戦時下の日本は飢えと疲労と苦渋の生活だった。これは、私が「あの戦争」を体験した人達からも聞いた話だった。今改めて斎藤美奈子の「戦下のレシピ」(岩波アクティブ新書)を読むと、言葉ではとても表現しきれない、暮らしの中の「食べる」ということについてリアルに考えさせられた。
この本は口絵も写真も当時の資料が掲載されていて、リアルに「戦時下の食」について書かれているが、その前に、著者は戦前の日本の食生活がどんなものだったかも調べている。当時の日本の都市では、多彩な食文化が花開き、今のレトロな「洋食」の類を裕福な都市生活者は家庭でも作り繁華街の洋食屋でも食していたようである。
それに対して農村は、小作料として米を収穫の半分以上物納させられており、その他の米は現金収入を得るための商品だった。自分達が耕した白米を口にする事はなく、くず米に丸麦や押し米を混ぜた麦飯や、あわ、ひえ、きび、などの雑穀類や芋やおかゆや雑炊が主食だった地域もあった。それに昭和の初期は東北地方で冷害による米の凶作が続き、栄養失調の子どもや娘の身売り、飢えて亡くなる人達が後を絶たず、元々農村の食生活は悲惨だったのである。
こう書いていても、それがどんな食感なのかどれほど口に合わないのか私には分からない。今の時代、雑炊やすいとんと言ってもしっかりだし汁がとってあり、野菜がたっぷり入った熱々の美味しいものしか、食す機会がないからである。
元々戦前の日本は究極の格差社会で、都市と農村という地域差だけでも貧富の差が激しかった。都会では中流以上の富裕層が師弟の教育にも熱心になり、女学校なるものが出来てくる。「良妻賢母」の製造所みたいな女学校と、当時の婦人雑誌などが、「手づくりの料理は母の愛情の証である」という家庭料理イデオロギーをつくり広めたのだという。「できあいのお総菜で済ませるのは主婦の、怠慢、手抜きである」という思想は現在も根強く残っているが、そんな考えはこの当時の「婦人雑誌」などのメディアによってつくられたものだと、著者は述べている。
家庭の食卓が飯と漬け物だけだった時代(地域)にはこんな考え方は何処にもなかったし、裕福な家庭では炊事は使用人の仕事であり、忙しい商家や農家では主婦も大事な労働力だった。愛情と料理の間には本来何の関係もないのだ、と言いきる著者の言葉に、私は目から鱗の思いがした。こうして「家庭料理イデオロギー」の広報に邁進した当時の婦人雑誌には、戦争が始まると国策に沿って、戦争気分を盛り上げる勇ましい記事が載る。
戦争を知っている世代の方々からはお叱りを受けるかも知れないが、戦争初期(廬構橋事件をきっかけとした日中戦争の始まりの頃)は10月の上海戦の勝利や12月の南京陥落が報道されると国中が祝賀ムードに湧いていたという。この感覚を理解するには、2006年のサッカー国際大会ワールドカップで、日本がチームが優勝したときの「ニッポン、チャチャチャ」な雰囲気と似ているのではないかと、著者は書いている。
振り返って現在の、定額給付員を歓迎するメディアの報道はどうだろう。報道する側の姿勢は60年前も今も変わってはおらず、私達はつくづくメディアに振り回されないようにしなければと思う。
やがて1938年に「国家総動員法」が制定され、統制経済がはじまり、国民に我慢を強いる「国民精神総動員法」なる運動も盛んになった。「制約調理」だの「節約米」だの盛んに婦人雑誌を賑わすが、戦争も終盤の頃になると「代用食」と言っても、本当に食べられるのか?と思われる凄まじいものが出てくる。茶がらは野菜として食し、魚粉は貴重なタンパク源、じゃがいもの皮は芽が出ていても熱には溶けやすいから大丈夫だという風に。
戦争中の米不足も、実は近代日本は国外の米に頼ってやっと食料を確保していたという点にあるという。「豊芦原の瑞穂の国」なんてウソばかりで、節米さえ実行できれば食料は何とかなると考えた国の指導者の、根本的な戦争政策の失敗なのである。
戦時下の主婦は食料を調達するだけでも厖大な時間と重労働を強いられた。しかも仕事はそれだけではなく、縫い物や繕いにも時間を掛け、隣組などの目が光り日常生活のあらゆる部分が煩わしいことだらけ。食料をめぐる争いもそこここで起こっていたのだという。
寝不足で、重労働で、飯がない、それが戦争の本質かも知れない。戦争になれば必ずまた同じことが起きる。戦争の影響で食料が無くなるのではなく、食料が無くなることが戦争なのだと著者は言っている。
最後に「とんとんとんからりんと隣組~」で始まる「隣組」の面白い替え歌が載っているので、紹介しょう。
「ドンドンドンガラリと ドナリ組
あれこれ面倒 味噌 醤油
回して頂戴 買いだめ品
ああ情けない 腹へった 」 (作者不詳)
