老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

護憲派から改憲派へ、一つの回答

2016-10-31 10:13:16 | 憲法
なだいなださんが創った老人党の掲示板で表題のような議論が行われている。その要旨は次の3点とのことで、「意見には個人差があります」という前提で私見を書いてみる。

(問1)9条に定める「戦争放棄や戦力の不保持」だけで日本が戦争を仕掛けられたり戦争に巻き込まれたりしないという根拠は?

【答】これは改憲派の率直な不安であり、「(他国から)丸腰で身が守れるか」と護憲派を攻撃する常套句でもあるが、私は単なる議論のすり替えだと思う。これを言い出したら、日本の警察官は丸腰で犯罪者を逮捕しなければならない。

私は戦力ではなく「自衛力」は認める。だから、必要最小限の自衛隊は認めている。問題なのは、どこかのバカな首相みたいに自衛力(自衛隊)と戦力(軍隊)の区別がつかなくなる、線引きができなくなる輩が出てくることだ。だから戦力の前に外交力が大切で、不戦・話し合いという「姿勢」が重要だと思う。

真珠湾攻撃の開戦で失敗したというのに、いまだ日本の外交力が情けないレベルなのを改憲派はどう考えるか。積極的平和主義という言葉遊びの方が馬鹿げていると思うが。

私だって、犯罪者に殺されるまで無抵抗でいるほどバカじゃない。しかし、常にポケットにナイフや拳銃を忍ばせ、怪しいと思う人間が近寄ってきたら取り出して威嚇し、「オレに手を出したら、倍返しだぞ!オレが正義だ」と威張るようなバカでもない。ましてや相手が拳銃を持っていたら負けるので、次はマシンガンを持ち歩こう。それが現実だ・・・という大バカでもない。それがチキンレースとなり、軍拡競争やキューバ危機につながったことを思い出してほしい。

基本的に自分と他人、当家と隣家、自国と他国の関係に違いはないと思うのだけど。

(問2)「日本が第2次大戦後、戦争をせずにこられたのは、日米安保体制や自衛隊の存在のおかげ」という改憲派の意見をどう思うか。「~のおかげ」でないなら、日本が平和を維持できた理由をどう考えるか。

【答】戦争をせずに(戦争にならずに)済んだのは、日米安保体制や自衛隊の存在の前に「憲法9条があった」おかげである。

旧ソ連軍機が頻繁に日本を領空侵犯していた頃、自衛隊機は「武装して」度重なるスクランブル発進で対応していた。しかも「絶対に引き金を引いてはいけない」というルールで。憲法9条の縛りがなく、米国のマネをして威嚇射撃をしていたら、どうなっていたか。他国間ならば容易に撃墜事件⇒外交問題⇒紛争に発展していただろう。

しかし、自衛隊パイロットは侵犯機から攻撃される恐怖と闘いながら唇をかんで見送った。原則は「抜くな、向けるな、弾を込めるな」ということ。これが平和憲法下で運用される「専守防衛」自衛隊のプライドだった。そのための訓練を黙々と繰り返してきたが、「それじゃ、空しい」と考える自衛隊内外の論調が怖い。

特に「専守防衛」看板をいとも簡単に一政権が外してしまう怖さを、改憲派はどう考えるか。

(問3)日本の近隣には核武装を進める北朝鮮や、南シナ海や東シナ海で覇権をうかがう中国がいる。こうした国々の覇権主義的な行動を止めるには、対話のほか、抑止力として一定の軍事力も必要ではないのか。

【答】「一定の軍事力」は認める。しかし、「一定」とはどれほどか。一定の軍事力で覇権主義的な行動を止められるのか。「一定」が仮想敵国との比較で決まるなら、「日本も核武装をすべき」となる。それで覇権主義的な行動は止められるのか。その行く末は改憲派もおわかりだと思うが。

そんな「一定の軍事力」よりも、日本には超一流の情報収集力・外交能力が必要である。単にイージス艦を導入したり外遊して数千億円をバラまくのは全くのナンセンス。要は「活きた使い方(運用)」ができる政治家が軍事力よりも重要である。

【まとめ】改憲派はなぜ、憲法9条を刹那的にとらえ、単なる文言や「神風を呼ぶ呪文」と考えるのだろう。70余年前、終戦で安堵し反省した日本人が「過ぎた武力を持つから、権力者が持つから使いたくなる。相手に引き金を引かせるように暗躍したくなる。まず、殺し合いよりも話し合い」と考えた結果が平和憲法ではないのか。東京新聞の直近の記事によれば、「米国の押しつけ憲法」という改憲派の主張も明確な事実誤認である。

