(3)コロナ禍の中で起き始めている価値転換
わたしが今回のコロナ禍の中で大きく評価しているのは、世界的規模で起きている労働や人に対する“価値観”の大転換である。
例えば、看護師に対する評価。教師をしていた経験から言えば、看護師は女の子たちの職業選択の中では、常にトップ3に入っていた。だが、彼女たちの仕事量や仕事の重要性に比して、その待遇とか、世間的評価は決して高いとは言えなかった。
しかし、彼女たちの存在がなかったら、病院は決して回らない。今年の2月から3月にかけて40日近く入院したわたしの経験から言えば、最近の看護師さんの技量の向上、患者さんに対する態度などは昔と大違い。しかも、検査結果などを見る目も医師たちとさほど変わらない。(もちろん、経験もあるが、それよりも看護師教育の進歩が大きい。)
わたしの入院していた病院は、患者数が全国トップ10の上位に位置する大病院だったので、他の中小の病院とは多少違うかもしれないが、それにしても入院中看護師に不快な思いをしたことは一度もなかった。わたしの担当の看護師は、20代前半の独身の看護師だったが、親切で、明るくて、非常に献身的だった。彼女の声や姿を見ると、気持ちが明るくなった。
わたしの入院していた病棟は、比較的重症患者が多かったので、看護師は大変忙しく立ち働いていた。夜などはナースコールがやむことがない、と言って良い。重症者が多く、動くのも一苦労する患者が大半なので、どうしても患者は我儘になるし、神経もささくれ立ってくる。そんな中で看護師たちは、それこそ献身的に立ち働き、患者一人一人を大切に扱ってくれた。
わたしの担当看護師などは、そういう中でも笑顔を絶やさず、患者を励まし続けていた。わたしなどは、毎日、彼女が帰る時にハイタッチをしてさよならをしたものだ。わたしのような老人は、若い女性とハイタッチするだけで元気をもらえる。入院生活が明るくなる。なにはさておいても、入院患者にとって精神的安定ほど重要なものはない。医師だけでは、病気は治らない。看護師の存在の大きさを再認識させられた。
コロナ禍でますます看護師の役割の重要さが再認識されつつあるが、それにしては看護師の報酬があまりにも安すぎる。しかも、彼女たちの子供や家族が差別されるなどという理不尽な出来事が起こっている。この事態は、新自由主義価値観が席巻している現代世界で、看護師の役割の重要さが不当に評価されている証左でもある。
同様な事がゴミ収集車の職員にも言える。彼らがコロナに感染する危険も省みず、黙々と彼らの仕事をこなしてくれているからこそ安心してゴミを出せる。
以前、ゴミ収集業者のストライキで、ゴミが山のように積まれたパリ市内の映像を見たが、もし彼らがコロナの危険性を言い立てて、同じ事をしたらどうなるのか。コロナに感染する危険性は倍増するだろう。
北海道では介護施設のクラスターにより、介護施設職員が自宅待機や入院、感染を恐れて退職をし、介護施設の運営が困難に陥っている。ここでも、介護施設職員の待遇のあまりの低さが大問題になっている。
同様な事が保育園や幼稚園でも起きている。
また、小学校が休校になっている時、子供たちを預かっている“学童保育”の職員のほとんどがパート。給料は安い、労働条件(健康保険など)は悪い。しかも、彼女たちは、教師ではない。“学童保育”は文部省管轄ではない。だから、子供を預かっている最中にもし何か事故が起き、その責任を追及されたら、教師のように法の庇護や地方公共団体の後ろ盾はない。
コロナ禍では、そんな“学童保育”を活用していたが、都合の良いときだけ利用しておいて、職員たちの身分保障など話題にもなっていない。しかし、“学童保育”の職員などの献身的活動がなかったら、母子家庭のお母さんなど直ちに行き詰っただろう。
同様に、ボランティアで運営されている“子ども食堂”などが閉鎖せざるを得なくなり、利用していた多くの子供たちが困っている。明日の食事さえ困る子供の“貧困”を多くの個人の善意で支えているこの社会の矛盾が、コロナ禍のような出来事が直撃している。
