NATOなみにGDP2%を目途に防衛力を強化するというアドバルーンが打ち上がっている。ウクライナ問題や北朝鮮の核ならびにミサイル騒動が日々話題になっている折り、市民の安全を確保するには至極当然な考えにも見えるが、市民の安全保障策として軍事のみに頼る論が先行する状況に敢えて異論を提示したい。
5つ程、異論のポイントがある。
1つ目は、お金のこと。5%UPは5兆円程に相当するという。政府の目論み通りGDPの2%へ防衛費が上がれば、いずれ消費税が2%をはるかに超える割合であがるだろう。
2つ目は、現在の5兆円が10兆円に上がることで、利権にたかる所謂白アリが喜ぶだけの構図が拡大することを、指をくわえて見るだけという閉塞感がまたまた募ることになろう。
また今日、官房長官がシェルター構想まで持ち出してきている。市民の恐怖につけ込んだ何時もの箱物行政の臭いがする。
3つ目は、軍事力競争というものは、そもそも経済力そして科学技術力に優るものが勝つに決まっている争いと言える。ある意味、産業革命・植民地獲得競争や革新技術開発競争等の場面において狡賢く立ち回り経済的に優位に立った組織程、勝ち残る世界を表している。そんな世界を拒否する考えがあっても良いのではとも思うのだが。
残念ながら品性に基づく議論は軍事力競争批判の際には、迫力が無いことは承知の上で敢えて触れておく。
4つ目は、今回防衛に関わる費用増額の議論の中に先制攻撃力を加えるという考えも混ぜられている。お互いが先軍思想に走り、盾と矛との武器開発調達合戦を互いに繰り広げる状況は、双方の疑心暗鬼のなか何かのきっかけで戻ることが不可能な最悪状況に陥る可能性が生まれる危険な議論との認識が大切と考える。
核まで普通に持ってしまっている現代の軍事情勢のもとでは、血気にはやった一時の熱気位で即断して欲しくない問題と考えたい。
5つ目は、帝政下のドイツに生まれたユダヤ人哲学者レオ・シュトラウス(シカゴ大に奉じネオコンの祖と目され、毀誉褒貶の激しい面もある学者として知られる)の論説を紹介する形になる。
彼の主張の一つは、近代社会に入った我々は“科学”と“哲学”とを分離し、しかもただ分離しただけでなく近代社会の我々は“科学”の側に軍配を挙げ“哲学”の方を追放しようとした、ということである。従って近代社会成立以降の革新的科学技術は“哲学的価値観”抜きの単なる”有用性”だけを利用して進んでいる社会といえる。この点が一つ。
もう一つの彼の主張は“思想の自由”に関することである。普通、“思想の自由”は至極当然で自明な基本的人権と思われている。しかしシュトラウスは“思想の自由”とは、大多数の市民にとっては、少数の弁論家や著述家たちが提示する幾つかの見解の中の一つを単に選択することにすぎないことだ、と主張する。
ここにおいてもしも公権力が大多数の市民に提示される見解の選択肢の幅を恣意的に規制し、狭めた場合、どのようなことが起こるだろうか?と問うている。かかる状況のもとでは、大多数の市民にとって異論は存在せず、公権力の誘導する選択肢だけが唯一の正当なものと、大多数の市民が判断するのは至極当然のこととなる。即ち、大多数の市民は自身が自由な立場から選択を行ったと思うかも知れないが、実態は誤誘導の罠に囚われているという事態が懸念されるわけである。
だがこれは第一の局面の懸念だとして、シュトラウスはそれだけでは留まらない次の懸念もあると続けている。
第二の局面の懸念は次のような状況を指す。即ち第一の局面で、大多数の市民が公権力の誘導する見解を正当なものと判断し受容したとしても、そのお仕着せの見解に従わない真に独立した思考を持つ少数の人の存在まで根絶することは出来ない状況が残るだろうとシュトラウスは想定する。
しかしその生き残った少数者の異論は、彼ら少数者の勇気や信念が如何に強靭であったとしても、また如何に人類の進歩による思想の自由の実現が期待されようとも、長く生き続けて行くことは困難だろうとしている。しかもその生き残った少数者の異論をつぶすのは公権力ではなく、公権力の誘導する見解を正当なものと判断し受容した大多数の市民が行うのだ、と論じている。
このシュトラウスの2つの局面に対する視点は、自民一党支配が長く続く日本の特異性を示唆する見解であろう。
“防衛力強化を検討する政府の有識者会議”の見解は、新聞・雑誌・TVとうのマスコミ媒体に踊る有識者や芸人らによる影響によって強化され、市民への浸透が加速されていくことだろう。これを食い止めることには、かなりの智恵を絞る必要があろうし、そうした上でも極めて困難なことと心得なければならないだろう。
一方、設立されたとされる、軍事力ではなく平和外交による安全保障を目指す「平和構想提言会議」には、一方に偏りがちな世論のバランスを取る為にも最大限の努力で取りくむことを期待したい。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