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
パンドラ
この本は口絵も写真も当時の資料が掲載されていて、リアルに「戦時下の食」について書かれているが、その前に、著者は戦前の日本の食生活がどんなものだったかも調べている。当時の日本の都市では、多彩な食文化が花開き、今のレトロな「洋食」の類を裕福な都市生活者は家庭でも作り繁華街の洋食屋でも食していたようである。
それに対して農村は、小作料として米を収穫の半分以上物納させられており、その他の米は現金収入を得るための商品だった。自分達が耕した白米を口にする事はなく、くず米に丸麦や押し米を混ぜた麦飯や、あわ、ひえ、きび、などの雑穀類や芋やおかゆや雑炊が主食だった地域もあった。それに昭和の初期は東北地方で冷害による米の凶作が続き、栄養失調の子どもや娘の身売り、飢えて亡くなる人達が後を絶たず、元々農村の食生活は悲惨だったのである。
こう書いていても、それがどんな食感なのかどれほど口に合わないのか私には分からない。今の時代、雑炊やすいとんと言ってもしっかりだし汁がとってあり、野菜がたっぷり入った熱々の美味しいものしか、食す機会がないからである。
元々戦前の日本は究極の格差社会で、都市と農村という地域差だけでも貧富の差が激しかった。都会では中流以上の富裕層が師弟の教育にも熱心になり、女学校なるものが出来てくる。「良妻賢母」の製造所みたいな女学校と、当時の婦人雑誌などが、「手づくりの料理は母の愛情の証である」という家庭料理イデオロギーをつくり広めたのだという。「できあいのお総菜で済ませるのは主婦の、怠慢、手抜きである」という思想は現在も根強く残っているが、そんな考えはこの当時の「婦人雑誌」などのメディアによってつくられたものだと、著者は述べている。
家庭の食卓が飯と漬け物だけだった時代(地域)にはこんな考え方は何処にもなかったし、裕福な家庭では炊事は使用人の仕事であり、忙しい商家や農家では主婦も大事な労働力だった。愛情と料理の間には本来何の関係もないのだ、と言いきる著者の言葉に、私は目から鱗の思いがした。こうして「家庭料理イデオロギー」の広報に邁進した当時の婦人雑誌には、戦争が始まると国策に沿って、戦争気分を盛り上げる勇ましい記事が載る。
戦争を知っている世代の方々からはお叱りを受けるかも知れないが、戦争初期(廬構橋事件をきっかけとした日中戦争の始まりの頃)は10月の上海戦の勝利や12月の南京陥落が報道されると国中が祝賀ムードに湧いていたという。この感覚を理解するには、2006年のサッカー国際大会ワールドカップで、日本がチームが優勝したときの「ニッポン、チャチャチャ」な雰囲気と似ているのではないかと、著者は書いている。
振り返って現在の、定額給付員を歓迎するメディアの報道はどうだろう。報道する側の姿勢は60年前も今も変わってはおらず、私達はつくづくメディアに振り回されないようにしなければと思う。
やがて1938年に「国家総動員法」が制定され、統制経済がはじまり、国民に我慢を強いる「国民精神総動員法」なる運動も盛んになった。「制約調理」だの「節約米」だの盛んに婦人雑誌を賑わすが、戦争も終盤の頃になると「代用食」と言っても、本当に食べられるのか?と思われる凄まじいものが出てくる。茶がらは野菜として食し、魚粉は貴重なタンパク源、じゃがいもの皮は芽が出ていても熱には溶けやすいから大丈夫だという風に。
戦争中の米不足も、実は近代日本は国外の米に頼ってやっと食料を確保していたという点にあるという。「豊芦原の瑞穂の国」なんてウソばかりで、節米さえ実行できれば食料は何とかなると考えた国の指導者の、根本的な戦争政策の失敗なのである。
戦時下の主婦は食料を調達するだけでも厖大な時間と重労働を強いられた。しかも仕事はそれだけではなく、縫い物や繕いにも時間を掛け、隣組などの目が光り日常生活のあらゆる部分が煩わしいことだらけ。食料をめぐる争いもそこここで起こっていたのだという。
寝不足で、重労働で、飯がない、それが戦争の本質かも知れない。戦争になれば必ずまた同じことが起きる。戦争の影響で食料が無くなるのではなく、食料が無くなることが戦争なのだと著者は言っている。
最後に「とんとんとんからりんと隣組~」で始まる「隣組」の面白い替え歌が載っているので、紹介しょう。
「ドンドンドンガラリと ドナリ組
あれこれ面倒 味噌 醤油
回して頂戴 買いだめ品
ああ情けない 腹へった 」 (作者不詳)
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
パンドラ