合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、かならずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語を指す。(ウイキペデイア)
この考え方、経済学だけでなく、様々な分野で有効だと思う。現役時代、わたしもこの合成の誤謬的発想にさんざん悩まされた。
実例で考えてみればすぐ理解できる。たとえば、教師的発想の最たるものに、良い事をやりたがる(実践したがる)癖がある。その裏には、良い事を積み重ねる(合成する)と理想的な人間が出来上がるという牢固とした信仰がある。その為、真面目な教師ほど真剣に良い事をやりたがった。彼らが真剣であればあるほど、必死になればなるほど結果は無惨な場合が多かった。
この例は、勉強に置き換えればさらに良く分かる。真面目で熱心な教師ほど細部にわたるまで丁寧に教え、それを完全にマスターさせたがる。中学校以上の場合、教師は専門教科を教える。ところが、受ける生徒は、全教科(わたしの時代は9教科)を学ばなければならない。こうなると生徒は、9教科全てについて細部に至るまで完全にマスターしなければならなくなる。生徒から言わせると「冗談じゃねー。嫌いな教科までそんなに丁寧にやっておれるか。止めた、止めた。」という具合になる。
次にくるのが、教師によって態度を変える。怖い教師の場合、保身のため勉強する。やさしい教師の場合、手抜きをする、という具合に裏表のある生徒が育つ。真面目で熱心で子供に力をつけるため一生懸命に教える。教師としては、全くの【善】である。ところが、結果としては、子供たちが裏表のある人格に育ったり、学ぶ楽しさを忘れ、学ぶ苦しさを感じてしまう。教師としては、これは【悪】である。
ところが、学力優先主義的発想の学校では、このような教育が平然と行われてきた。つまり、全ての教科(特に受験教科)を細部にわたるまで丁寧に熱心に教え込む(※学ぶのではない)技術のある教師ほど【良い教師=善】とされ、それに疑いを挟む教師は変人か、能力のない教師とされた。受験教育とは、このような教育の典型である。
つまり、細部に至るまで【善】を積み重ねるとマクロ(集計量)でも【善】になるはずだというフィクションが信じられていたのである。
今回の選挙、リベラル派勢力の破綻の思想的要因は、この【合成の誤謬】的発想にあると思う。
【荒れた中学校】時代ほど、理想家肌の教師たちの限界が露わになった時代はない。非暴力を標榜する教師の中で、荒れる子供の前に立ちはだかり、自らを犠牲にしてでも子供の暴力を止めようとした教師は、わたしの経験では、一人しかいない。(※わたしは今でも彼は本物だと尊敬している)
つまり、人権擁護を叫ぶなら、暴力をふるい、他者の人権を無視して、他を威嚇する行為を繰り返す生徒の【反人権的行為】に対しても身を挺した説得を行わなければ、本物ではない。そうしなければ、荒れた学校現場でどうして良いか分からないが、何としてもその子供たちを立ち直らせようともがき格闘している他の教師(難しい理論はないが、情熱はある)たちにとって、人権擁護などという言葉は、ただのお題目にしか過ぎないという事になる。
理想家肌の教師(いわゆるリベラル派の教師)たちは、この自らの理想・理念が本物かどうか、(私流に言うと、自らの理想・理念が血肉化しているかどうか)という場面で、あまり役に立たなかった、という印象がぬぐいきれない。
今回の選挙。リベラル派の党・市民団体はなぜ大同団結できなかったのか。彼らなりの細部にこだわる理論(善)に執着しすぎるあまり、総体としての政治の潮流を読み誤った(悪)点にあると思う。つまり、仲間内の【善】の理論にこだわり、国民の心の中に【錘】を下せなくなったのであろう。今回の選挙、私の肌感覚では、子供の荒れている現場にわが身を投じられるかどうかの覚悟を問う選挙だったと思っていた。それができなかった。つまり、リベラル政党・団体などの存在価値そのものに疑いが向けられたのである。
【退却戦】を戦うとはそういう事なのである。明智光秀が、百姓に打ち取られた例を見るまでもなく、残党狩りは戦いの常。この苦しい戦いを生き延びなければ、リベラル勢力の明日はない。
寺山修二の【身捨つるほどの 祖国はありや】というひそみに倣えば、【身捨つるほどの 思想はありや】という問いをわが身わが心に投げかける選挙だった。
