東京新聞2/22付けコラム「新聞を読んで」の堀切和雅さん(芸作家、エッセイスト)の文章を転載いたします。
++++++++ 直接民主制の厳しさ ++++++++++
10日朝刊「こちら特報部」。「直接民主型」を標榜する新党が参院で結成されたという。「会員」の投票で議員の国会での行動を決めるとか。議員と会員で「熟議」の場を持つという意図はよい。だが別のことを思った。
それほどの民意がこの国にあるだろうか。地域のテーマを住民投票で問い、問題が全国に広がって最終的には司法判断を得るという流れは賛成。だが憲法も変えかねない国会に、直接民主制の要素を持ち込んで大丈夫か。
14日「発言」(欄)には「市民感覚 万能ではない」との投稿。裁判員裁判に感情が入り込むおそれなど、全くそうだなあ、と思う。
17日の社説「『改革』と叫ぶだけでは」。その通り。戦争はあり得るとちらつかせながら、資本の自由を極度に高めないと世界に負けるぞ、だから改革、という党。既得権打破が先、だから改革という党。どちらも俗情の動員を期している。既成エリートとこれからエリートになろうとする者の争いに巻き込まれて騒ぐのが、われわれ普通の人間というもの。維新と革命とか国益とかとともに、改革という言葉も疑っておいた方がいいと思う。
NHK会長にあんな言動・挙措の人が選ばれて、どれだけ多くの国民ががっかりしていることか。同日朝刊「記者の眼」は戦後初めてNHK会長になった高野岩三郎氏の「大衆と手を取り合いつつ、大衆に一歩先んずる」との言葉を紹介している。
大衆と手を取り合いつつ大衆をあおる「言論めいたもの」が増えているように思う。ネットだけではない。既成メディアの中にも、気分でものを報ずる態度が生じているのではないか。
しかし、そんな状況を奇貨とする手もある。20日「こちら特報部」は「曾野氏コラムで考える労働力不足」と題してそれをやっていた。労働移民をどう考えるか。多くの人々は素朴には「みんな仲良く」と考えたいのだと思う。しかし本当に同じ社会の構成員として生きるとなると、共感のハードルは高くなる。
社会は自分たちの手でつくるもの、と考える北欧のいくつかの国は、驚くほど多くの難民を受け入れ、社会の構成員になってもらおうとしている。結果、排外主義者も出て、銃を乱射したりもする。それでも移民排斥が世論の主流にまだならないその基盤には、人間の価値に上下を設けない思想と、そういう考え方をつくる教育・学習がある。
直接民主制的な方向とは、それだけの厳しさをもっている。
戦後70年たったくらいでいろんなことを忘れてしまうこの国では、自分の考えをつくる教育も学習も、結局足りなかったようだ。
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とても辛辣かつ論理的に、右傾化する日本(安倍政権)を批判しているように感じました。道徳教育の義務教育化とか、「自分で考えちゃダメ、国家に従え」と。結局、移民を介護を含む3Kやお手伝いさんとして扱いたい。ここは大和民族の地なのだから・・・そんな思いが曾野氏の考え方に潜んでいるように感じるのは、私だけでしょうか。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
猫家五六助