。何故なら、【公的行為】には法的規定はなく、天皇の意志によるところが大きい。
では、明仁天皇は、象徴天皇としての【公的行為】を拡大したのだろうか。
★制度としての天皇制
わたしは、明仁天皇は、【制度としての天皇制】を徹底的に生きる覚悟を固めたのだろうと推測している。では制度としての天皇制とは何か。
評論家で詩人の吉本隆明に源実朝を書いた評論がある。その評論の骨子が、【制度としての実朝】論である。この論は、歌にそって説明が必要である。
大海の/磯もとどろに/よする波/われてくだけて/さけて散るかも
・・・【かういう分析的な表現が、何が壮快な歌であらうか。大海に向つて心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思ふなら、青年の殆ど生理的とも言ひたい様な憂悶を感じないであらうか。(中略)いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあつたといふより寧ろ彼の孤独が独創的だつたと言つた方がいい様に思ふ。(中略)これが、ある日悶々として波に見入つてゐた時の彼の心の嵐の形でないならば、ただの洒落に過ぎまい。】(小林秀雄『無常といふ事』所収「実朝より)・・・
吉本の解釈も小林の解釈と変わらない。ただ、吉本は、実朝の孤独の解釈に【制度としての将軍】を生きるという意味を付与した。
よく知られているように、源実朝は、鎌倉幕府の三代将軍。初代頼朝は、流人。平家との戦争に敗れた源氏の御曹司。本来なら命のないところを命だけは助けられ、伊豆に流された。当然、彼の行動は平家によって監視されていた。
しかし、地方豪族にとって、源氏の御曹司はいわゆる【貴種】。存在そのものに意味があった。それが彼を鎌倉幕府初代将軍にしたものだった。頼朝は、自分を将軍にしてくれた地方豪族(北条氏など)を大切にしたし、それなりの配慮もした。頼朝は、将軍ではあったが、自分の置かれた位置をよく知っていた。それが、彼が将軍としてそれなりの権威と権力を保持できた要因だった。
ところが、二代目頼家は、そういう配慮があまりできないし、自らの立ち位置をあまりよく理解できていなかった。それが彼が修善寺で非業の最後を遂げる原因となった。
その後を継いだのが実朝。西行と実朝と言われるくらいの歌詠みだったが、現実世界での彼は非常に孤独だった。将軍と言う名前はあっても、実質的権力はない。文字通り名前だけの存在だった。同時に彼は、兄頼家の非業の最後の原因を知っていたはずである。将軍として、自らの意志を押し通せば、待ち受けているものは死。だから、彼はただ【制度としての将軍】を生きた。彼は、自らが「本当の事を言えば、世界が凍る」情況を生きなければならなかった。
●大海の/磯もとどろに/よする波/われてくだけて/さけて散るかも
この歌が、これほど辛い精神状況で読まれた歌だとしたら、小林の言う通り、実朝の孤独の精神のありようが独創的だった、と言う事になる。吉本は、この孤独のありようを【制度としての実朝】という視点で論じたのである。
明仁天皇の象徴天皇としての【公的行為】拡大の決意は、実朝の歌詠みに賭けた決意と重なるように見える。彼以外には、天皇の孤独は理解できない。彼以外には、天皇の覚悟は分からない。日本でただ一人の存在であるがゆえに、日本でただ一人の孤独を覚悟しなければならない。彼の悩みや苦しみは、そのほとんどが【抽象的悩み】であったはずだが、その【抽象性】に生きなければならないのが、天皇だった。わたしは、これを【制度としての天皇制】だと考えている。
★慰霊と鎮魂の旅
太平洋戦争で死亡した人々への【慰霊と鎮魂の旅】を天皇在位中に精力的に行い、その足跡はパラオ諸島まで及んでいる。もちろん、沖縄にも出かけ、平和の礎の前で鎮魂の祈りをささげた。
天皇の慰霊の旅にかける思いの解釈は様々あるだろうが、以下の文章が一番近いと考えられる。
http://news.livedoor.com/article/detail/10346601/