「今の時代に合わない」などと日本国憲法を軽んじる前に、当時の日本人全体が「もう戦争はこりごり」と悟って生まれたのが日本国憲法(とりわけ憲法9条)だと、改憲派は胸に刻んでほしい。今の時代を憲法に合わせる努力をしてほしい。「戦争にならないための議論」は、そこから始まる。

当然、平和憲法を直視せず曲解する政治家、民主主義や立憲主義に無知・無恥な首相は論外である。

「護憲+コラム」より
猫家五六助

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「差別と分断の末の暴言」(10/29毎日)と「沖縄・高江緊急報告会」報告

2016-10-29 17:30:52 | 沖縄
沖縄・高江での機動隊による差別発言の映像に衝撃を受けて、高江のことをきちんと知りたいと10月26日の「沖縄・高江緊急報告会」に参加しましたが、その参加報告を書こうとしていた矢先、10月29日の毎日新聞「メディア時評欄」で、高江で起きていることについて、「機動隊の暴言」の背景と基地問題の本質という形で端的にまとめた、フリーライター屋良朝博さんの(私が言いたかったような)優れた論評に出会いました。

http://mainichi.jp/articles/20161029/ddm/005/070/011000c

==引用開始==
「差別と分断の末の暴言」
米軍北部訓練場のヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)の移設工事を巡り18日、抗議活動をしている市民らに対し、大阪府警から派遣された20代の機動隊員2人が発した差別的な言葉に戦慄を覚えた。
(略)
おそらく彼らが生まれたころだろう。1995年、米海兵隊員ら3人が女子小学生を拉致・暴行する事件があった。日米両政府は沖縄の怒りを鎮めようと、負担軽減策のひとつとして北部訓練場の約半分の返還に合意した。返還予定地内にある離着陸帯6基の移設が条件とされ、東村高江集落を取り囲むように配置することにした。
人口約140人の集落では、米軍輸送機オスプレイやヘリが頻繁に旋回し、静寂を壊すようになった。さらに、安倍政権になって工事が強引に進められ、機動隊員と反対派との衝突が激化した。
(略)
海兵隊はその歴史を沖縄に赴任する新任隊員に教えている。研修で使う資料の中に、こんなくだりがある。「1879年、沖縄は日本に併合されて以来、劣った民族として差別を受けてきた」「政府と沖縄はここ20年来、基地を巡り対立することが多かった。政府は米軍部隊と基地を沖縄に置きたがっている(なぜなら代替地を本土で探せないからだ)」
(略)
北部訓練場の返還合意は20年前。その後、海兵隊の半分削減が決まった。訓練する隊員は減り、もともと訓練場には15基の離着陸帯がある。移設は必要だろうか。
なぜ沖縄の民意はかくも軽視されるのか。無関心と無意識の差別の中に潜在する基地問題。米軍さえ見抜いている病理が隠蔽されてはいまいか。
==(引用終わり)=

今回の機動隊の差別発言は、これまで沖縄の問題に無関心だった人たちにも注目されるようになりましたが、その主たる関心事は高江で繰り広げられている地元住民や支援者と、全国から集められた機動隊や防衛局員らとの間の激しい衝突であり、機動隊の暴力行為や不当逮捕が問題視される一方で、抗議場面の一部だけを切り取り、「どっちもどっち」論で論評する風潮も広がっているようです。

しかし、今の事象を語るのならば、上の「時評」のように、高江や辺野古で起きていることの本質を、「沖縄と本土」「沖縄と米軍基地」の全体像にまで広げて、きちんと読み解く必要がある、というのが私の第一の認識です。

更に、付け加えるならば、米軍がジャングルでの戦闘を想定した訓練をするために無惨に伐採し続けている「やんばる」の森林は、多用な生物種の生育地、生息地となっており、その中にはやんばるの固有種、固有亜種、絶滅危惧種も多く含んでいるそうです。

貴重な命を育む掛け替えのない場をわざわざ破壊し、戦闘で人の命を奪う訓練の場にしようとは、何と傲慢で愚かな選択でしょう。

10月26日の「沖縄・高江緊急報告会」では、一度壊してしまったら元に戻すことができない豊かな自然を破壊する行為への怒りを、涙ながらに訴える地元女性の映像も紹介されていました。

沖縄の基地問題については、「差別と分断」という構造の理解と共に、自然との共生という地球規模の視点からも、私達一人ひとりが真剣に考え見直すべき時期だと思います。

今こそ一人でも多くの人に真っ直ぐな目で沖縄を見つめ、寄り添って欲しい。「沖縄・高江緊急報告会」で、映画「高江―森が泣いている」を観、講師の報告を聴きながら、心からそう思いました。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
笹井明子
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自衛隊、「お国のために散華・・・」でよいのか?