yo-chan
5つ程、異論のポイントがある。
1つ目は、お金のこと。5%UPは5兆円程に相当するという。政府の目論み通りGDPの2%へ防衛費が上がれば、いずれ消費税が2%をはるかに超える割合であがるだろう。
2つ目は、現在の5兆円が10兆円に上がることで、利権にたかる所謂白アリが喜ぶだけの構図が拡大することを、指をくわえて見るだけという閉塞感がまたまた募ることになろう。
また今日、官房長官がシェルター構想まで持ち出してきている。市民の恐怖につけ込んだ何時もの箱物行政の臭いがする。
3つ目は、軍事力競争というものは、そもそも経済力そして科学技術力に優るものが勝つに決まっている争いと言える。ある意味、産業革命・植民地獲得競争や革新技術開発競争等の場面において狡賢く立ち回り経済的に優位に立った組織程、勝ち残る世界を表している。そんな世界を拒否する考えがあっても良いのではとも思うのだが。
残念ながら品性に基づく議論は軍事力競争批判の際には、迫力が無いことは承知の上で敢えて触れておく。
4つ目は、今回防衛に関わる費用増額の議論の中に先制攻撃力を加えるという考えも混ぜられている。お互いが先軍思想に走り、盾と矛との武器開発調達合戦を互いに繰り広げる状況は、双方の疑心暗鬼のなか何かのきっかけで戻ることが不可能な最悪状況に陥る可能性が生まれる危険な議論との認識が大切と考える。
核まで普通に持ってしまっている現代の軍事情勢のもとでは、血気にはやった一時の熱気位で即断して欲しくない問題と考えたい。
5つ目は、帝政下のドイツに生まれたユダヤ人哲学者レオ・シュトラウス(シカゴ大に奉じネオコンの祖と目され、毀誉褒貶の激しい面もある学者として知られる)の論説を紹介する形になる。
彼の主張の一つは、近代社会に入った我々は“科学”と“哲学”とを分離し、しかもただ分離しただけでなく近代社会の我々は“科学”の側に軍配を挙げ“哲学”の方を追放しようとした、ということである。従って近代社会成立以降の革新的科学技術は“哲学的価値観”抜きの単なる”有用性”だけを利用して進んでいる社会といえる。この点が一つ。
もう一つの彼の主張は“思想の自由”に関することである。普通、“思想の自由”は至極当然で自明な基本的人権と思われている。しかしシュトラウスは“思想の自由”とは、大多数の市民にとっては、少数の弁論家や著述家たちが提示する幾つかの見解の中の一つを単に選択することにすぎないことだ、と主張する。
ここにおいてもしも公権力が大多数の市民に提示される見解の選択肢の幅を恣意的に規制し、狭めた場合、どのようなことが起こるだろうか?と問うている。かかる状況のもとでは、大多数の市民にとって異論は存在せず、公権力の誘導する選択肢だけが唯一の正当なものと、大多数の市民が判断するのは至極当然のこととなる。即ち、大多数の市民は自身が自由な立場から選択を行ったと思うかも知れないが、実態は誤誘導の罠に囚われているという事態が懸念されるわけである。
だがこれは第一の局面の懸念だとして、シュトラウスはそれだけでは留まらない次の懸念もあると続けている。
第二の局面の懸念は次のような状況を指す。即ち第一の局面で、大多数の市民が公権力の誘導する見解を正当なものと判断し受容したとしても、そのお仕着せの見解に従わない真に独立した思考を持つ少数の人の存在まで根絶することは出来ない状況が残るだろうとシュトラウスは想定する。
しかしその生き残った少数者の異論は、彼ら少数者の勇気や信念が如何に強靭であったとしても、また如何に人類の進歩による思想の自由の実現が期待されようとも、長く生き続けて行くことは困難だろうとしている。しかもその生き残った少数者の異論をつぶすのは公権力ではなく、公権力の誘導する見解を正当なものと判断し受容した大多数の市民が行うのだ、と論じている。
このシュトラウスの2つの局面に対する視点は、自民一党支配が長く続く日本の特異性を示唆する見解であろう。
“防衛力強化を検討する政府の有識者会議”の見解は、新聞・雑誌・TVとうのマスコミ媒体に踊る有識者や芸人らによる影響によって強化され、市民への浸透が加速されていくことだろう。これを食い止めることには、かなりの智恵を絞る必要があろうし、そうした上でも極めて困難なことと心得なければならないだろう。
一方、設立されたとされる、軍事力ではなく平和外交による安全保障を目指す「平和構想提言会議」には、一方に偏りがちな世論のバランスを取る為にも最大限の努力で取りくむことを期待したい。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
yo-chan