ここからしか、明日の展望は開けない、と思う。
「護憲+コラム」より
流水
この考え方、経済学だけでなく、様々な分野で有効だと思う。現役時代、わたしもこの合成の誤謬的発想にさんざん悩まされた。
実例で考えてみればすぐ理解できる。たとえば、教師的発想の最たるものに、良い事をやりたがる(実践したがる)癖がある。その裏には、良い事を積み重ねる(合成する)と理想的な人間が出来上がるという牢固とした信仰がある。その為、真面目な教師ほど真剣に良い事をやりたがった。彼らが真剣であればあるほど、必死になればなるほど結果は無惨な場合が多かった。
この例は、勉強に置き換えればさらに良く分かる。真面目で熱心な教師ほど細部にわたるまで丁寧に教え、それを完全にマスターさせたがる。中学校以上の場合、教師は専門教科を教える。ところが、受ける生徒は、全教科(わたしの時代は9教科)を学ばなければならない。こうなると生徒は、9教科全てについて細部に至るまで完全にマスターしなければならなくなる。生徒から言わせると「冗談じゃねー。嫌いな教科までそんなに丁寧にやっておれるか。止めた、止めた。」という具合になる。
次にくるのが、教師によって態度を変える。怖い教師の場合、保身のため勉強する。やさしい教師の場合、手抜きをする、という具合に裏表のある生徒が育つ。真面目で熱心で子供に力をつけるため一生懸命に教える。教師としては、全くの【善】である。ところが、結果としては、子供たちが裏表のある人格に育ったり、学ぶ楽しさを忘れ、学ぶ苦しさを感じてしまう。教師としては、これは【悪】である。
ところが、学力優先主義的発想の学校では、このような教育が平然と行われてきた。つまり、全ての教科(特に受験教科)を細部にわたるまで丁寧に熱心に教え込む(※学ぶのではない)技術のある教師ほど【良い教師=善】とされ、それに疑いを挟む教師は変人か、能力のない教師とされた。受験教育とは、このような教育の典型である。
つまり、細部に至るまで【善】を積み重ねるとマクロ(集計量)でも【善】になるはずだというフィクションが信じられていたのである。
今回の選挙、リベラル派勢力の破綻の思想的要因は、この【合成の誤謬】的発想にあると思う。
【荒れた中学校】時代ほど、理想家肌の教師たちの限界が露わになった時代はない。非暴力を標榜する教師の中で、荒れる子供の前に立ちはだかり、自らを犠牲にしてでも子供の暴力を止めようとした教師は、わたしの経験では、一人しかいない。(※わたしは今でも彼は本物だと尊敬している)
つまり、人権擁護を叫ぶなら、暴力をふるい、他者の人権を無視して、他を威嚇する行為を繰り返す生徒の【反人権的行為】に対しても身を挺した説得を行わなければ、本物ではない。そうしなければ、荒れた学校現場でどうして良いか分からないが、何としてもその子供たちを立ち直らせようともがき格闘している他の教師(難しい理論はないが、情熱はある)たちにとって、人権擁護などという言葉は、ただのお題目にしか過ぎないという事になる。
理想家肌の教師(いわゆるリベラル派の教師)たちは、この自らの理想・理念が本物かどうか、(私流に言うと、自らの理想・理念が血肉化しているかどうか)という場面で、あまり役に立たなかった、という印象がぬぐいきれない。
今回の選挙。リベラル派の党・市民団体はなぜ大同団結できなかったのか。彼らなりの細部にこだわる理論(善)に執着しすぎるあまり、総体としての政治の潮流を読み誤った(悪)点にあると思う。つまり、仲間内の【善】の理論にこだわり、国民の心の中に【錘】を下せなくなったのであろう。今回の選挙、私の肌感覚では、子供の荒れている現場にわが身を投じられるかどうかの覚悟を問う選挙だったと思っていた。それができなかった。つまり、リベラル政党・団体などの存在価値そのものに疑いが向けられたのである。
【退却戦】を戦うとはそういう事なのである。明智光秀が、百姓に打ち取られた例を見るまでもなく、残党狩りは戦いの常。この苦しい戦いを生き延びなければ、リベラル勢力の明日はない。
寺山修二の【身捨つるほどの 祖国はありや】というひそみに倣えば、【身捨つるほどの 思想はありや】という問いをわが身わが心に投げかける選挙だった。
ここからしか、明日の展望は開けない、と思う。
「護憲+コラム」より
流水