7年以上前、山口県光市で当時18歳少年が起こした母子殺人事件。本村洋さんは被害者の夫であり父親、しかも凄惨な殺害現場の第一発見者。私はTVや新聞、週刊誌などの報道で公開された事件の概要は知っていましたが、
①少年法の是非
②死刑に値するか否か。死刑の是非
以上について、判断に窮していました。この事件、最高裁で差し戻し判決となり被告に21名の大弁護団がついた結果の「死刑」判決でした。私としては
①現在の少年法はナンセンス(更正方法と判断、被害者への償いから見て)
②死刑は必要悪(唯一死刑を避ける方法は被害者からの赦し、+終身刑の新設)
こう考えていましたが、その確信を得るために読みたかったわけです。内容の真偽は、私が見聞きしたメディア報道と著者が現場取材に基づくルポライターという点から判断しました。読んでみて、知らなかった事実は
①事件発生当初、第一発見者の本村さんが被疑者として罵倒される事情聴取を受けていた
②犯人逮捕の瞬間から、少年法のセオリーで被害者抜きの取調べ・裁判が進んでいた
③そのため、加害者の人権保護ばかり尊重された
④事件の担当刑事・担当検事の並ならぬ正義感と熱意があって最高裁まで戦えた
以上でした。例えば本村さんは最愛の妻を、絞殺で汚物にまみれ死後レイプされた状態で発見しました。そして、「その場で遺体を抱きしめてあげなかった自分が情けない、許せない」と、現在でも自分を責め続けているそうです。
ところが警察は、少年法に気を遣うあまり「ご主人と被害者の名誉を傷つけるから」との口実で死後レイプの事実を隠し、単なる殺人事件として処理しようとしたようです。本村さんはこれに怒り、自ら記者会見で公表したとのこと。
特に最初の裁判、地裁では「はじめに少年院送致ありき」の裁判状況と裁判官の態度、判決。先に「イラク自衛隊派遣」裁判の勉強会で聞いた、裁判官の信じられない所業と通じるものがあります。誰のための裁判なのか・・・。
ですから、もしも担当刑事と検事の正義感・熱意がなかったら、この事件は「少年院送致あるいは執行猶予付き懲役刑、悪くても3~5年で出所」の一審判決で終わっていたでしょう。それで本村さん、一審後の記者会見で「早く刑期を終えて出所させてください。私が必ず殺します」と、前代未聞の殺人予告に至ったわけです。その部分だけニュースで見れば「なんて大胆、非常識なヤツ」と思われるでしょう。
また、「2人殺して無期懲役、それ以上で死刑」との前例主義により二審判決が「無期懲役」だった場合、本村さんはその晩に自殺し「事件の死者3名」として世間に訴えるつもりでした。事実、その通りの判決になりましたが、彼の自殺を未然に防いだのは会社の先輩・上司でした。
以上、後半の21名大弁護団の滑稽さ・非常識な主張を含め、いかに被害者を無視した事務的で形骸化した裁判が行われているかを痛感いたしました。昔の仇討ちの代わって司法が逮捕権・捜査権を駆使し、加害者を拘束し裁いて被害者に報いるのが現代の警察・裁判所。それをいい加減に運用するならば、私も「仇討ち」を宣言するでしょう、本村さんのように。
また、この事件は「いつ、どこでも起こりうる」恐怖を感じます。加害者少年は同じ社宅内に住む自分好みの女性をレイプする目的で水道点検作業員を装い、一棟ずつ一軒ずつ訪問した末の犯行でした。目的を果たせなければ、犯行がバレそうになれば殺す。殺した後でも目的を果たす。「誰でも良かった」最近の無差別殺人のように、こういう病んだ人間が増えている気がします。
私と我が家は、こういった事件の動機・状況を知って自衛するしかない・・・という心境です。持ち歩かなければ銃刀法違反になりませんから、家のあちこちに木刀・竹刀を隠し置き、防犯ブザーを吊るし、護身術を習っている次第です。でも、いわれなき家宅捜索されたら、凶器準備罪・共謀罪で逮捕されるかも・・・(苦笑)
私の仕事先である営業店舗は女性スタッフ中心ですが、彼女達自ら「店番をしていて怖い思いをした」とカウンター下に防犯ブザーを常備し、社長は警備会社と契約しています。それでも、シャッターを下ろした閉店直後に押し入られたら、店内は密室状態になります。
別スレッドでGoogle「ストリートビュー」の話題がありましたが、私はこういう犯罪を懸念しています。
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