2016-10-28 15:51:52 | 集団的自衛権
南スーダンへ自衛隊の海外派遣準備が着々と進められています。「日本刀を抜刀」陸自のエンブレムが物議をかもしていますが、当の自衛隊が幹部候補生へどのような思想教育を行っているか・・・噴飯どころか背筋が寒くなります。

 まとめサイト「NAVERまとめ」から
陸上自衛隊の幹部候補生学校の公式サイトがすごい件、そして「陸自の歌姫」の件も
http://matome.naver.jp/odai/2145294579886791801

結局、相変わらず「お国のために死んで来い」なのです。南スーダンでは現地武装勢力と自衛隊の武力衝突も予想されています。身を守るための反撃にとどまらず、「作戦」と称して先制攻撃に至ることはないのか。

自衛隊は軍隊であり、自衛隊員は誰のための正義か、何のための正義か・・・など考える必要もなく、政府や統幕が決定した命令を忠実に遂行し、「敵」を殺し、一歩間違えば殺される。

その心構えの根底が「先の大戦でお国のために散華した英霊を敬う」、そんな自衛隊でよいのでしょうか?100歳で他界された三笠宮さんが実体験された中国・南京での日本軍の蛮行を批判し、戦後の右傾化を憂いたお気持ちを、安倍政権と統幕は重く受け止めるべきです。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
猫家五六助
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「憲法改定民投票のルール改善を考える会議」10/24参加報告

2016-10-26 15:25:05 | 憲法
10月24日、笹井さんと二人で「憲法改定国民投票のルール改善を考える会議」に参加しました。

パネラーの方々は、メディアの有料広告、メディアキャンペーン等に危機感を持っておられ、ネットを含めた制作費の総量規制等の枠をはめなくては駄目だ、という意見がありました。

例えば、「原発プロパガンダ」著者の本間龍さんからは、今、原発再稼働を目論んでいる人達は、その地域で電事連等の金に糸目ををつけない広告を毎日のように流し、有名タレント達が多数出演し、原発で働らく人達の真摯な姿を映し、見る人の情緒に訴える戦略を使っている、という指摘がありました。

井上達夫さんは、国民投票の前に国民が熟議する時間が必要。国民が仕事を休み政府が休業補償する制度もあったら良いと述べていました。それは確かに良いアイディアだと思いました。

映画『第9条』監督の宮本正樹さんは、映画というのは入り込んでしまう恐ろしさがあると言っておられました。私は毎日テレビで流されるCMにも、知らない内に影響を受けている怖さがあるのではないかと考えました。

自分の意見を9条だけでなくちゃんと言いあえる社会になって欲しい。一般大衆、市民に広く関心を持って欲しいという意見は、まさしくその通りだと思いました。

やはり一番の問題は、メディアコントロール、それもテレビではではないかと私は思いました。

「テレビを征する者は国民投票を征する。」なんて事にならないように、これからもより良い国民投票の形をさぐって行かなければと思いました。そういう意味では実り多いシンポジウムでした。

「護憲+BBS」「憲法を考える」より
パンドラ
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一銭五厘の旗

2016-10-24 20:53:52 | 民主主義・人権
花森安治の「一銭五厘の旗」は、以前、老人党掲示板で紹介した事がある。1970年に『暮らしの手帖』に書かれたこの詩は、平成の今、読んでも色あせないばかりか、ますますその輝きを増している。

何故なのか。

花森の戦争への真摯な反省と、時代を切り取る鋭敏な感性が合わさって、このようなとぎすまされた詩が生まれたのだろう。花森の一言一言が、時代の本質を見事に切り取っていたからこそ、ますます光り輝いて見えるのであろう。

「一銭五厘の旗」は非常に長い詩なので、興味のある方は、以下のサイトでご覧下さい。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/2bf9251e3d3d5ebe04e10ab356c111ed

(前略)・・
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
・・・(中略)・・・

毎日毎晩空襲に怯え、防空壕に入り、焼夷弾から逃げまどった昨日までが、まるでうそのようだった、という花森の感性は良く分かる。「へらへらわらうと 涙がでてきた」・・・生きるの死ぬのと大騒ぎをし、緊張しっぱなしの日常から解放された安ど感を見事に表現している。御大層な事を言っても、人間なんて所詮そんな上等の生き物ではないのだ、と言っている。

・・・(中略)・・・
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
 
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった
たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ
戦争には敗けた しかし
戦争のないことは すばらしかった
・・・・・

花森は、敗戦の概念を「たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった」「たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった」「生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ」と捉える。

花森のこの感性は素晴らしい。戦前は、曲がりなりにもインテリとして生きてきたであろう花森が、戦後反戦の旗印を最後まで掲げ続けられたのは、こういう素朴な日常に感動する感性の持ち主だったからであろう。だから、彼は、「戦争のないことは すばらしかった」と素直に表現できた。