世間的にはあまり評判が芳しくない「ネットカフェ」だが、そこが閉鎖されると、たちまち、何千人の「ネットカフェ難民」が発生する。「ネットカフェ」は、日本の労働者の「ねぐら」の提供という最低限の福祉施設の役割を担っている。
書けばいくらでもあるが、このように、「社会」は、密接につながり合って出来上がっている。
新自由主義的考え方は、何より「効率」を重要視する。病院で言うならば、まず「経営」が重要。その為には、人件費をどうやって削減するか、医療費をどうやって多くとるかなどが考えられる。
しかし、病院は典型的な労働集約型職種。最後は人間の志(病人を救う)がものを言う。“医師は患者の最後の祈り”という言葉がある。この祈りに真摯に応えるためには、最終的には、医師の志以外にない。コロナ禍の中で、自らの身の危険も省みず、治療に従事している医師や看護師の皆さんの志こそ本当にたたえられなければならない。
医療の本質的意味と新自由主義的病院経営とは、根本的に矛盾する。まだ、救いがある事に、医療法で日本の病院は非営利組織でなければ認可を受ける事が出来ないようになっている。アメリカのように露骨な利潤追求のためだけの医療ではない。
一番重要な「インフラ」に携わっている人々を大切にしない社会は、コロナ禍のような本当の意味での“緊急事態=国家の安全が根本的に危機に陥る事態”に対処できない、という事がきちんと視えたのがコロナ禍の最大の功績だろう。
(4)国家と社会の境界の見直し
国家を国家たらしむのは、【法】である。【法】による支配は、国家支配を正当化するための最重要なツールと言って良い。
独裁国家とは、「法の制定権」を一人の人間や単独の組織が占有している国家だと考えると、民主主義国家はその逆に【法の制定権】を国民から選ばれた【国会】が握っている国家だと考えれば良い。
社会は国家とは違う。原則として【法の支配】を受け入れているが、ほとんどの人々は何でもかんでも【法律】通りに行くはずがない、と考えている。法律通りにいかない現実があるのが社会というものだ、と多くの人が考えている。
つまり、理屈通りに行かないものを話し合いなどを通じて解決しながら毎日の生活を送っているのが、【社会】。コロナ禍の社会は、この「国家の意志」と「社会の現実」との矛盾、軋轢、裂け目を明らかにした。
“緊急事態宣言”は、「社会」の自由を国家意思に従わせるものである。要請と言う形を取っているが、実質的に命令に近い。つまり、“社会という存在”をできうる限り消去し、国家意思だけが浮き彫りになるのが、“緊急事態宣言”である。
世界各国の“都市封鎖”も、日本の“緊急事態宣言”も、「社会の自由」(理屈通りに行かない)を「国家意思=法」に従わせるものなのだから、当然ながら国民の支持がなければうまくいかない。当然だが、国家指導者の識見と哲学と同時にその人間性も強く問われる。
世界の指導者の中で最も評価が高かったのはドイツのメルケル首相。彼女の演説は、不都合な真実も隠すことなく正直に国民に知らせ、“都市封鎖”に踏み切る彼女の苦悩も正直に吐露し、国民に語りかけた。
彼女は旧東ドイツ出身。東ドイツでの経験から、「移動の自由」・「行動の自由」などの基本的人権が如何に重要なものであるかを切々と語り掛け、そのような大切な『自由』を制限しても、コロナ禍を抑え込まなければならない事を国民に訴えた。
だから、その『自由』を奪われ、生活に困窮する人や企業に対する補償を素早く、充分に行っている。さらに、今回のパンデミックを予想して、医療体制などをきちんと整備。医療崩壊を事前に防御している。
メルケル首相は、「社会」と「国家」の違いを良く分かっており、国民の社会活動を制限するために生じる不利益などをきちんと補償している。
これは何から生まれるのか。彼女は、言論の自由や移動の自由などの基本的人権の重要さを身をもって体験しており、それを制限される国民の苦痛をよく理解している。おそらく、彼女は「基本的人権」を制限するなどという政策を決して取らないと言う事を政治信条にしていたはず。換言すれば、「国家」と「社会」の違いを理解しており、「国家」権限の行使を出来得る限り縮小しようと考えていたはず。