猫家五六助
====
私は光市母子殺人事件については偶々弁護団側の意見を今年聞いた事がありますので、猫家さんの本の紹介を読み、そういう見方もあるのだなーと、感慨深いものを感じました。
確かに私は事件の概要について、新聞、テレビ、週刊誌などのメディアの報道でしか知り得ませんでした。最近読んだ「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎著・新潮社)にも書いてありましたが、「テレビの報道」などはある一面を切り取ってそこだけを放映する事もできるし、如何様にも演出は可能なのですね。
例えば、ここに一個のリンゴがあります。私達は、そのリンゴを正面から一瞬だけ目にしたとします。その時の私達には「リンゴが一個あった」という記憶しか残らないかも知れません。
でもそれは裏側から見れば半分に切断されたものかも知れないのです。反対側は中身がくりぬかれていたのかも知れないのです。もしかしたら巧妙にできた作りもので如何にもリンゴらしきものを私達は見ていたのかも知れないのです。私も又リンゴの一面しか見ていなかったのかも知れません。
これは裁判員制度でも考えてしまうことですが、何を真実とするかは難しいと思います。
病んだ人間が増えているのかどうかは分かりませんが、社会が病んでいるとは思います。秋葉の事件は人の命を奪ったという行為は許されるものではないと思います。「誰でもよかった」という言葉が最近事件が起こる度に使われますが、それ以前に企業が「誰でもいい」若者達を雇い、政治はそれを放置してきた。何時まで経っても「誰でもいい」彼らは、「誰でもない」その日暮らしの生活も危うくなった時、自暴自爆的行動に出るのでしょうか。
自殺者が年間3万人を超えるということは、予備軍はもっとたくさんいるはずです。10年で30万人として一つの市が消える位の死者を私達の国は出しているのです。
「死ぬなら一人で死んでくれ、他人を巻き込むな」これが、秋葉の事件を見た人の普通の感想だと、聞いた事があります。人の心が病むときは多分その社会も病んでいるのです。
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
パンドラ
①少年法の是非
②死刑に値するか否か。死刑の是非
以上について、判断に窮していました。この事件、最高裁で差し戻し判決となり被告に21名の大弁護団がついた結果の「死刑」判決でした。私としては
①現在の少年法はナンセンス(更正方法と判断、被害者への償いから見て)
②死刑は必要悪(唯一死刑を避ける方法は被害者からの赦し、+終身刑の新設)
こう考えていましたが、その確信を得るために読みたかったわけです。内容の真偽は、私が見聞きしたメディア報道と著者が現場取材に基づくルポライターという点から判断しました。読んでみて、知らなかった事実は
①事件発生当初、第一発見者の本村さんが被疑者として罵倒される事情聴取を受けていた
②犯人逮捕の瞬間から、少年法のセオリーで被害者抜きの取調べ・裁判が進んでいた
③そのため、加害者の人権保護ばかり尊重された
④事件の担当刑事・担当検事の並ならぬ正義感と熱意があって最高裁まで戦えた
以上でした。例えば本村さんは最愛の妻を、絞殺で汚物にまみれ死後レイプされた状態で発見しました。そして、「その場で遺体を抱きしめてあげなかった自分が情けない、許せない」と、現在でも自分を責め続けているそうです。
ところが警察は、少年法に気を遣うあまり「ご主人と被害者の名誉を傷つけるから」との口実で死後レイプの事実を隠し、単なる殺人事件として処理しようとしたようです。本村さんはこれに怒り、自ら記者会見で公表したとのこと。
特に最初の裁判、地裁では「はじめに少年院送致ありき」の裁判状況と裁判官の態度、判決。先に「イラク自衛隊派遣」裁判の勉強会で聞いた、裁判官の信じられない所業と通じるものがあります。誰のための裁判なのか・・・。
ですから、もしも担当刑事と検事の正義感・熱意がなかったら、この事件は「少年院送致あるいは執行猶予付き懲役刑、悪くても3~5年で出所」の一審判決で終わっていたでしょう。それで本村さん、一審後の記者会見で「早く刑期を終えて出所させてください。私が必ず殺します」と、前代未聞の殺人予告に至ったわけです。その部分だけニュースで見れば「なんて大胆、非常識なヤツ」と思われるでしょう。
