老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

「コロナ専門家会議」を隠したい政府とは?

2020-05-30 09:19:54 | 災害
5月29日の東京新聞に、
「コロナ専門家会議、議事録作らず、歴史的事態検証の妨げに」という記事が出ていた。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/31810

ネットにも『コロナ専門家会議、議事録作成せず、録音もなし。内閣官房「自由な議論できない」』とある。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5ed0544ec5b6aeca900edccb

これには驚いた。私は自治体の委員&専門委員をしているが、会議があれば必ず録音されて議事録が作られ、送られてきて確認をする。その上でネットに載せて、誰でも見られるようにしている。つまり、どの委員がどういう発言をしたのか、市民は検証できるのだ。

それだけ、責任を持って委員を引き受けているのだから、日頃から必要な情報も集め、学び、会議に出ている。
会議では、自由な議論は充分にできるし、もちろん無責任な発言はしない。

つまり、このコロナの専門家たちは、自分の名前が出ると困るような発言をしていたのか? 
名前を出すと、自由な議論ができないとは、あまりにも無責任ではないだろうか。恥ずかしくないのかな。

それとも「専門家会議ではこのような話が出ていた」ということが、国民の目にさらされると、政府が困る羽目に陥るからなのか?

どうもこちらではないか? 政府に忖度なしの、専門家としての真剣な議論が行われたのではないか?(と信じたいのだが)
すると、それらの意見を受けたコロナ対応ができない政府や官僚に、国民の非難が向けられることを恐れたのではないか? そういうことすら検証は出来ないようだ。

市民の権利として文書開示を要求すると、題以外は黒塗りという文書であることが多々起きている。例えばこれは「桜を見る会」の出席者名簿。こんなものまで黒塗りの政府なのだ。
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/561835/

この国は、だんだん独裁国家に近づきつつあるのではないかという恐れすら覚える。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「#検察庁法改正に抗議します」

2020-05-27 12:26:48 | 民主主義・人権
笹井さんの5月12日付け投稿に出てくる
「#検察庁法改正に抗議します」のツィッターを始めた笛美さんの話が聞けます。

「相沢冬樹・境治のメディア酔談」
https://note.com/sakaiosamu/n/n215c4e7ec7a7

14分くらいから笛美さんのお話です。
オンライン・デモには参加しているものの普通の市民である自分が、一歩踏み出す時の気持ち、自分が言いやすい等身大の言葉がこれだったことなど、ごく自然に語られています。

私はツィッターやFBに時間を取られるのが嫌で、ほとんど覗かないのですが、こういった力になったのはツィッターならではですね。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「出口なし」の状況下でどう生きるか!(2)

2020-05-26 12:59:08 | 災害
(3)コロナ禍の中で起き始めている価値転換

わたしが今回のコロナ禍の中で大きく評価しているのは、世界的規模で起きている労働や人に対する“価値観”の大転換である。

例えば、看護師に対する評価。教師をしていた経験から言えば、看護師は女の子たちの職業選択の中では、常にトップ3に入っていた。だが、彼女たちの仕事量や仕事の重要性に比して、その待遇とか、世間的評価は決して高いとは言えなかった。

しかし、彼女たちの存在がなかったら、病院は決して回らない。今年の2月から3月にかけて40日近く入院したわたしの経験から言えば、最近の看護師さんの技量の向上、患者さんに対する態度などは昔と大違い。しかも、検査結果などを見る目も医師たちとさほど変わらない。(もちろん、経験もあるが、それよりも看護師教育の進歩が大きい。)

わたしの入院していた病院は、患者数が全国トップ10の上位に位置する大病院だったので、他の中小の病院とは多少違うかもしれないが、それにしても入院中看護師に不快な思いをしたことは一度もなかった。わたしの担当の看護師は、20代前半の独身の看護師だったが、親切で、明るくて、非常に献身的だった。彼女の声や姿を見ると、気持ちが明るくなった。

わたしの入院していた病棟は、比較的重症患者が多かったので、看護師は大変忙しく立ち働いていた。夜などはナースコールがやむことがない、と言って良い。重症者が多く、動くのも一苦労する患者が大半なので、どうしても患者は我儘になるし、神経もささくれ立ってくる。そんな中で看護師たちは、それこそ献身的に立ち働き、患者一人一人を大切に扱ってくれた。

わたしの担当看護師などは、そういう中でも笑顔を絶やさず、患者を励まし続けていた。わたしなどは、毎日、彼女が帰る時にハイタッチをしてさよならをしたものだ。わたしのような老人は、若い女性とハイタッチするだけで元気をもらえる。入院生活が明るくなる。なにはさておいても、入院患者にとって精神的安定ほど重要なものはない。医師だけでは、病気は治らない。看護師の存在の大きさを再認識させられた。

コロナ禍でますます看護師の役割の重要さが再認識されつつあるが、それにしては看護師の報酬があまりにも安すぎる。しかも、彼女たちの子供や家族が差別されるなどという理不尽な出来事が起こっている。この事態は、新自由主義価値観が席巻している現代世界で、看護師の役割の重要さが不当に評価されている証左でもある。

同様な事がゴミ収集車の職員にも言える。彼らがコロナに感染する危険も省みず、黙々と彼らの仕事をこなしてくれているからこそ安心してゴミを出せる。

以前、ゴミ収集業者のストライキで、ゴミが山のように積まれたパリ市内の映像を見たが、もし彼らがコロナの危険性を言い立てて、同じ事をしたらどうなるのか。コロナに感染する危険性は倍増するだろう。