・・(中略)・・
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは 一銭五厘で来るぞ とどなられながら 
一銭五厘は戦場をくたくたになって歩いた へとへとになって眠った
一銭五厘は 死んだ
一銭五厘は けがをした 片わになった
一銭五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
・・(中略)・・

花森の怒りは、戦争中の上官・軍隊・社会のしくみなど全てに向けられる。中でも、「一銭五厘」でいくらでも代わりが来ると言われ続けたように、人の命を虫けらのように扱う軍隊や上官のありように、花森の怒りは向けられる。そして、いつの世でも「一銭五厘」の運命にさらされるのは、<庶民>ぼくらだ 君らだ、と叫ぶ。二度と決して「一銭五厘」の命になってはいけないと叫んでいる。

平成の世の今現在、「お前たちの命は一銭五厘だ。かわりはいくらでもいる」と叫んだ上官と同じ感性の持ち主を見る事ができる。沖縄高江に派遣された大阪府警の機動隊隊員が反対住民に浴びせかけた【土人が】と言う言葉、「お前たちの命は一銭五厘」とさげすんだ上官と全く同じ感性である。

そして、そう蔑んだ上官も同じ「一銭五厘」の赤紙で招集された人間。【土人が】と蔑んだ人間も時の権力に利用され、権力に都合が悪ければ、今回のように処罰される弱い立場の人間。要するに弱い立場同士の人間が、お互いにののしり合い、憎みあい、蔑み合う。隣組の理不尽な同調圧力に泣いた戦前と全く同じ光景が繰り返されているのである。

そして、戦前と現在まで通底しているのは、【権力との距離】によって、人を判断し、区別し、差別するという悲しい人間の性は変わらない、という事実である。権力に近い場所にいる人間ほど偉い、というどうしようもない理不尽な現実がある。【分断して支配せよ】という支配の要諦は、この悲しい人間の性に基づいている。

花森は、1970年当時、日本の未来に深刻な危機感を抱いていた。戦後日本の微妙な方針転換を肌で感じていた。

・・・(中略)・・・
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして ぼくらを もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは
家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょう
といった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと 七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります と
総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては まず国立劇場の立派なのを建てることです と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに ベニヤ板を
打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから 窓には
いろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして キャバレーで遊んでいた・・・
 
花森の筆は、戦後の民主主義の一瞬の輝きを正確に捉えていた。わたしは今でも村の村長や村会議員とわたしたち中学生との話し合いの場面を鮮明に記憶している。たしか昭和34年だった。その時、わたしたち中学生は、何故村会議員は、物事を議会で決定しないのか。何故宴会の場で決めるのか、と責めたてた記憶がある。村で唯一の料亭の息子から、宴会の場で物事が決められているのを聞いていたからである。村長や村会議員は釈明に追われていたが、当時はそれが民主主義だと考えられていた。

それは一瞬の光芒だったかもしれないが、戦後たしかにこんな風に民主主義が光り輝いていた時代もあった。

・・・(中略)・・
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこちゃんなどといっしょに つっこまれたきりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして いったい何の用かね といい
・・・・・・

「もはや戦後ではない」と言う言葉があった。「戦後」という言葉には様々な意味が込められていた。現在から見て確かに言える事は、支配側(特に自民党・財界・官僚)から見た戦後は、【民主主義を錦の御旗にして、国民が文句を言い、権利を主張し、思い通りに物事を運べない面倒な】時代だという認識があった事である。彼らに取って、「もはや戦後ではない」という意味は、「もはや戦後民主主義ではない」という意味と同義だったのだと思う。花森も同様な事を痛切に感じていたのであろう。

・・・(中略)・・・
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
 
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだまされたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理できるはずはない
・・・・・・

この花森の怒りは、今も新しい。安倍晋三とその取り巻きども。全く言う(湯)ばかり)。証券会社は救うが、一個人は救わない。それは、もっと酷くなり、今や1%の利益にために、99%の国民の利益は切り捨てられる時代である。

最後に花森は以下のように書き、戦前とは違う「一銭五厘」の人間たちの決意を述べる。

・・・(中略)・・

ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない・・・・・

昨年、SEALDsに結集した学生たちや若者たち、多くの市民たちを彷彿とさせる宣言である。

花森安治は色あせてない。否。ますます輝いている。わたしたち市民は、老いも若きもそれぞれの旗を立て、節度を失い、物事が見えなくなった支配権力にNOをつきつけなければならない。花森ではないが、二度とふたたびう後悔しないために。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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沖縄・高江緊急報告会―映画「高江―森が泣いている」を観て10/26