また、「2人殺して無期懲役、それ以上で死刑」との前例主義により二審判決が「無期懲役」だった場合、本村さんはその晩に自殺し「事件の死者3名」として世間に訴えるつもりでした。事実、その通りの判決になりましたが、彼の自殺を未然に防いだのは会社の先輩・上司でした。
以上、後半の21名大弁護団の滑稽さ・非常識な主張を含め、いかに被害者を無視した事務的で形骸化した裁判が行われているかを痛感いたしました。昔の仇討ちの代わって司法が逮捕権・捜査権を駆使し、加害者を拘束し裁いて被害者に報いるのが現代の警察・裁判所。それをいい加減に運用するならば、私も「仇討ち」を宣言するでしょう、本村さんのように。
また、この事件は「いつ、どこでも起こりうる」恐怖を感じます。加害者少年は同じ社宅内に住む自分好みの女性をレイプする目的で水道点検作業員を装い、一棟ずつ一軒ずつ訪問した末の犯行でした。目的を果たせなければ、犯行がバレそうになれば殺す。殺した後でも目的を果たす。「誰でも良かった」最近の無差別殺人のように、こういう病んだ人間が増えている気がします。
私と我が家は、こういった事件の動機・状況を知って自衛するしかない・・・という心境です。持ち歩かなければ銃刀法違反になりませんから、家のあちこちに木刀・竹刀を隠し置き、防犯ブザーを吊るし、護身術を習っている次第です。でも、いわれなき家宅捜索されたら、凶器準備罪・共謀罪で逮捕されるかも・・・(苦笑)
私の仕事先である営業店舗は女性スタッフ中心ですが、彼女達自ら「店番をしていて怖い思いをした」とカウンター下に防犯ブザーを常備し、社長は警備会社と契約しています。それでも、シャッターを下ろした閉店直後に押し入られたら、店内は密室状態になります。
別スレッドでGoogle「ストリートビュー」の話題がありましたが、私はこういう犯罪を懸念しています。
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
猫家五六助
====
私は光市母子殺人事件については偶々弁護団側の意見を今年聞いた事がありますので、猫家さんの本の紹介を読み、そういう見方もあるのだなーと、感慨深いものを感じました。
確かに私は事件の概要について、新聞、テレビ、週刊誌などのメディアの報道でしか知り得ませんでした。最近読んだ「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎著・新潮社)にも書いてありましたが、「テレビの報道」などはある一面を切り取ってそこだけを放映する事もできるし、如何様にも演出は可能なのですね。
例えば、ここに一個のリンゴがあります。私達は、そのリンゴを正面から一瞬だけ目にしたとします。その時の私達には「リンゴが一個あった」という記憶しか残らないかも知れません。
でもそれは裏側から見れば半分に切断されたものかも知れないのです。反対側は中身がくりぬかれていたのかも知れないのです。もしかしたら巧妙にできた作りもので如何にもリンゴらしきものを私達は見ていたのかも知れないのです。私も又リンゴの一面しか見ていなかったのかも知れません。
これは裁判員制度でも考えてしまうことですが、何を真実とするかは難しいと思います。
病んだ人間が増えているのかどうかは分かりませんが、社会が病んでいるとは思います。秋葉の事件は人の命を奪ったという行為は許されるものではないと思います。「誰でもよかった」という言葉が最近事件が起こる度に使われますが、それ以前に企業が「誰でもいい」若者達を雇い、政治はそれを放置してきた。何時まで経っても「誰でもいい」彼らは、「誰でもない」その日暮らしの生活も危うくなった時、自暴自爆的行動に出るのでしょうか。
自殺者が年間3万人を超えるということは、予備軍はもっとたくさんいるはずです。10年で30万人として一つの市が消える位の死者を私達の国は出しているのです。
「死ぬなら一人で死んでくれ、他人を巻き込むな」これが、秋葉の事件を見た人の普通の感想だと、聞いた事があります。人の心が病むときは多分その社会も病んでいるのです。
「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
パンドラ