さらに毎年全国各地で頻発する自然災害の被害者の慰問とお見舞いを欠かしたことはない。齢を重ねるとよく分かるが、被害者の前で正座をして、被害者と同じ目線で話を聞く。この姿勢はなかなかできない。正座から立ち上がるのが大変難しい。明仁天皇も美智子皇后もそんな事はおくびにも出さず、平然とその姿勢を続けてこられた。
林家辰三郎だったか誰だったか、京都史学と呼ばれた歴史学者が、天皇ほど便利なものはない、と言っていた。その心は、「転変地変だろうが政治的災悪だろうが、みんなわたしが悪いのよ、といって責任をかぶってくれる存在ほど、ありがたいものはない」と言っていたが、明仁天皇と美智子妃殿下の象徴としての【公的行為】は、まさにこの評価そのものであると言える。
明仁天皇にとって、【公的行為】とは、天皇と言う存在の抽象性を具体性に変える重要な行為だった、と言えるのではないか。天皇制がこれだけ存続してこられたのも、こういう天皇家のありようが大きな要因だったことは間違いない。
私自身は、明仁天皇の象徴天皇制についての考え方の中核に、この世の様々起きる災悪に【全部わたしが悪いのよ】と全ての責任を負うのが天皇の宿命という考え方があると考えている。そして、その宿命を具体的行為に変えて、国民の前に差し出す。これが国民統合の要(象徴)になると考えておられるのではないかと想像する。これが小泉信三の言う【国民の疾苦に寄り添う】思想だと思う。
だから、明仁天皇になってから、天皇制についての疑問を呈する論者が少なくなった。昭和天皇の時代、あまりにも「保守政治の従属変数」的要素が目立った。理由は明白。昭和天皇の心の中に、戦争責任についての忸怩たる思いが終生付きまとったのではないかと想像する。
この点が明仁天皇と違う。さらに、小泉信三は、きわめてプラグマティクな考え方で天皇制を考えていた。つまり、天皇制はかくあるべき、という理論から天皇制を考えるのではなく、【むしろ、現状の象徴天皇制をどのように理論化し、正当化するかを目指した】。
これは福沢の立場に近い。新憲法下での天皇制を丸ごと認めたところから出発し、時代の進歩や変化に応じた【象徴天皇制】のあり方を模索し、理論化し、正当化する、というのが、小泉信三の姿勢だった。
明仁天皇が在任中ずっと【象徴天皇のありよう】について熟考し続けてこられたのも、小泉の思想や思考のありようの影響が大きかったと言わざるを得ない。
同時に明仁天皇は、戦後の民主主義志向にも柔軟に対応された。園遊会の席上で将棋の米長氏が、「学校で国旗を掲げる運動を一生懸命やっている」と言う趣旨の話をしたとき、天皇は「強制はいけません」とぴしゃりと言い放った。この断固たる姿勢は、明仁天皇の民主主義的思想の強靭さを感じさせた。
天皇制の存続については、多様な意見がある。それぞれにそれなりの論拠がある。天皇制と言うシステム自体が、民主主義システムとは本来相容れない。それが分かっていながら、【象徴】というきわめて微妙な立ち位置で存在している天皇制の頂点に位置する天皇が、最も日本国憲法の遵守義務を果たしている。
本来なら、政府与党や国会議員、官僚たちこそ、最も憲法の遵守義務がある。その彼らが、憲法遵守義務をないがしろにする。これが、平成と言う時代の思想状況の悲惨さである。
明仁天皇の退位を巡って様々な問題が顕在化している。秋篠宮の「宮内庁長官」に対する批判も、この間の天皇家と政治の確執を感じさせるに十分である。
家永三郎が、福沢諭吉の帝室論や尊王論の真の狙いを「天皇制護持論の形をとっているけれど、そのためには天皇を政治上の実権から遠ざけねばならぬとする点では、天皇の大権強化を主張する政府とその他一般のいわゆる「尊王論」とは、名は同じでも、実際は著しく違ったものだと言わなければならない」と書いたのと同じ状況が現在の日本で起き始めていると感得しなければならない。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水