北海道では介護施設のクラスターにより、介護施設職員が自宅待機や入院、感染を恐れて退職をし、介護施設の運営が困難に陥っている。ここでも、介護施設職員の待遇のあまりの低さが大問題になっている。

同様な事が保育園や幼稚園でも起きている。

また、小学校が休校になっている時、子供たちを預かっている“学童保育”の職員のほとんどがパート。給料は安い、労働条件(健康保険など)は悪い。しかも、彼女たちは、教師ではない。“学童保育”は文部省管轄ではない。だから、子供を預かっている最中にもし何か事故が起き、その責任を追及されたら、教師のように法の庇護や地方公共団体の後ろ盾はない。

コロナ禍では、そんな“学童保育”を活用していたが、都合の良いときだけ利用しておいて、職員たちの身分保障など話題にもなっていない。しかし、“学童保育”の職員などの献身的活動がなかったら、母子家庭のお母さんなど直ちに行き詰っただろう。

同様に、ボランティアで運営されている“子ども食堂”などが閉鎖せざるを得なくなり、利用していた多くの子供たちが困っている。明日の食事さえ困る子供の“貧困”を多くの個人の善意で支えているこの社会の矛盾が、コロナ禍のような出来事が直撃している。

世間的にはあまり評判が芳しくない「ネットカフェ」だが、そこが閉鎖されると、たちまち、何千人の「ネットカフェ難民」が発生する。「ネットカフェ」は、日本の労働者の「ねぐら」の提供という最低限の福祉施設の役割を担っている。

書けばいくらでもあるが、このように、「社会」は、密接につながり合って出来上がっている。

新自由主義的考え方は、何より「効率」を重要視する。病院で言うならば、まず「経営」が重要。その為には、人件費をどうやって削減するか、医療費をどうやって多くとるかなどが考えられる。

しかし、病院は典型的な労働集約型職種。最後は人間の志(病人を救う)がものを言う。“医師は患者の最後の祈り”という言葉がある。この祈りに真摯に応えるためには、最終的には、医師の志以外にない。コロナ禍の中で、自らの身の危険も省みず、治療に従事している医師や看護師の皆さんの志こそ本当にたたえられなければならない。

医療の本質的意味と新自由主義的病院経営とは、根本的に矛盾する。まだ、救いがある事に、医療法で日本の病院は非営利組織でなければ認可を受ける事が出来ないようになっている。アメリカのように露骨な利潤追求のためだけの医療ではない。

一番重要な「インフラ」に携わっている人々を大切にしない社会は、コロナ禍のような本当の意味での“緊急事態=国家の安全が根本的に危機に陥る事態”に対処できない、という事がきちんと視えたのがコロナ禍の最大の功績だろう。

(4)国家と社会の境界の見直し

国家を国家たらしむのは、【法】である。【法】による支配は、国家支配を正当化するための最重要なツールと言って良い。

独裁国家とは、「法の制定権」を一人の人間や単独の組織が占有している国家だと考えると、民主主義国家はその逆に【法の制定権】を国民から選ばれた【国会】が握っている国家だと考えれば良い。
 
社会は国家とは違う。原則として【法の支配】を受け入れているが、ほとんどの人々は何でもかんでも【法律】通りに行くはずがない、と考えている。法律通りにいかない現実があるのが社会というものだ、と多くの人が考えている。

つまり、理屈通りに行かないものを話し合いなどを通じて解決しながら毎日の生活を送っているのが、【社会】。コロナ禍の社会は、この「国家の意志」と「社会の現実」との矛盾、軋轢、裂け目を明らかにした。

“緊急事態宣言”は、「社会」の自由を国家意思に従わせるものである。要請と言う形を取っているが、実質的に命令に近い。つまり、“社会という存在”をできうる限り消去し、国家意思だけが浮き彫りになるのが、“緊急事態宣言”である。

世界各国の“都市封鎖”も、日本の“緊急事態宣言”も、「社会の自由」(理屈通りに行かない)を「国家意思=法」に従わせるものなのだから、当然ながら国民の支持がなければうまくいかない。当然だが、国家指導者の識見と哲学と同時にその人間性も強く問われる。

世界の指導者の中で最も評価が高かったのはドイツのメルケル首相。彼女の演説は、不都合な真実も隠すことなく正直に国民に知らせ、“都市封鎖”に踏み切る彼女の苦悩も正直に吐露し、国民に語りかけた。

彼女は旧東ドイツ出身。東ドイツでの経験から、「移動の自由」・「行動の自由」などの基本的人権が如何に重要なものであるかを切々と語り掛け、そのような大切な『自由』を制限しても、コロナ禍を抑え込まなければならない事を国民に訴えた。

だから、その『自由』を奪われ、生活に困窮する人や企業に対する補償を素早く、充分に行っている。さらに、今回のパンデミックを予想して、医療体制などをきちんと整備。医療崩壊を事前に防御している。

メルケル首相は、「社会」と「国家」の違いを良く分かっており、国民の社会活動を制限するために生じる不利益などをきちんと補償している。

これは何から生まれるのか。彼女は、言論の自由や移動の自由などの基本的人権の重要さを身をもって体験しており、それを制限される国民の苦痛をよく理解している。おそらく、彼女は「基本的人権」を制限するなどという政策を決して取らないと言う事を政治信条にしていたはず。換言すれば、「国家」と「社会」の違いを理解しており、「国家」権限の行使を出来得る限り縮小しようと考えていたはず。