2016-10-23 22:21:24 | 沖縄
沖縄・高江のヘリパッド移設工事現場で2人の大阪府警機動隊が抗議活動をする市民に向けて発した差別発言は、さすがに大きな波紋を呼び、2人の隊員は戒告処分を受ける結果となりましたが、高江では、これまでも、現在も、機動隊員の暴力によるけが人や、不当逮捕者が続発していることが、日々ツイッター等で報告されています。

こうした事態に、沖縄県外で暮らす私たちはどう向き合い、どう考えたらよいのでしょうか。また、事態を打開するために私たちには何ができるのでしょうか。

10月26日に、「沖縄・高江緊急報告会」が下記のとおり開催されます。私も参加を申し込みましたが、まだ若干空きがあるようです。辺野古や高江で起きていることに心を痛めている方は、この会に参加して、皆さんと一緒に考えてみませんか。

+++

【転送・拡散】歓迎

沖縄・高江緊急報告会―映画「高江―森が泣いている」を観て

沖縄県・高江でいま起きていることを映画で観て7月、8月と続けて、高江・辺野古に通っている水沢澄江さんから報告を聞き、基地建設を止める手立てを皆で話し考えましょう。

■日時 2016年10月26日(水)18:30~21:00 開場18:00

  18:30 映画「高江―森が泣いている」60分 森の映画社
  19:30 高江・辺野古報告 水沢澄江さん
  *報告を受けて、基地建設を止める手立てを皆で話し考えましょう。
  21:00 終了

■会場 練馬区立 区民・産業プラザ 研修室5 練馬駅北口から徒歩1分 Coconeri3階
  西武池袋・有楽町線(副都心線、東急東横線直通)、都営大江戸線の練馬駅 

■参加費 300円 学生無料 
■定員 33人 会場がいっぱいになり次第締め切らせて頂きます。

■主催 沖縄を学び考える会
 予約・お問い合わせ
 rie(アット<・・変換してください)sepia.ocn.ne.jp
+++

「護憲+BBS」「イベントの紹介」より
笹井明子
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真の民主主義者平尾誠二(ミスターラグビー)の死

2016-10-21 16:54:27 | 暮らし
平尾誠二氏が死んだ。享年53歳。如何にも早すぎる死である。

わたしが本当の意味で、ラグビーファンになったのは、平尾誠二氏のプレーと彼のラグビー理論を聞いてからである。

昨年のラグビーワールドカップでの日本チームの活躍も平尾氏の先見性が下地にあったからできた、と言って過言ではない。日本ラグビー界にとって、平尾氏の存在は、それくらい大きかった。

各新聞で平尾氏の功績は詳細に書かれているので、ここでは繰り返さない。わたしは、新聞とは、別の視点から平尾氏を評価したいと思う。

平尾氏は、泣き虫先生として有名になった山口良治監督率いる伏見工業出身。花園で行われた全国大会でSO(スタンドオフ)として活躍し、全国制覇を成し遂げ、一躍スターダムにのし上がった。

わたしは、大学卒業後京都で高校教師だった時期があるのでよく知っているが、当時の伏見工業の評判はあまり良くなかった。山口良治監督は、この高校の立て直しをラグビーを通じて行ったのである。この話は有名で、TV番組「スクールウオーズ」のモデルになったほどである。ここまでは、多くの人が知っている話である。

わたしが注目しているのは、平尾氏が進学した同志社大学のラグビー部時代の話である。

当時の同志社大学ラグビー部監督『岡仁詩氏(1929年11月10日 - 2007年5月11日)は、日本の元ラグビー選手。元ラグビー日本代表監督。日本ラグビーフットボール協会理事。同志社大学ラグビー部元監督、同大名誉教授。同大FWで活躍。同志社ラグビーの象徴ともされる存在である。』ウィキペディア

この岡仁詩氏、軍隊時代の経験から、強権的な指導が大嫌い。非常に民主的な部活動指導・運営を行った事で有名である。同志社の学風と相まって、同志社ラグビー部の独特の文化を創り出していた。

『監督当時、明治大学ラグビー部監督の北島忠治から「もっとFWを鍛えないと、チームは強くならないよ」と言われて以来、FW重視のチームを作り、関西最強のラグビーチームを作った。ただし基本は選手の自主性を重んじたチーム作りであり、型にとらわれないプレースタイルが選手たちの個性に当てはまったときの強さは、前述の3連覇時のように大学界で無敵、社会人相手にもひけをとらないほどであった。』ウィキペディア

平尾誠二という類まれなラグビー選手を生み出した秘密は、岡監督の「選手の自主性を重んじたチーム作りであり、型にとらわれないプレースタイルを奨励」した賜物であろう。

平尾誠二の前、日本ラグビー界を牽引したスターは、明治・新日鉄釜石で活躍した松尾雄二。スタンドオフとして活躍した彼の奔放なプレースタイルは一時代を築いた。その彼が、平尾誠二のプレーに脱帽していた。