これがドイツ国民には痛いほど理解されていたので、彼女の【都市封鎖】政策を支持したのである。結果、メルケル首相の支持率は、上昇した。
翻って、日本の安倍首相を見てみよう。彼の政治信条からすれば、【基本的人権】の尊重などと言う近代国家(民主主義国家)の価値観から最も遠い政治家である事は明らかである。
彼やその仲間(ネトウヨ的思考の持ち主)の言説をよく聞けば一目瞭然だが、彼らの「言論の自由」は、お互いの言説を通して自らの認識を高めたり、より良い方策を生み出すためのものではなく、相手を言い負かし、自らの主張を押し通すためのツール。極端に言えば、自分の【言論の自由】はあるが、相手の【言論の自由】は認めないと言う事になる。
日本では、現在、彼らや彼らのような存在が権力を握っている。だから、“緊急事態宣言”は、彼らにとってきわめて不十分。何故なら、有無を言わさず【命令】を下し、国民を従わせる事ができないからだ。
彼らにとっての“緊急事態宣言”は、水戸黄門の印籠のような威力がなければならない。戦前の天皇のような威力がなければならない。ただ、彼らには、水戸黄門のような人望がないのだから、結局は「強権的手段」を行使する。戦前の横浜事件や小林多喜二などに対する弾圧を想起すれば十分であろう。
それが出来ない現在の“緊急事態宣言”は、彼らにとってきわめて不十分で、だから、憲法改正に“緊急事態条項”を書きこもうという話になる。
これを一言で説明すると、彼らは【社会】に対して【国家】を徹底的に優位に置こうとしているのである。
ただ、刑罰によって無理やりに命令を聞かせる事ができないのが、戦後という社会。だから、今回の“緊急事態宣言”の実行化は、典型的日本的方法論を取っている。
① 社会の同調圧力を徹底的に利用(パチンコ屋に対するメディアを通じた圧力)。隣組に酷似。
② 自粛と言う名目で国民の生活基盤を奪いながら、国家補償を出し渋る。
③ 厚生労働省(お上)のコロナ対策のお粗末な失敗を棚に上げ、それを批判するメディアを徹底的に監視し(羽鳥のモーニングショーが中心)、900枚以上に及ぶ監視報告を出している。
④ メディアに御用評論家(感染症評論家)を大挙出して、国の政策の失敗の糊塗をさせる。
⑤ 検察庁法改正案に見られるように、彼らの興味関心は、国民の命ではなく、自らの政権の延命である事は明白。【棄民政策】は、明治以来の日本の伝統的手法。
⑥ 緊急事態を収束させたが、コロナ対策の中間検証には及び腰。
この政権は、他者の非違を攻撃するのは熱心だが、自らの行為を検証し、教訓を引き出し、反省する能力は決定的に欠落している。“歴史修正主義者”の正体は、自らの都合で歴史を解釈するご都合主義。この政権の公文書に対する姿勢が、その事を顕著に物語っている。彼らは、“歴史の審判”の前に自らを差し出す勇気がない。
しかし、現在の国民は、曲がりなりにも、戦後民主主義下で生きてきた国民。彼らのような露骨な意図が丸見えのやり口が支持を得るわけがない。Twitterデモに見られるような手ひどい反撃を受けているのが現状だ。
コロナ後の21世紀社会を考えると、国家が社会を包含し、統御するような思想は、時代遅れもいいところ。国家の役割は、今回のような危機をどう統御するかを考察し、そのための準備をできるようにあらゆる政策を繰り出せるように変貌すべきである。
PCR検査で分かるように、国家が全てを管理しようとすれば、見事に失敗する。そうではなく、民間の力も活用し、国民の志を引き出すような政策(国家が陰に隠れた政策)を取り、命令ではなく、国民の自発的協力で危機に立ち向かうように考えるべきだ。
社会は時代とともに変質する。新自由主義的思想が進行すると、最終的には「社会」が消滅する。しかし、今回のコロナ騒ぎで証明できたように、米国のように、「社会」が消滅しはじめた国家は、大きな犠牲を払っている。
コロナ後の日本は、もう一度「社会」の重要さを再認識し、21世紀にふさわしい新たな【社会像】を構築すべきである。
「護憲+コラム」より
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