これがドイツ国民には痛いほど理解されていたので、彼女の【都市封鎖】政策を支持したのである。結果、メルケル首相の支持率は、上昇した。

翻って、日本の安倍首相を見てみよう。彼の政治信条からすれば、【基本的人権】の尊重などと言う近代国家(民主主義国家)の価値観から最も遠い政治家である事は明らかである。

彼やその仲間(ネトウヨ的思考の持ち主)の言説をよく聞けば一目瞭然だが、彼らの「言論の自由」は、お互いの言説を通して自らの認識を高めたり、より良い方策を生み出すためのものではなく、相手を言い負かし、自らの主張を押し通すためのツール。極端に言えば、自分の【言論の自由】はあるが、相手の【言論の自由】は認めないと言う事になる。

日本では、現在、彼らや彼らのような存在が権力を握っている。だから、“緊急事態宣言”は、彼らにとってきわめて不十分。何故なら、有無を言わさず【命令】を下し、国民を従わせる事ができないからだ。

彼らにとっての“緊急事態宣言”は、水戸黄門の印籠のような威力がなければならない。戦前の天皇のような威力がなければならない。ただ、彼らには、水戸黄門のような人望がないのだから、結局は「強権的手段」を行使する。戦前の横浜事件や小林多喜二などに対する弾圧を想起すれば十分であろう。

それが出来ない現在の“緊急事態宣言”は、彼らにとってきわめて不十分で、だから、憲法改正に“緊急事態条項”を書きこもうという話になる。

これを一言で説明すると、彼らは【社会】に対して【国家】を徹底的に優位に置こうとしているのである。

ただ、刑罰によって無理やりに命令を聞かせる事ができないのが、戦後という社会。だから、今回の“緊急事態宣言”の実行化は、典型的日本的方法論を取っている。

① 社会の同調圧力を徹底的に利用(パチンコ屋に対するメディアを通じた圧力)。隣組に酷似。
② 自粛と言う名目で国民の生活基盤を奪いながら、国家補償を出し渋る。
③ 厚生労働省(お上)のコロナ対策のお粗末な失敗を棚に上げ、それを批判するメディアを徹底的に監視し(羽鳥のモーニングショーが中心)、900枚以上に及ぶ監視報告を出している。
④ メディアに御用評論家(感染症評論家)を大挙出して、国の政策の失敗の糊塗をさせる。
⑤ 検察庁法改正案に見られるように、彼らの興味関心は、国民の命ではなく、自らの政権の延命である事は明白。【棄民政策】は、明治以来の日本の伝統的手法。
⑥ 緊急事態を収束させたが、コロナ対策の中間検証には及び腰。

この政権は、他者の非違を攻撃するのは熱心だが、自らの行為を検証し、教訓を引き出し、反省する能力は決定的に欠落している。“歴史修正主義者”の正体は、自らの都合で歴史を解釈するご都合主義。この政権の公文書に対する姿勢が、その事を顕著に物語っている。彼らは、“歴史の審判”の前に自らを差し出す勇気がない。

しかし、現在の国民は、曲がりなりにも、戦後民主主義下で生きてきた国民。彼らのような露骨な意図が丸見えのやり口が支持を得るわけがない。Twitterデモに見られるような手ひどい反撃を受けているのが現状だ。

コロナ後の21世紀社会を考えると、国家が社会を包含し、統御するような思想は、時代遅れもいいところ。国家の役割は、今回のような危機をどう統御するかを考察し、そのための準備をできるようにあらゆる政策を繰り出せるように変貌すべきである。

PCR検査で分かるように、国家が全てを管理しようとすれば、見事に失敗する。そうではなく、民間の力も活用し、国民の志を引き出すような政策(国家が陰に隠れた政策)を取り、命令ではなく、国民の自発的協力で危機に立ち向かうように考えるべきだ。

社会は時代とともに変質する。新自由主義的思想が進行すると、最終的には「社会」が消滅する。しかし、今回のコロナ騒ぎで証明できたように、米国のように、「社会」が消滅しはじめた国家は、大きな犠牲を払っている。

コロナ後の日本は、もう一度「社会」の重要さを再認識し、21世紀にふさわしい新たな【社会像】を構築すべきである。

「護憲+コラム」より
流水
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「出口なし」の状況下でどう生きるか!(1)

2020-05-22 15:33:50 | 災害
(1)「出口なし」の思想状況

サルトルに「出口なし」という劇曲がある。1944年に書かれた作品で、死後の世界の地獄に集まった三人の会話で進行する。しかし、お互いを決めつけるばかりで理解しあおうとせず、最後には卑怯者と決めつけられた男が「地獄とは他人のことだ」と叫ぶ。

1944年と言えば、ドイツ軍占領からパリが解放されたその年。サルトルは、ドイツ軍占領下のパリの状況、特にフランス人に与えた精神的影響を踏まえて戯曲を書いている。

彼が占領下のパリで感じたのが、パリ市民とドイツ軍の間には「屈辱感を伴った名状しがたい一種の」「何等共感を伴わない」「連帯関係」があった、という認識である。特にビシー政府に対する嫌悪感は相当なものだった、と推測できる。

サルトルの実存主義思想には、戦争、パリ占領、パリ解放という原体験が色濃く反映しているが、特に占領下における人間の生き方の様々な様相が核にある。

サルトルが残した様々な言葉に戦争中の影を見るのは私だけではないだろう。

※「敗戦とは、自分は負けてしまったと思う戦いのことである。」
※「金持ちが戦争を起こし、貧乏人が死ぬ。」
※「ボートを漕がない人間だけが、ボートを揺らして波風を立てる時間がある。」