松尾曰く「野球でノーアウトで一塁にランナーが出ると、大抵の日本の監督はバントのサインを出す。それと同じで、ラグビーにも様々な約束事がある。それを無視したプレーをすれば、あいつは何している、と仲間や監督から指弾される。松尾の時代はそうだった。
 ところが、平尾は違った。平尾がいうには、約束事を無視したプレーをする仲間がいたら、その動きに合わせて仲間がフォローする。そうしないと、日本のラグビーは世界に遅れる、と」

松尾雄二は、平尾のラグビー観は、常に世界を見つめ、時代の二歩三歩先を歩いていたという。

同じ事を、伏見工業・同志社・神戸製鋼と平尾と同じ道を歩いた大八木選手が言っていた。「日本のラグビーが今やっと平尾に追いついた」と。

わたしは、十年以上前「百足の歩み」というラグビー論を書いた事がある。「百足の足は、何故別々の動きをしないのか。それは前の足が歩み始めたら、後ろの足がそれをフォローするからだ」という動物学の話から、平尾誠二の理論「前の仲間が意表を突くプレーをしたら、それを責める前に、その仲間のフォローに走れ」を説明したものである。

当時のわたしの脳裏には、仲間に同じ事を強要する圧力(同調圧力)こそが、いじめの温床であり、日本社会最大の欠点だという認識があった。平尾誠二のラグビー理論は、そこを超える新たな地平を切り開いていたと思う。

昨年のワールドカップの日本代表選手の顔ぶれを見れば一目瞭然だが、日本に帰化した外国人選手が多数いた。マイケル・リーチ主将もそうである。

実は、外国人選手を多数日本代表選手に抜擢したのも、1997~1999の平尾誠二が全日本の監督時代からだった。今でこそ、当然と思われる事だが、当時平尾は外人を入れるなど日本代表チームではない、という批判を受けていた。

昨年のワールドカップですら、ヤマハの清宮監督などは、外人選手が多すぎるという同じような批判をしていた。しかし、清宮監督もワールドカップの結果を見て、自説を撤回したようである。

事ほどさように、平尾誠二の先見性は、群を抜いていた。ラグビー界にとって、本当に惜しい人材を失ったと思う。私にとっても、畏敬すべき存在だったので、残念至極である。

謹んで冥福を祈りたいと思う。合掌。

「護憲+コラム」より
流水
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今、再び「戦争のつくりかた」を読む

2016-10-17 10:19:19 | 戦争・平和
皆様、「戦争のつくりかた」という絵本をご存知でしょうか。

これは2004年、「リボンプロジェクト」というグループが、当時の「有事法案」を読み込む勉強会を続けていく中で、「有事法制」の成立を止めようと呼びかけるネットワークを作り、その中で作り上げてきた絵本です。

あの頃「日本が100人の村だったら」という絵本が大ベストセラーになり話題を呼んで、それに類似した絵本が出版されました。でも「戦争のつくりかた」はそれに便乗した本ではありません。少しシュールな画と分かりやすい言葉で、2004年の日本が少しづつ戦争に向けて歩み始めたら、どういう事が私達の周囲で起こり始めるか、が描かれています。

そこに描かれている事の幾つかは2016年の今、日本で、私達が住むこの国で、既に起こり始めています。

「私達の国は、60年近く前に『もう、戦争はしない』と決めました。(略)でも国のしくみやきまりを少しづつ変えていけば、戦争をしない、と決めた国も、戦争ができる国になります」
「私達の国をまもるだけだった自衛隊が武器をもってよその国に出かけていくようになります。世界の平和を守るため、世界で困っている人を助けるためといって。」
「戦争にはお金がたくさんかかります。政府は税金を増やしたり、私達のために使うはずだったお金をへらしたり、わたしたちからもお金を借りたりしてお金を集めます」
「わたしたちの国の憲法は、戦争をしない、と決めています。『憲法』は政府がやるべきことと、やってはいけないことをわたしたちが決めた国のおおもとのきまりです。戦争をしたい人たちにはつごうのわるいきまりです。そこで『わたしたちの国は、戦争ができる』と憲法を書きかえます。」
(「戦争のつくりかた」より)

ここに書かれている事は何処まで実現しているのでしょうか。

「もし、ここに書いてあることがひとつでも実現していたら大人たちに『たいへんだよ、なんとかしようよ』と言ってください。おとなは、いそがしい、とかいってなかなか気づいてくれませんから」(「戦争のつくりかた」より)

私達はこのメッセージを受け取り、拡めていかなければいけません。大人は忙しく直ぐに忘れてしまうものですから。

選挙の時投票に行かない人たちは、自分達の未来をどう考えているのでしょうか。「茶色の朝」の衝撃を忘れてしまったのでしょうか。経済を人質に取られ、誰かの言うままに唯々諾々と従って行くのでしょうか。

働く事も、趣味を極める事も、子どもを育てる事も、とても大事な事です。でも、少しの時間と興味を「戦争のつくりかた」に向けて下さい。

この絵本の最後には次の文章が書かれています。

「私達は未来をつくりだすことができます。戦争をしない未来をえらびとることも。」
(「戦争のつくりかた」より)

自分達の未来は是非自分で選び取って行きたいものです。

「護憲+コラム」より
パンドラ
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どーぞ、どーぞ!

2016-10-16 14:35:22 | 集団的自衛権
ヤスベ政権はPKO活動に積極的で、南スーダラでの駆けつけ警護を実現するため、すでにジェイ隊員の実戦訓練を支持しているらしい。「専守防衛」のために日々命がけで任務につくジェイ隊員にとっては、勝手に「死んで来い!」という看板に書き換えられては納得できない。

そのジェイ隊員たちのつぶやきを察知した超人ネコヤは一計を案じた。それは、懐古主義でエエ格好しいのヤスベ首相にはピッタリの作戦であった。作戦名は「どーぞ、どーぞ!」。

まずは、PKOに召集されそうなジェイ隊員1万名を「ヤスベがみんなを励ます会」へ招待した。司会は超人ネコヤ、壇上にはヤスベ首相とそのオトモダチ大臣・議員が列席している。

まずはヤスベ首相のスピーチ。彼はお決まりの積極的平和主義を唱え、背後のオトモダチを振り返って、言った。
「皆さん、この勇気あるジェイ隊員たちを称えようではありませんか!」
すかさず、ヤスベ首相とオトモダチ一同は拍手しながらのスタンディング・オベーションを演じた。

すると突然、一人の若者(超人ネコヤの助手)が壇上へ駆け上がり、マイクを取り上げて叫んだ。
「会場の諸君!君たちに必要なのは安っぽい拍手じゃない!PKO派遣先がどれだけ危険かを身を以て知るため、現地で先頭に立つリーダーだ。オレがその役目を引き受ける!」

司会の超人ネコヤはマイクを奪い返して、叫ぶ。
「おいおい、勝手なことを言うな!そんな勇ましくてカッコイイ役目を持っていく気か?それなら、このネコヤが命にかけて先陣を切ろう!」
「司会者ふぜいが、なにを言うか。オレが行くんだよ!」
「オマエこそ飛び入りのくせに。私が行くんだから!」

その様子をイライラしながら眺めていたヤスベ首相、たまらず2人の間に割って入った。
「きさまら、私を差し置いて失礼じゃないか。そんな大役は私が担う!」

間髪入れず、司会者と飛び入りは言った。
「あっ、どーぞ、どーぞ!」

会場は割れんばかりの拍手、1万人がスタンディング・オベーションでヤスベ首相を称賛した。一瞬何が起こったか理解できなかったヤスベ首相は、言葉の重さをかみしめながら後ずさりし、よろめいた。

翌日のトーキョ新聞1面には「ヤスベ首相、PKOで現地指揮官に」の見出しが躍った。同じ紙面には小さく、「ヤスベ首相、体調不良で緊急入院」の小見出しが。本当の病気か、いつもの手段か、真相は不明だが・・・おあとがよろしいようで。テケテン、テケテン・・・

「護憲+BBS」「どんぺりを飲みながら」より
猫家五六助
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「野火」

2016-10-11 22:37:42 | 戦争・平和
2015年7月25日公開の映画「野火」をツタヤで借りて鑑賞した。構想20年におよぶ映画は、自主製作となっている。塚本晋也監督が監督・脚本・製作・主演で世に問うた作品だ。塚本監督は、安倍政権の戦争への歩みと戦後70年という節目に、「今」しかないと言っているようだ。

この2015年版の直後に1959年版の「野火」も鑑賞した。市川昆監督。主演は船越英二。どちらの作品も小説「野火」を底本にしてフィリピンのレイテ島山中を主に食糧を求めて「敗残兵」がさまよう作品となっている。当然のことながら画面は重苦しい。

「野火」という映画を二本立て続けに鑑賞した後、私は原作に当たる必要性を感じた。30年以上前に読んだもので、再び原作を読みだすとほとんど忘れていた。

原作と映画は全く別物のようにも感じられた。映画では人肉食の場面もあり、映像でこのシーンを再現するとなるとかなり残酷極まりない。ところが小説ではその残酷さは乾いたものとなっている。それは小説の文体のせいであろう。

作者の大岡昇平は作家になる前はフランス文学に傾倒しており、京大のフランス語科出身、本人によればスタンダール研究家ということである。

日本の小説家は私小説が多く、また加藤周一によれば日本文学の根強い傾向として「情緒的」であり論理的な文体に欠ける。しかし、太平洋戦争の負け戦を描くのに、日本的な情緒的「文体」では不適当であろう。作者の大岡はあえてフランス文学で鍛えられた乾いた文体を、意図的に選んだと言ってよい。

このフランス文学にも通じる一文を引用しよう。

「糧食はとうに尽きていたが、私が飢えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目ざめていた。死ぬまでの時間を、思うままに過ごすことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有であった。携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、私はただその時を延期していた。」(八 川の51ページ)

作者は俘虜記というノンフィクションで有名な作家であるが、「野火」全体に流れる主調音は戦力で圧倒的な差がある米軍に制圧された、日本軍の敗兵による逃走劇であり、敗走千里の道をその日ぐらしで送らざるを得ない、まさに飢餓地獄を描いたものである。

その日々の「日常生活」(日常というほどのどかではなりえないが)を敵(敵は主にフィリピンの市民であった)に捕まらないように逃走するという非生産的なものとして送る、その描写である。したがって、こうした生活をリアルに描こうとするときに日本文学の伝統の中に巣くった「情緒的」文体では不適当にならざるを得ない。

近現代の戦争の非情な冷酷さをどうしても演出するには、日本文学的な文体ではなく、西欧的な乾いた文体でなければならない。「野火」の作者がスタンダール研究家であることは好都合だったと思われる。

しかも日本軍の論理はその当時、日露戦争の時代と異なり「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が支配していたのであり、敗兵が選択できる逃走方法は限られていた。

フィリピンの戦場で捕虜として生還できた作者が、レイテ島で敗残兵として逃走していたならば、「野火」の主人公田村一等兵は作者の大岡昇平だったのであり、敗兵となった田村は「死ぬまでの時間」をなんとか延長してその日の食糧である、芋一本を求めて島の山中をほっつき歩かなければならなかったのである。

実際にはこの小説では田村一等兵は大岡昇平と同様に生還しているのであるが、大岡昇平がミンドロ島ではなく「野火」の田村と同じレイテ島に派遣されていなかったのは、偶然にすぎない。田村一等兵はその意味で作者の分身であるとも思える。

「野火」のテーマである敗残兵の逃走劇は、もう一つの隠されたテーマ;「人肉食」に必然的に赴かざるをえない。なぜなら、レイテ島に米軍の主力部隊がやってくると、日本軍は圧倒的な戦力の差で敗走軍となり、同時にいままで占領していた島民が敵となり、日本軍の敗兵はただただ逃げ回るだけとなる。しかも日本軍の「玉砕」精神のために捕虜となることもできないので、逃げるための「食糧」である「芋一本」を求めての逃走劇となる。

先述したようにこのリアルな「戦闘」(実際は戦闘はない。あるのは逃げるための敵への攻撃だ)を描写するには日本的な文体では不可能なのだ。作者の得意とする死体の描写に乾いたフランス文学のような立体的な文体が必要だったのであり、情緒的な日本の文体は作品を貧弱なものにしてしまう。(一七 物体 一八 デ・プロフンディスにおける死体の描写)

こうした文体の選択は、戦争(太平洋戦争)の真実を俯瞰できる資格を獲得する。かつて日本のマスコミの戦争の歴史記述を巡って論争があった。そのときの論争のテーマは日本軍のおびただしい戦死者の戦死の原因は戦闘によるものだったのか、食糧の不足による飢餓、つまり「餓死」だったのかというものであった。「野火」が書かれてから大分経過した1990年代の論争であったと思う。

現在からみると、政府やマスコミが太平洋戦争を経験的にではなく、全くの過去形で問題にしたので、こういう真実から遠い問題提起になったのではないかと思われる。日本軍に圧倒的に不足していたのは物資の輸送問題だったのであり、兵站だったのである。

アメリカは情報戦に長けており、日本の輸送船の位置も暗号解読で突き止めており、日本の物資の輸送は海の藻屑になっていた。また、物資は戦線の先頭部には届いたが最前線には届いていない。(丸山静雄著「インパール作戦従軍記を参照)

こうした背景から、戦闘の前線にいる部隊には物資は届かず「現地調達」が通常となっていた。ましてレイテ島の「敗兵」に日常をやりすごすための食糧はほぼつきていた。この条件の下で「野火」の田村一等兵たちは一本の芋を求めて互いに敵対し、「猿」の死肉を食らうのである。

こうした飢餓線上の敗走兵を描くには「乾いた文体」が必然的となる。

「護憲+コラム」より
名無しの探偵
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