特に、「ボートを漕がない人間だけが、ボートを揺らして波風を立てる時間がある」とは、ここ数年の右翼政治家・ネトウヨなどの言説を思い出してもらえればよく分かるだろう。

SNSで拡散した「#検察庁法改正案に抗議します」に賛同した小泉今日子さんなどに執拗に誹謗中傷を繰り返した連中は、決して自分ではボートを漕がない。

TVで「PCR検査」は必要ないと雄叫びをあげていた連中は、決して「コロナ対策」の現場に突入しない。

「明日の飯」の確保のために涙を呑んでお店を開けざるを得ない人に対して、正義の代弁者の面をして嫌がらせを仕掛け、自粛を強要する人間は、決して政府などの権力者には逆らわない。

彼らは自分が傷つくことが、死ぬほど厭なのだから。しかし、自分が傷つかないと思うと、執拗に他者(弱者)をいたぶる事に隠微な喜びを感じるのだ。

これが戦前の「隣組」と紙一重の状況だと言う事を認識しなければならない。

「出口なし。」パリ占領下のフランスと現在の日本の思想状況は酷似している。

(2)「出口なし」状況を打破するには、誰もが「アンガージュマン」になる事。

サルトルは、「私はどのように生きるべきか?」の問いへの答えとして「アンガージュマン」という概念を提示している。

「アンガージュマン」とは、自分の中にとじこもらず、「主体的にかかわること」という意味で、社会参加や政治参加の思想をアンガージュマンの言葉を用いて説いている。

※「人間は、時には自由であったり、時には奴隷であったりすることは、できないであろう。
人間は常に全面的に自由であるか、あるいは常に全面的に自由でないか、そのいずれかである。」
※「悲しむことはない。いまの状態で何ができるかを考えて、ベストを尽くすことだ」

コロナ下の状況は、好むと好まざるとにかかわらず、一人一人が孤立し、他者との関係を一定の距離を置かざるを得ない。

占領下のパリも同様だった。誰が味方か、誰が裏切り者か、判然としない状況では、人々は孤立せざるを得なかった。人々は疑心暗鬼の状況で生きていかざるを得なかった。

サルトルは語る。

※「人間は、時には自由であったり、時には奴隷であったりすることは、できないであろう。
人間は常に全面的に自由であるか、あるいは常に全面的に自由でないか、そのいずれかである。」

彼は、ドイツ軍に精神的に屈服し、自らの思考を売り渡すことを拒否している。一度でも、自らの思考をドイツ軍に売り渡したら、「精神の奴隷化」を避ける事はできない、と考えている。

“人間は全面的に自由であるか、全面的に自由でないか”の二者択一しかない、と喝破している。

彼は、また“パリ占領下が最も自由だった”とも書いている。この逆説的表現が成立するのは、フランス人たちのドイツ軍の占領からの『自由』という明確な目的があったからであろう。人々の“自由への希求”の精神が最も大きかった時代だからこそ、最も“自由”だった、というのである。

現在のコロナ下の閉塞状況を打開するためには、自らの精神の自由をいっぱいに開いて、サルトルのいうように、「いまの状態で何ができるかを考えて、ベストを尽くすことだ」と思う。

では人はどう考えたらアンガージュマンになりうるのか。

一つのヒントにアルベール・カミュの「ペスト」がある。これは、ペストの流行で封鎖された都市を舞台に、子供をはじめ何も罪もない人々が苦しみながら死んでいく不条理な現実を描いた小説。

その中で医師の主人公らが、大仰な信仰や大義を振りかざすことなく、【自らの責務を誠実に果たす】ことで、人間同士の連帯を生み出していくさまを描いている。

わたしには印象的な光景がある。

最も死者が出ていた時のイタリアのクレモナで、病院の屋上から日本人バイオリニスト横山令奈さんが医療従事者への感謝と連帯の意を表現するためにバイオリン演奏をした光景である。

コロナ患者の治療に奮闘している医師・看護師などの医療従事者や患者たちが、一瞬手を止め、屋上を見上げ、窓の外から響いてくるバイオリンの音色に耳を傾けた。夕闇に包まれる寸前の病院が束の間の静寂に包まれ、演奏終了時には大きな拍手が送られた。
https://www.asahi.com/articles/ASN4M4VD4N4LUHBI00W.html
https://m-festival.biz/13324

カミュが書きたかったのは、このような人々の連帯の姿だったに違いない。このような連帯の姿にカミュは、人間の希望の姿を見出したかったに違いない。現実が地獄絵図であればあるほど、自らの【仕事=責務】を真摯に果たす人々の姿が輝いて見える。人間が生きるとはこのようなものだ、と思わせてくれる。

クレモナの病院の医師、看護師、その他の病院関係者、そして音楽家としての横山令奈さん、それぞれが、自らの「責務」を忠実に果たし、大きくて深い【連帯の心】を表現した。

コロナ下の“出口なし”の状況を脱出する大きなヒントがここにあると思う。それぞれの人がそれぞれの場で自らの【仕事】を真摯に遂行し、同じ状況下に住む人間としての連帯を表現する事により、始めて【出口なし】の状況を脱出できる。

【地獄とは他人の事だ!】と叫ばないように、「自分の仕事とは何か」「生きるとは何か」「連帯とは何か」などを真摯に考え、一人一人の人間としての原点に立ち返る事が最も重要な事であろう。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

検察庁法の改正問題を再考

2020-05-19 10:02:49 | 政治
市民がネットでの抗議活動で安倍政権の強行採決を撃退し、今国会での法改正を見送りにしたので、詳しいことは書きません。

ただし、安倍政権は野党の弱腰と異なり(野党議員は安倍の恫喝にひるむな、弱すぎる)相当にしつこいので、今国会で引いただけです。

黒川東京高検検事長の定年延長という「閣議決定」では支障があると見えて、検察庁法の改正法案を国会で成立させたいということに尽きますが、この検察庁法の改正という問題には日本の刑事司法独特の問題が背景にあります。

元検察官の郷原弁護士の解説を聞いていて同感しました。以下はその日本特有の刑事司法の問題点を検証します。

何が問題なのかですが、まず三権分立制度です。具体的には「司法権の独立」ということです。

司法権の独立と言っても、問題なのは誰かが犯罪を行ってもそれを起訴する権限は検察官にあります。(刑事訴訟法の起訴独占主義)そして、欧米の司法と異なり、こうした強大な権力が検察官に法律で与えられている。これは大きな問題です。

なぜなら、検察官は法務省の官僚に過ぎず、一応内閣の支配下にあることになっているからで、そこを安倍政権が司法の「盲点」として衝いているということです。

しかし、これは憲法の趣旨(原則)に反します。刑事訴訟法で検察官に起訴の権限を与えたからといって、内閣が検察官の起訴権限(「裁量」という)に介入することは許されません。

なぜなら、検察官に起訴する権限がある(裁量に委ねている)のは、憲法の基本原則である「司法権」の行使に基づいているからです。内閣といえども、司法権の独立を侵害することはできません。

黒川氏の今までの「忖度」は憲法訴訟の対象になるはずです。(国民も弱すぎる。特に弁護士会)

こうした前提問題が重要であり、今回の検察庁法の改正は、一部の検察官の定年延長を認めるという恣意的な法律であり、「司法権の独立」という憲法の原則に反します。検察官は公務員なので、内閣の指示に従うというのは通らない理屈です。

刑事訴訟法(この法律も憲法に違反する規定が多いことも確かです)により起訴の権限は検察官にあるといっても、それは司法権の行使であることに間違いはなく、憲法の原則である「司法権の独立」に沿うものでなければならないのです。

安倍の提出した「検察庁法の改正」は端的に言って、憲法違反です。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
名無しの探偵
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ禍で映画「いのちの作法」を思ってみた

2020-05-18 17:05:29 | 災害
「いのちの作法」というドキュメンタリー映画、「サロン・ド・朔」でかなり以前に見た。

昭和30年代に豪雪、貧困、多病多死の三重苦を乗り越え、全国に先駆けて老人医療費の無償化と乳児死亡率ゼロを達成した岩手県旧沢内村と、その理念を受け継いた人々を描いたドキュメンタリー映画である。

今、沢内村は西和賀町と名前を変え合併した。今でも「いのちを大切にする」という「生命尊重の理念」を町是として掲げ、まれに見る哲学と品位を持った町だと云われている。

「沢内生命行政を継ぐ者たち」というサイトを見ながら、映画で見た数々の場面と人々の表情を思い出した。

岩手県西和賀町…岩手県と言えば今回のコロナ禍で感染者を一人も出さなかった県である。岩手県の医療行政にも西和賀町の「生命尊重の理念」が影響していたとしたら…?

いや、まさかそんな筈はない。町民5千人強の町が県の医療行政に影響をあたえるなんて…。

では、一人も感染者出していない理由は何だろう。

曰く PCR検査のハードル一際高くして県民が検査受けられない様にしているのだ。
曰く 厚労省とラインの調査では発熱者が他県より異常に多い。
曰く 感染者隠しをしているのだ。
等々ツイッターでは岩手県感染者ゼロを鼻で笑うツイートが多数見受けられる。

事実はともかく、西和賀町の行政は「生命尊重」の理念に基づいたものである。

日本各地の医療行政は小泉内閣以降自民党政権が感染症対策を疎かにして、感染症の専門病院を削減してきた。生産性の上がらない病院のベット数を大幅に減らし効率を追及してきた。更に日本中の保健所の数を半減し、職員を3分の2迄減らした。それが今回の「キャパが無いからPCR検査数をしぼらなければならない」結果を招き、医療現場の大混乱をまねいたのではないか。

落ち付きつつある感染者数がこれから増えて行けば、自粛が足りないからだと国民のせいにして、感染者数が減れば政治の手柄にする。それが日本という国の政治の中枢にいる人たちのやり方であり、一番緩んでいるのは彼等こそではないか。

岩手県西和賀町の人達はどうしているだろう。コロナ禍に怯える事なく日常を送っているのではないだろうか。すごいな、必要とあればお姑さんの嫁いびりまで中に入って相談に乗る行政なのだから。この町の行政と町民の人たちは、お年寄りや障害を持つ人達、養護施設の子どもたちのいのちと向き合いながら共に生きていくことを模索しているのではないだろうか。

医療と効率、生産性は比べようもない。国民のいのちと暮らしを守れない政府はいらない。

映画の紹介サイトを見ながら私はそんな事を考えた。

「護憲+コラム」より
パンドラ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笛美さんと村本大輔さん

2020-05-14 14:01:50 | 民主主義・人権
600万とも900万とも言われる空前のツィッタ―デモはたった一人の女性から始まったそうです。
その「笛美」さんが、そのツィートをするに至った思いをnoteに綴っています。
「小さな声を上げることの大切さ」
https://note.com/fuemi/n/n56bdee1d8725
まだ30代なのだそうです!

それからもうひとつ。
村本大輔さんのこちらもnoteです。
「発信するということ」
https://note.com/muramoto/n/n32927f69825b

・・・・・
発信しないということは沈黙するということ。
沈黙は民主主義の木を枯らすことになり発信するということはそれだけで民主主義に水をやり続けることになる。
・・・・・
全文、とてもいいです。

私も水やりを続けていかなくちゃ、と思わされました。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
コナシ&コブシ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「立憲主義」を巡る議論

2020-05-14 10:17:10 | 憲法
1、問題点の指摘

現在、コロナウイルスによるパンデミックという緊急事態が世界的に流行して、日々感染者が増加している最中、あろうことか、安倍政権は、安倍首相などの犯罪を見逃してきた一検察官の「定年延長のために」検察官の定年延長の法案を国会に提出し、法案の成立を今月中に与党が決めようとしている事態になっている。

それはそれとして大きな問題であるが、本稿ではその前提となる議論(憲法問題)として、「立憲主義」の問題に言及したい。なぜなら、この「立憲主義」とは、政治権力を縛る、制限するのが憲法の原理である、という意味であるからだ。

この「政治権力の制限」という憲法の役割は昔からあった原理ではない。近代の市民革命の成果として、国家の権力を制限する原理が成立したのである。

この「立憲主義」の命題が日本で「議論」されるようになったのも、それほと昔のことではなく、戦後の憲法論ではほとんど議論されていなかったという記憶がある。

不思議に思われるかもしれないが、60年代、70年代の「憲法テキスト」に立憲主義の議論はなかったように思われる。そこに書かれてある議論としては、「天皇主権」から「国民主権」に変わったこと、「三権分立制度」の議論が主なものであった。

それもそのはずで、憲法テキストの著者は戦前の学者であり、彼らに「立憲主義」の近代的、現代的な意味を教授できるような素地がなかったからである。(戦後の第一世代の憲法学。宮沢俊義が代表的。)

したがって、「立憲主義」の「今日的な意味」を教授できる憲法学者として、戦後に学者になった第二世代の登場を待たなければならなかったのである。(この世代としては小林直樹、杉原康男、樋口陽一が有名。)

2、「立憲主義」とは何か

大方の憲法論とは異なり、「立憲主義」の議論が本格的に登場してきたのは80年代からであったと思う。

その意味を、法学を学ぶ学生に教えるようなある意味で難解な説明ではなく、分かり易く言い換えれば、こうなる。

「立憲主義」が市民革命を経て成立してきた歴史的な経緯は、自然科学で言うと、コペルニクス的な転換であったということである。つまり、それまでは「天動説」という視点であったが、「地動説」という視点の転換があった。

それまでは国家が市民:国民を縛る法律であったが、市民革命を経て、法(憲法)が国家権力を制限する原理に転換したということ。これが天動説から地動説への転換に喩えられるということなのである。

3、「立憲主義」は一般に理解されているか

それでは、この「立憲主義」が一般に理解されているのか、という問題は、実は大きな問題ではないのか。

というのは、80年代頃からようやく日本で議論されるようになったが、政治家の間でこの「立憲主義」が周知されているのか、また有権者に周知されているのか、疑問が大きいからである。

「立憲主義」はフランス憲法などにあるように、人権が保障されていない憲法は憲法とは言えない、ということであり、なんのために「立憲主義」があるのかというと、人権を保障するために権力を制限する必要があるからなのである。

しかし、この意味の「立憲主義」が日本社会に定着しているのかは大いに疑問である。

安倍政権の例で言えば、これまでの政府の伝統的解釈を勝手に変えて、集団的自衛権を許容する解釈に変更して、憲法第9条を事実上空文化した。

これで国民の「平和的生存権」(憲法前文など)は危うくなったと言えるが、多数の国民は、その後も安倍政権をなお支持していた。

「立憲主義」が憲法上規定されている(憲法前文と憲法99条が根拠条文である)と言っても、政治家や官僚が「理解」していない、一般の国民も「理解」できていなければ、「立憲主義」は存在していないのと変わらない。

それで、憲法秩序を大方崩壊させてきた安倍政権が、不当に「長期化」してきたと言えるのである。

これは今後とも大きな反省を要する問題である。

「護憲+コラム」より
名無しの探偵
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世捨て人の視点で社会参加!

2020-05-13 20:35:39 | 災害
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し。」

ご存じ、「方丈記」の書き出しである。

コロナ騒動が深刻になるにつれ、この名文に込められた鴨長明の「無常観」や「歴史感覚」が見直されている。

「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」

誰の言葉かははっきりしないが、物欲を捨て去って物事にあたらなければならない、という教え。日本人の心の奥底には、物欲(我欲)を捨て去った【無私の心】や人生は有限であるという【無常観】があるように思われる。

上の言葉で「起きて半畳寝て一畳」はよく語られるが、【天下とっても二合半】はあまり語られない。

たとえ、天下を取っても、一度に「二合半」以上のご飯を食べるのは難しい、という意で、転じてむやみやたらに「欲をかいて、無暗に権力を振るう」ものではない。所詮、一人の人間のできる事は、限られている。だから、おのれを捨て去り、多くの人の力を結集し、物事をなさなければならない、と言う事も言外に教えている。

コロナ騒ぎは、人間の命には限りのある事を身に染みて教えている。岡江久美子さんの死は、人の世の「儚さ」をしみじみと教えてくれる。

そもそも、「儚」いという漢字は、人偏に夢と書く。この漢字に人間という生き物の宿命が凝縮されているともいえる。

鴨長明が生きた時代は、現代とよく似た「天変地異」に苦しめられた時代だった。

長明が一生のうちに遭った天変地異は以下の通り。
・安元の大火
・治承の辻風
・福原遷都
・養和の飢饉
・元暦の大地震

このように、平安時代は一見華やかな時代に見えるが、実はそうではない。様々な「天変地異」に苦しめられ、人の死が身近な時代だった。

平安京のメインストリートである朱雀大路の南端にあったのが、羅城門(羅生門)。この門は、「現世」と「異界」を分かつ門だった。平安京の住民たちは、この門の外は、魑魅魍魎が跋扈する「異界」だと考えていた。

その為、羅城門には、数々の奇怪な逸話が残されている。今昔物語に書かれた「ある盗人が、門の上で死人の髪を盗んでいる老婆を見つけ、その老婆の衣を奪って去る」逸話から、芥川龍之介の名作『羅生門』は、生まれた。

そして、この芥川の「羅生門」と「藪の中」を原作にして作られた黒沢映画が、京マチ子・三船敏郎主演の映画「羅生門」である。
※「羅生門」 ウィキペディア 
https://ja.wikipedia.org/wiki/羅生門_(1950年の映画)

この映画で描かれた「羅生門」や平安京の人々の暮らしは、かなり事実に近いものだったと想像される。

もともと、平安京は、【天変地異】に悩まされただけでなく、【群盗】に悩まされ続けた。平安京創設当初より、治安の悪さは、半端なものではなかった。

ここで言う、「群盗」とは何か。一口で言えば、武装した「強盗集団」だと考えれば良い。現在から想像するのは難しいが、リオ・オリンピックの時、路上でバイクに乗った強盗が頻発していたが、あの強盗連中が組織化されて平安京を荒らしていたと考えれば、実態に近いかもしれない。

彼らは、平安京の近くの村々などに住み、略奪のために都に通勤していたという笑えない話もある。(京都の誕生 桃崎有一郎 文芸春秋新書)

当然、朝廷も治安維持に懸命になり、そのための部署として「検非違使」が設けられた。彼らは少数精鋭の軍事エリート集団で、当初はかなり成果を上げた。

しかし、如何せん「群盗」の数が多すぎた。衆寡敵せず。ついには「検非違使」だけでは手に負えなくなり、地方武士を北面の武士として登用。彼らの武力を利用して、「群盗」討伐を行った。こうして地方武士が中央に集まり始め、じょじょにその力を発揮し始めた。

これが武士台頭の理由である。その中で頭角を現したのが、源氏と平氏と言う事になる。

ここから、現代風な教訓を読み取るとするならば、「武士の台頭」は、ローマ帝国末期、傭兵として雇われたゲルマン人が台頭し、最後には、ローマ帝国が滅ぼされたのと類似している。

戦前の日本も、軍隊に対するシビリアン・コントロールが緩むとともに、陸軍の暴走が止められず、太平洋戦争に突入した。

現在の安倍政権も自衛隊の復権にシャカリキになっている。防衛庁は防衛省になり、軍の論理が徐々に政治の論理を席巻しつつある。平安京の貴族支配の崩壊や戦前の政治支配の崩壊と酷似した状況になりつつある、と考えるのが至当。

鴨長明が生きた時代は、このような時代だった。大火、地震、政変(遷都)に加えて、治安の悪さ。さらに疫病までも加わっていた。鴨長明の無常観は、当時の「末法思想」と「浄土思想」に影響されている。

源信(恵心僧都)が浄土思想を広めた時代は10世紀。疫病で多くの人が死んでいた。文字通り、路上に死体が転がっていた時代である。

浄土思想の普及は、疫病の蔓延と深く関わっていた。文字通り【欣求浄土 厭離穢土】の時代だったのである。当時の庶民は、この世は地獄の現実〈穢土〉を生き続けねばならなかった。だから、源信が書いた「往生要集」は、「厭離穢土」と「欣求浄土」から書きはじめられている。
※仏教ウエブ講座
https://true-buddhism.com/history/genshin/

余談を書くと、源信は天台宗の僧侶。彼が終生住んだのは、叡山の「横川」。わたしも行った事があるが、非常に険しい道を歩かねばならない。現在でもそうだが、叡山の「横川」は、伝統的に「千日回峰」の行者が住んでいる場所。叡山では特別な場所だと考えられている。

鴨長明はそういう世の中で世捨て人として生きたように思われるが、意外とそうではない。鴨長明は高位の貴族ではない。それでも晩年に「方丈」の庵室に逃げ込む程度の財を持ちえた出自だった。(庶民の多くはその日の暮らしさえ危うい。)しかし、当時の貴族社会からすれば、いわば「負け組」。
※復元 方丈の庵室 
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4572

市古貞次氏によれば、「音楽と和歌の才に恵まれ、これを自負し、家名、家職に固執する、片意地な偏狭な男が、自己の体験を、隠者の悟りを開いたかの如き自分を通して語っているのであって、・・・・読者は、生半可な悟りに対するもどかしさを感ぜざるを得ない・・・・長明は結局悟りきれず、安心立命の境界に至り得ない男であって・・・・したがってこの作品に思想的な深みを求めるのは困難である」
(岩波文庫 新訂 方丈記 解説)

似たような評価だが、多少異なる評価を堀田善衛もしている。

堀田善衛は、暗く絶望的な戦時下の東京、その最も悲惨な昭和20年3月の大空襲のただなかで方丈記を暗記するまで読み込んだ結論として、以下のように書いている。

・・・・「大風、火災、飢え、地震などの災殃の描写が、実に、読む方としては凄然とさせられるほどの的確さをそなえていることに深くうたれるからでもあった。またさらにもう一つ、この戦禍の先の方にある筈のもの、前章及び前々章にしるした新たなる日本についての期待の感及びそのようなものは多分ありえないのではないかという絶望の感、そのような、いわば政治的、社会的転変についても示唆してくれるものがあるように思ったからでもあった。政治的、社会的転変についての示唆とは、つまり一つの歴史感覚、歴史観ということでもある。」・・・・ちくま文庫 堀田善衞「方丈記私記」

実は、小説家平野啓一郎も内田正樹(うちだ・まさき)氏とのインタビューで同様な評価をしている。https://himejob.jp/job-news/3336/

・・「最近あらためて読んだのは鴨長明の『方丈記』です。火事・竜巻・飢饉・地震という不幸のオンパレードで人が死に続け、結局は「社会の安定を目指さない」という、近年提唱されてきた「持続可能な社会」とは正反対の認識に達している。その結論に全て同意というわけではなく、隠遁でよいのか、ということも含めて、災害が頻発する時代の日本で生きることを考えるうえで、興味深い一冊だと思います。」・・・

実は、コロナ後の世界を考える時、理屈ではなく、堀田善衛や平野啓一郎氏のような小説家の感性が感じ取った【歴史感覚】は貴重である。

上で述べたように、鴨長明が生きてきた社会は、火事・竜巻・飢饉・地震などの「天変地異」の連続。政治は安定せず、治安は最低。生きるためには、他者をも殺さなければならないという地獄の社会。

この地獄絵図のような社会を生き抜くために、市古氏がいうような「安心立命」を求めて、完全な「世捨て人」になり切ることは難しい、と言わざるを得ない。

どんなに世間から隠遁したつもりでも、本人が好むと好まざるとにかかわらず、世間の混乱に巻き込まれるのが、鴨長明が生きていた時代だった。

堀田善衛氏の生きた戦時中の社会もそう。世間から隠遁したつもりでも、空から爆弾が降ってくる。いくら隠遁したつもりでも、食事はしなければならない。コメはない。肉、魚はもちろん、野菜もないとなれば、餓死するつもりがなければ、食料調達に走らなければならない。

こう考えてみると、隠遁生活をし、「安心立命」を求め「悟りの境地」に入るなどという話は、如何に安定した社会が前提かと言う事が良く分かる。騒然とした社会で隠遁し、悟りを求めるなどというのは、如何にも考えにくい。市古氏の評価は、この視点が欠落している。

鴨長明は、こういう時代を生き抜くだけに十分な娑婆っ気も客気も持っていた。これが市古氏から言わせれば、所詮偽物だという評価になり、堀田氏から見れば、次に来る社会を予感している「歴史感覚」の持ち主だという評価になるのだろう。

コロナ後の社会を考える時、わたしも鴨長明の「歴史感覚」は重要だと考えている。わたしの時代感覚、時代予測は、【日本沈没】などで書いたので繰り返さないが、現在眼前で繰り広げられている政治狂騒曲(自公維新)を見れば、未来への【希望】などは皆無に近いと思う。

私も「悟りの境地」などという高尚な心境には程遠い俗な人間なので、今の現実に激しく怒っている。

しかし、現実の自分は、「世捨て人」の境遇とほとんど変わらない。私などの言説が社会に影響を及ぼすなどと言う事は、幻想に過ぎない。

だからこそ、「世捨て人」の感覚が重要になる、という逆説にかけてみたい。鴨長明がいかに俗っぽい思想の持主だろうが、彼の「方丈記」に書かれたドキュメンタリーに似た災害の記述が色あせる事はない。こういうものだけが、後世に生き残る。この「記述」は彼が「世捨て人」の境遇だったからこそ、書きえたものだ。

わたしたちは「老人党」を自称してきた。今こそ、「世捨て人」の感覚で、コロナ騒動を生き抜き、記録し、批判し尽くさなければならない。

「世捨て人」だからこそ、あらゆる物事を冷静に客観的に見る事ができる。わたしたちは、その強みを生かして、自らに鞭打って、社会参加を続けなければならない。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

必見:#検察庁法改正案に関する緊急記者会見

2020-05-12 21:25:14 | 安倍内閣
「#検察庁法改正に抗議します」のツイッターデモの盛り上がりを受け、今日15:30から急きょ「#検察庁法改正案に関する緊急記者会見検察庁法改正案に関する緊急記者会見」が開催されました。

司会:津田大介@tsuda
出演:枝野幸男(立憲)玉木雄一郎(国民)志位和夫(共産)福島みずほ(社民)足立康史(維新)

リアルタイムで観ていましたが、司会の津田さんの巧みな司会進行によって、「検察庁法改正案の問題点と議論のポイントを網羅的に把握できる」(津田さん談)内容になっていました。

足立議員のゴチャゴチャとウザい発言も、今回はこの改正案の提出経緯や内容の問題点を明らかにする役割を担う結果となっています。

また、最近存在感が薄い感じがしていた立憲民主・枝野さんが、とても力強くクリアにメッセージ発信していて、頼もしさを感じることができたのが、私としては良かったです。

以下でアーカイブを見ることができます。時間は約1時間半と長いですが、検察庁法改正案の問題点の理解を深め、野党各党のスタンスを確認する上で、一見の価値があります。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=hcm5E9J_3xQ&feature=youtu.be

「護憲+BBS」「 新聞記事などの紹介」より
笹井明子
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする