老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

「ジョジョ・ラビット」ヒトラーに憧れる少年とユダヤ人少女

2020-01-31 22:28:45 | 戦争・平和
この「ジョジョ・ラビット」の映画はお勧めです。

第二次大戦末期、ヒトラー・ユーゲントに入隊したばかりの10歳の少年ジョジョは、空想の憧れのヒトラーに励まされて、訓練に励みます。当事はドイツの10歳~18歳の子供は皆、ヒトラー・ユーゲントに入ったそうです。

でも、ウサギを殺せと教官に命令されて、殺せず、ジョジョ・ラビットと綽名を付けられます。そして、ヒトラーと一緒に手榴弾を投げて失敗。顔に怪我をしてしまいます。

母親と2人暮らしの家にいる間に、ジョジョは家の隠し部屋に気づきます。そこには、亡くなった姉のクラスメイトのユダヤ人の少女エルサが、母親に匿われていたのです。

「通報したら、あんたもお母さんも死刑にされる」と脅されたジョジョ。ジョジョは、「ユダヤ人の秘密」を聞き出して、殲滅に役立てようと考えます。「ユダヤ人は怪物?」「角が生えている?」「お金が好き?」聡明なエルサが、それに何と答えていくか。

日本でも、戦時は「鬼畜米英」とか「チャンコロ」「(蹄になっている)チョン」とか、酷いことを、子どもだけでなく大人も言っていたそうです。戦争は人間を野卑にするものですね。

最初のヒトラーに熱狂する群衆にドキッとさせられます。少々ブラックなユーモアのある前半、そして後半、どんどんシリアスに。こんな幼い子供にも厳しい現実が降りかかってきます。

ところで空想のヒトラーを演じているのは、監督でもあるワイティティさん。父方がニュージーランドのマオリ人、母方がロシア系ユダヤ人なのだそうです。

戦争の愚かしさがユーモアに包まれて現され、人と触れ合うことで偏見は乗り越えられていく。とても面白く、お勧めの映画です。

「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
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中村氏の死

2019-12-12 16:50:28 | 戦争・平和
中村哲氏の遺体が日本に帰ってきた。

アフガニスタンでは、中村氏に最大限の敬意を払い、ガニー大統領自ら棺を担ぎ、中村氏の死を惜しんだ。心のこもった実質的な国葬と言って良い。

それに対して、遺体を迎えた日本は、どうだったか。空港には鈴木馨祐外務副大臣らが出迎えた。大臣ではなく、副大臣。これが現政権の中村氏に対する評価だ。

アフガン戦争以降、日本もアフガニスタンに多くの援助を行っている。NATO諸国も軍隊を派遣している。多くの国がアフガニスタンに関わってきた。しかし、アフガニスタンの人々の心に深い感謝と尊敬の念を勝ち得た中村氏の活動を上回るものは少ない。

中村氏の【無私】の活動は、アフガニスタンの人々の心に深く刻み込まれた。中村氏と中村氏が代表する日本人(決して日本政府ではない)に対する感謝と畏敬の念は、長く消える事はないだろう。言葉の本当の意味での「国際貢献」をしてきたのが、政府ではなく、中村氏と「ペシャワール会」の活動だと言って過言ではない。

日本政府は、このような稀有な活動を成し遂げた人の遺体を迎えるために、政府専用機を何故出さなかったのか。政府専用機使用は、何の役にも立たない政府関係のお偉いさんだけの特権ではないはず。中村氏のような人に政府専用機を出し最大限の敬意を払っても国民の誰も怒らない。

何故、中村氏の遺体を迎えるのに、せめて、外務大臣クラスを派遣しなかったのか。中村氏がアフガニスタンで勝ち得た尊敬と名誉は、結果として日本や日本人の誇りになる。彼ほど日本と日本人の名誉と尊厳に寄与した人は少ない。

中村氏を国葬にするには、前例主義のお役所では難しいだろうが、政府が最大限の敬意を払って、実質的な【国葬】にする事は可能だったと思う。中村氏の遺族が断った可能性はあるが、それでもその位の敬意を払うべきだと思う。

中村氏の葬儀で、中村氏の長男健氏は、自分の父の死を語る前に、「父を守って亡くなったアフガンの人とその家族に深い哀悼の念を払う」と挨拶をしていた。さすが、中村氏の長男。こういう細やかな目配りのできる人間に育っている。

中村氏は、アフガンに立つ前は必ず長男と話をして、「母や家族を頼む」と言っていたそうだ。中村氏は、常に最悪の事態を想定して、長男に遺言のつもりで言葉を残していたのだろう。彼の覚悟のほどが窺える話だ。同時に中村家の家族としての絆を強く感じさせる。

そこには「親の生き方」を深く理解し、「生きていて欲しい」と強く願う家族の想いを押し殺しながら、「親の人生」を応援する家族の姿があった。

安倍政権は、【無私】の精神や理想や善意で命を懸けて行動する人間など信じられない。それこそ、前世紀の遺物だ、程度の認識なのだろう。こういう人の生き方に感銘を受ける感受性が完全に欠落しているのだろう。

「故人を偲ぶ」と言う言葉はよく使われる。漢字をよく読めない安倍晋三首相にレクチャーしておくと、「偲ぶ」という漢字は、人を思うと書く。亡くなった人の事を思うとは、亡くなった人の心を想像する事だ。その想像力の枯渇した人間には、亡くなった人の本当の真実など見えるはずがない。

もう一つ漢字のレクチャーをしておこう。「優しさ」とは人を憂うと書く。他人の事を本気で心配する感性の事を「優しい」と言う。

道徳とは知識ではない。道徳とは、このように、本当の意味での想像力豊かな子供を育て、私ではなく他の為に懸命に尽くす生き方に胸が震えるような感動を覚える柔らかい感性を育てる事だ。私流の言葉で言うならば、【感得】するものだ。

このような感性は、【金だけ、今だけ、自分だけが大切】という新自由主義的生き方の対極にある。

中村氏の死は、図らずも現代の日本が遠い昔の話として忘れ去った【人間らしい生き方】を蘇らせてくれた。遠くなりつつある【昭和の生き方】を思い出させてくれた。

そんな彼には、もっともっと生きていて欲しかった。無念でならない。 合掌!

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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中村哲さん追悼番組「武器でなく命の水を」(NHK・Eテレ)

2019-12-09 14:37:09 | 戦争・平和
12月4日に亡くなった中村哲さんを悼んで、12月7日に急きょ再放送が決まったNHKドキュメンタリー「武器でなく命の水を」を見ました。

『今月4日、戦乱が続くアフガニスタンで干ばつと戦ってきた医師・中村哲さんが銃撃され亡くなった。「戦乱は武器や戦車では解決しない。農業復活こそがアフガン復興の礎だ」と白衣を脱ぎ、用水路建設に乗り出した中村医師。長年の努力の末、用水路は完成、大地に緑がよみがえり、人々の平穏な営みが再び始まろうとしている矢先だった。中村さんをしのび、その15年にわたる不屈の歩みを記録した2016年の番組を再放送する。』(NHK番組表より)

番組は、アフガニスタンで活動を続ける中村さんに長期間寄り添い、中村さんが現地住民と共に用水路を建設し、苦闘の末、川から用水路に水を引き込むことに成功させ、干ばつの地を緑豊かな地へと生まれ変わらせる様子を、丁寧に描き出しています。

苦労に苦労を重ねた末に用水路に水が満たされていく様子に、達成感と安堵の笑顔を見せる現地の人たち、、、。

干ばつの大地が潤って緑が戻り、飢えの問題に解決の糸口が見えると、次に中村さんはモスク建設を提案し、ペシャワール会の援助と現地の人たちの頑張りで立派なモスクが完成すると、アフガンの人たちは「心が解放された」と、誇りを取り戻した喜びに、中村さんへの率直な感謝の気持ちを表します。

明晰な頭脳と大らかな構想力、命と心の救済への確信、他者への敬意。率直で誠実な中村さんの人柄は、アフガンの人々に強い共感と信頼を生み、中村さんの周囲にはいつも明るい笑いがありました。

画面には、過酷な環境下にありながら、人々にどこまでも寄り添おうとする中村さんの姿と、中村さんの献身の結実を思わせる緑あふれるアフガンの土地、人々の笑顔がそこここに在り、私たちをホッとさせてくれます。

その一方で、アメリカが主導する武力・戦力で世界を動かそうとする政治の愚も、控えめながら対比的に映し出されていて、中村さんの今回の死が、昨今の政治の喧騒の中で右往左往して、大切なことを忘れかけている私たちに、「あなたは、どちらを選びますか?」と改めて問いかけていることを感じさせます。

中村哲さん、長い間お疲れ様でした。中村さんの献身に心から感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。

☆このドキュメンタリーは、12月12日午前0時(11日深夜24時)に再び再放送があります。まだ見ていない方は、是非ご覧ください。

https://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2019-12-11&ch=31&eid
=23286&f=20


「護憲+BBS」「 明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
笹井明子
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日本軍敗戦の歴史に学ぶ 無責任の構図(組織の腐敗)(2)

2019-09-01 13:04:54 | 戦争・平和
「インパール作戦」

このような地獄の戦場を這いずり回った日本軍の中でも「インパール作戦」の悲惨さは他に類をみないものだった。

2017年9月NHKBSで放映された【無謀と言われたインパール作戦 戦慄の記録】は、新しく発見された英国側の資料も含めてかなり正確にインパール作戦の全貌を伝えている。

以下、この映像に基づいて書いてみる。

◎【インパール作戦】とは
ビルマ(現在のミャンマー)で行われた作戦。1944年3月に決行された。

(概要)
チンドウイン川(川幅600m)を渡河。2000m級の山を越え、ビルマから国境を越え、インドにある英軍の拠点「インパール」を3週間で攻略する作戦。

(結果)
日本軍は誰一人「インパール」にだどり着けず、3万人が戦死した。大失敗の作戦。

(作戦計画の歴史的経緯)
1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに侵攻。全土制圧。イギリス軍はインドに撤退。
大本営はインド侵攻を計画したが、戦線が拡大しすぎと見て、保留。
1943年、太平洋で日本軍は連敗⇒戦況悪化が顕著
同時期、体制を立て直したイギリス軍がビルマ奪還を目指し反撃。
戦況悪化の打開とイギリス軍への反撃のため、ビルマ侵攻作戦が再び浮上。
1943年 大本営 ビルマ方面軍を新設 司令官川辺正三。

※川辺正三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E6%AD%A3%E4%B8%89
彼は着任前、東条英機首相から事態の打開を指示されて着任。

同じ時期、牟田口廉也中将がビルマ方面軍隷下の第15軍司令官へ昇進。インパールへの進攻を強硬に主張した。
※牟田口廉也
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%BB%89%E4%B9%9F

当時、大本営では、牟田口の主張するインパール進攻作戦には、懐疑的な参謀が多かった。しかし、この無謀ともいえる「インパール」進攻作戦は裁可された。

その理由が振るっている。当時の大本営杉山参謀総長は以下のように語ったとされている。「杉山参謀総長が『寺内(総司令官)さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ』と切に私に翻意を促された。結局、杉山総長の人情論に負けたのだ。」(眞田穰一郎少将手記)

こうして、1944年1月7日 「インパール作戦」は発令。

★インパール作戦の詳細

◎戦略目的
1944年当時、ビルマの制空権は連合国が握る。制空権を握った連合国軍は、中国との連絡網の奪還に動く。少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功。

この情勢を放置しては、ビルマを征服した意味が無くなる。そこで、イギリスの最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの意図を挫折させるのが目的。

※多くの人が間違えるのだが、日本陸軍の最大の敵は中国。南太平洋での米軍との戦いは、海軍・空軍主体。陸軍の作戦目的の主体は、中国戦線をどう有利に導くか、を主眼としている。
 
◎作戦計画
(A) 作戦の時間的計画⇒雨期の襲来を避けるため⇒3週間の短期決戦
(B) 人員⇒3つの師団と9万人の将兵
(C) 南⇒第33師団  ⇒インパールへ
   中央⇒第15師団 ⇒インパールへ
   北 ⇒ 第15師団 ⇒北部の都市 コヒマ攻略
(D)チンドウイン川(600m)と2000m級の山(アラカン山系)を越え、最大400kmを踏破する大作戦

(E)兵站計画
・食料 ⇒作戦計画では、インパール攻略までの期間は、3週間。⇒そのため、3週間分の食料しか持たされなかった。
・補給 ⇒標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。車が走れる道はほとんどない。トラックや大砲は解体して持ち運ぶ。崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。兵士たちは、戦いを前に消耗していった。

こういう戦場でどうやって補給路を確保するか。答えは一つ。【空路】以外にない。ところがインパール作戦では、空軍の支援はなかった。と言う事は陸路以外に補給路はない。これが容易にできないことくらい小学生でも想像がつく。

イギリス軍は、空路での補給路を確保しており、弾薬・物資・食料の確保に問題なく、日本軍との差は歴然としていた。インパール作戦大失敗の最大の理由が、兵站(食料と補給路の確保)ができなかった点に求められる。

食糧確保と物資郵送の両方を解決できると牟田口司令官が考案したという作戦が、【ジンギスカン作戦】。

※ジンギスカン作戦 ウィキペディア

・・・・この作戦中、牟田口が要望した自動車等の補給力増強がままならないため、牟田口は現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を発案した。しかしもともとビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなく、また日本の牛とも扱い方が異なったため]、牛はつぎつぎと放棄され、「ジンギスカン作戦」は失敗した・・・・

◎戦いの経緯
(A) 作戦開始から2週間目
 (イギリス軍との最初の衝突)=インパールから110kmの一帯。第33師団(南からインパールを目指す)の戦闘。
 (結果)
イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1,000人以上の死傷者を出す大敗北。

第33師団 柳田元三師団長は牟田口司令官に「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として【作戦変更】を強く進言。

他師団からも作戦変更の進言が相次ぐ。

🔷当時、牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉の手で、牟田口司令官と参謀との会話が記録されている。
「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」(齋藤博圀少尉の回想録)

戦後、イギリス軍によるインパール作戦関係者17人の聞き取り

🔷コヒマの戦い(第31師団、佐藤師団長の証言)
第31師団、1万7千人が、イギリス軍と激突。
※佐藤師団長の証言
・・「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマの周辺の食糧情勢は絶望的になった。」(佐藤幸徳師団長 調書より)・・・

コヒマの戦闘⇒2ケ月続く。日本軍兵士の戦死者⇒約3,000人。

この戦いは日本本土で華々しく報道される。

大本営は、この作戦の継続に執着していた。

インパール作戦の現地視察をした秦中将の報告を東条英機首相は聞き入れなかった。

・・・・「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた。」(元東条英機秘書官 西浦大佐の証言)・・・

※翌日の東条英機の天皇への上奏文
・・・「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」・・・・

1944年5月(作戦開始から2ケ月)
牟田口司令官⇒苦戦の原因は、現場の指揮官=(師団長)の無能さにあるとして更迭。
作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態に陥った。

牟田口司令官は、第33師団を直接指揮。

(作戦方針)
全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画。

この作戦はイギリス軍の思惑通りの結果になった。(全て読まれていた)

・・・「われわれは、日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。敵は雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた。」(ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言)・・

🔷レッドヒルの攻防(日本軍兵士のあまりに多くの血が流されたのでそう呼ばれている)

第33師団は、インパールまで15キロの小高い丘にあるイギリス軍の陣地を攻めた。作戦開始から2ケ月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が戦死した。

🔷白骨街道 (インパール作戦失敗後の撤退路をそう呼ぶ)

1944年6月 インド・ビルマ国境は雨期に入る。当時の降水量は、1ケ月の降水量は、1,000mmを超えていた。悪いことに、30年に一度の大雨だった、と言われている。作戦開始から3ケ月。死者数は、1万人近い。

6月5日 河辺ビルマ方面軍司令官が牟田口司令官を訪問。⇒お互いに作戦中止を考えながら、切り出せず、作戦中止命令を出せなかった。

戦死者は増加の一途

大本営が作戦中止を命令したのは、7月1日。

☆ここから「インパール作戦」の本当の悲劇が始まる。

🔷戦死者の6割が作戦中止後に集中している。

〇第33師団
レッドヒル一帯の戦闘で敗北⇒猛烈な雨の中、撤退を始める。⇒チンドウィン河を超える400kmの撤退路。⇒兵士は飢餓と疲れと病気や怪我で次々倒れ、死体が積み重なっていった。暑さと雨で腐敗が進行。ウジとハエが群がる死体。あっという間に死体は、【白骨】になった。兵士たちは自らの運命を呪って、【白骨街道】と呼んだ。

第31師団⇒コヒマ攻略に失敗。⇒後方の村に補給基地があると信じて撤退。⇒しかし、補給は全くなかった。
※分隊長だった佐藤哲雄さん(97)の証言。
・・・「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。」(佐藤さん)・・・

🔷作戦中止後、牟田口司令官は解任され、本国に召還される。残された部下たちは、悲惨な退却戦を戦う。(古来より、戦での死者は退却戦が一番多い)

牟田口司令官に仕え、「味方5千人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた齋藤博圀少尉は、前線でマラリアにかかり置き去りにされた。(当時の日本軍は、負傷者・病人は、置き去りにして、自殺用の毒物と武器を渡される)

雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えた。死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。

・・・「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具・ふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう。」(齋藤博圀少尉の日誌)・・・

死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。いったい何人がこの河を渡ることができたのか、国の公式の戦史にもその記録はない。

※インパール作戦の責任の所在はどこにあるのか。(日本軍の無責任の構図)

日本軍の将校は馬鹿ばかりではない。【インパール作戦】決行前、補給担当の将校たちは必死で知恵を絞った。どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?そして得られた結論は、「不可能」。しかし、この結論は無視された。

太平洋戦争前、「総力戦研究所」が出した結論。「米国と戦えば、必ず敗北する」。これを東条内閣は無視した。「インパール作戦」でも同様なことが行われた。

今も昔も、日本の権力者連中は、自分の意に沿わない研究結果を無視する傾向が強い。自分に都合の良い研究結果を出してくれる【御用学者】【御用官僚】【御用評論家】が重宝されるのは、現在も戦前と違わない。

安倍政権下の種々の統計の改竄、隠蔽は言うに及ばず、最近は責任追及されることを恐れて、資料を作らない、資料を捨てることまで行われている。この行為自体が、歴史に対する冒涜である。歴史修正主義者のやることは、今も昔も変わらない。

結果、1944年3月、10万の将兵が、ビルマ-インド国境に殺到した。そして、戦う事約4ケ月。参加将兵数約10万人。戦死者約3万。戦傷、戦病で後送されたもの約2万人。残存兵力約5万のうち半数以上が罹患(マラリヤなど)という惨憺たる結果に終わった。

(1) 作戦の問題
 
これは太平洋戦争の評価に関わるのだが、太平洋戦争を戦った主力は、海軍と空軍。陸軍の戦の主体は、【中国戦線】にあった。従って、インパール作戦の主目的は、中国戦線への援助にあった。制空権を奪われたミャンマー地域には、中国軍から送り込まれた少数民族のゲリラ部隊が活躍。連合国との連携を図っていた。

軍事的に見れば、中国軍と連合軍の連携を絶つ、という作戦目標自体は間違いではなかった。ただ、制空権を奪われた状況下で、作戦遂行が可能なのか、という検証が不十分だった。

◎最大の問題は、【兵站】を軽視した作戦を強行した点にある。⇒陸軍の【精神主義】重視の伝統の問題

【兵站】を無視した作戦遂行は、近代戦の常識を外れている。例えば、米軍は補給線を確保した後でないと、決して攻撃はしなかった。多少の時間はかかるが、兵の戦闘意欲の確保と無駄な兵力の損傷を避ける意味からも、最も合理的な戦略である。

一方、日本軍は兵站の問題を無視する傾向があった。問題は、陸軍上層部や指揮官たちの人間をどう考えるかという「哲学・理念・人間観」に収斂する。陸軍の伝統的思考に、「白兵戦」で相手を圧倒するには、気迫で相手を上回らなければならないという「精神主義」があった。

「心頭滅却すれば 火もまた涼し」。この種の精神主義は、陸軍内の暴力、いじめ体質に容易に移行する。殴ったりけったりされながら、「我慢」の精神を涵養し、それが「203」高地のような戦場で、一死を省みず突撃する勇猛果敢な兵の育成に役立つ、と信じられた。

戦後、この【精神主義】は、学生スポーツの世界に色濃く残された。昨年問題になった日大のアメフト部のような大学スポーツの閉鎖的・暴力的体質。これと同様な体質が、高校や中学などの部活動にも、未だに残っている。

これが伝統になり、陸軍に受け継がれていく。

🔷203高地攻略戦 乃木希典とは

この伝統は、日露戦争時、「旅順」攻略の要として、旅順要塞の背後にある「203高地」を陥落させたところから生まれている。「203」高地攻略は、陸軍が犠牲を省みない「白兵戦」を敢行した歴史が大きく影響している。

「203」高地の争奪戦では、戦死者5,000人、負傷者10,000人以上と言われている。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E3%80%87%E4%B8%89%E9%AB%98%E5%9C%B0-110042

第三軍を率いた乃木希典の指揮で、猛烈な白兵戦を展開、乃木希典の次男保典も戦死。ようやく、「203」高地を落とした。

ある所で、乃木希典の軍服をみる機会があったが、あまりに小さくて驚いた。彼が、意外なほど小柄だったことが良く分かる。もし、彼が突撃し、白兵戦になったら、とてもじゃないけれど、ロシア兵に勝てないだろうと思えるほどだった。

乃木が名将か愚将かは評価が分かれるが、彼が生涯この戦争で戦死させた兵たちの【死】という重荷を背負い続けたのは事実だろう。彼が明治天皇崩御の一報を聞いた後、自決したのも何となく理解できる。「明治天皇」に殉死したことになっているが、わたしには、彼の心に滓のように残っている「203高地」の死者の姿が、彼を死に導いたのだと考えている。

203高地を攻略し、次男の死を聞いた日の乃木希典の日記。
・・・・ 
爾霊山(にれいさん)は険なれども豈(あに)攀(よ)じ難からんや
男子の功名克艱(こっかん)を期す
鉄血山を覆いて山形改まる
万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山
・・・・・

「万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山」とは、多くの人命が失われた爾霊山(203高地)を全ての人が拝み仰ぎ見るだろう、と言う意。正直、乃木の胸は悲しみにうち震えていたのだろうと思える。

乃木希典は文人肌の人だと思う。文人肌の人間が、多数の兵を死地に追いやる。おそらくこの後悔は、終生消えなかったと思う。ここがインパール作戦を決行した牟田口廉也との決定的な違いである。

「203」高地の突撃の評価はさておき、これ以降、日本陸軍に「白兵戦」信仰が根付いた。つまり、日本陸軍に【精神主義】信仰が、根付いたのである。

🔷牟田口司令官、河辺司令官、東証英機の関係とは

「インパール作戦」を強行した牟田口司令官、その上司にあたるビルマ方面軍河辺司令官、大本営最高責任者東条英機首相の関係は、支那事変の契機になった昭和12年の盧溝橋事件の時にもあった。

「盧溝橋の一発」が日中戦争を引き起こした、と言われているように、これが日本を終わりの視えない戦争に引きずり込んだ。今でも、この一発は、日本軍が撃ったのか、中国軍が撃ったのかは判然としないが、この事変が以降の日本の運命を決めたことは間違いない。

当時、牟田口は支那駐屯歩兵第一連隊の連隊長。所在不明の銃撃に反撃するよう命令している。通常、連隊長クラスでは、中国軍と戦争になる危険性が大きいこのような行為を上官の許可なく行うような事はあり得ない。事実、盧溝橋事件の結果、いわゆる支那事変(15年戦争=日中戦争)に突入した。

牟田口本人の意図に関わらず、その責任は重大である。その後、日本を泥沼の戦争に引きずり込んだ責任の一端は彼にある。

牟田口はいわゆる「イケイケどんどん」の典型的タイプ。世界情勢の認識、彼我の戦力の分析とか兵站とかそういう合理的(科学的)思考が全く欠落している。そうではなくて、精神力を重視する。典型的な「心頭滅却すれば 火もまた涼し」を信じているタイプ。

それに比べ河辺旅団長は、牟田口の勇猛果敢な心情をどことなく評価し、「任せてみるか」と言うタイプ。何となく優柔不断なところがある。

だから、牟田口の攻撃命令を河辺旅団長が追認。その時の関東軍参謀が東条英機。彼も牟田口の暴走を叱責することなく、事後承認している。「インパール作戦」と全く同じ構図だった。

(2) 中止の決断ができない官僚組織

インパール作戦で悲劇が拡大したのは、中止を決断できない、ビルマ方面軍川辺司令官の優柔不断や大本営や参謀本部の責任逃れ体質がある。

戦争前の大本営や陸軍参謀本部は、陸士・陸大などのエリートコースの将校たちで占められていた。2・26事件までは、「統制派」「皇道派」などの派閥争いが盛んだったが、事件以降はいわゆる「統制派」連中が実権を握った。

当然ながら、お互い同窓で、しかも軍隊以外の社会をあまり知らない連中の集まり。しかも、それこそ上意下達の典型的な縦社会。いわゆる組織の「空気」を読むことが、組織で生き抜く要諦。こういう組織は、どうしても硬直化して柔軟な思考ができにくい。

インパール作戦の決行も、牟田口と河辺の人間関係に拠るところが多い。同時に、東条英機には、南太平洋での相次ぐ敗戦などで政治的に追い詰められていた。そのため、どうしても、何か「華々しい戦果」が欲しかった。だから、現地を訪問した秦中将の報告(戦果は挙げられない可能性が高い)も考慮に入れなかった。

(3) 徴兵制の罠―差別思想の助長―

「志願兵制度」なら、軍上層部は、兵の利益を考えなければ、兵が集まらない。上官に殴られ蹴られ、日常的な暴力にさらされる組織に、志願する連中はいない。戦争に行ったら、食事は現地調達、装備は滅茶苦茶。靴などは足を靴に合わせろ、という組織に誰が志願するのか。戦争に行ったら、捕虜になるな。捕虜になるくらいなら死んでしまえ、という組織に誰が志願するのか。

少し考える力のある人間なら、この程度の事は誰でも理解できる。ところが、日本軍(特に陸軍)では、そんな常識は通用しない。いくらでも、兵は集められる。赤紙一枚(一銭五厘の葉書)あれば良い。

※戦後、暮らしの手帖社の花森安治は、「一銭五厘の旗」という長編詩を書いた。軍指導部の意識と徴兵で招集された兵たちとの意識の「絶望的な乖離」が良く分かる。
https://kogotokoub.exblog.jp/24682149/

陸軍上層部(海軍も含め軍上層部)連中は、【兵は消耗品】という意識が拭いきれなかった。だから、理不尽な要求の限りを尽くした。

インパール作戦が象徴的だが、大河を渡り、補給もままならない、峻険な2000m級の山々を歩き、雨期に入ると世界でも有数の雨が降り、マラリアなどの疫病が蔓延するジャングル地帯をわずか【三週間分の食料】で進軍させるのだから、「死ね」というのと同じ。兵を消耗品だと考えている。それもこれも、兵隊を赤紙一枚で招集できる【徴兵制】の持つ「罠」だと言わざるを得ない。

「齋藤博圀少尉の回想録」で書かれている牟田口司令官と参謀の会話
・・「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5,000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。」・・・・

これこそが、軍上層部の徴兵された兵士に対する認識である。戦場経験の長い兵ほど「俺たちは消耗品」という認識を強く持った。だからこそ、若い将校が生意気に振る舞うと、戦場ではその将校に後ろから弾が飛んだ。

ところが、牟田口クラスになると、将校も消耗品。「5,000人殺せば・・・」の中に将校も入っている。【差別思想】と言えば、典型的な「差別思想」だが、これは、軍隊と言う組織に付きまとう【病理】と言ってもよい。

どんなに民主的な軍隊でも、戦況によっては、多くの兵を犠牲にしなければならない。戦場の指揮官は、多くの「犠牲」を払ってでも、勝利するために決断しなければならない瞬間がある。考え方によって、それは「差別」そのものと言って良い。

乃木希典の時にも書いたが、たとえ勝利をしても、多くの兵を犠牲にした指揮官は、兵の犠牲が滓のように心の中に沈殿する。逆に言えば、そういう心根の持ち主だけが、指揮官の名に値する。

兵の犠牲を自らの心の奥底で「罪」として意識できない指揮官は、それだけで失格だと思う。兵の生殺与奪の権を握る指揮官だからこそ、心の底から人の命を大切にする【ヒューマニスト】で【人格者】であるべきだと思う。

日本陸軍(日本軍と言ってもよい)は、徴兵制であまりにも簡単に兵員を集めることができるがゆえに、【一人の人間の命は地球より重い】というヒューマニズム精神が完全に欠落していた。人の生殺与奪の権を握る将校や指揮官を育成する時に、徹底的な【人間教育】と【ヒューマニズム精神】を涵養しなかった事が、太平洋戦争時、多くの悲劇を生んだと思う。

人の命を何よりも大切にする指揮官だからこそ、全ての人間関係、上下関係などを考慮せず、勝利のために必要な最も合理的な作戦を実行できる。命を何よりも大切にするからこそ、慎重すぎるほど慎重に考え、行動する。命を何よりも大切にするからこそ、自らの作戦、行動に責任を持つ。決して、人のせいにしない。

組織は人である。自立した【近代的個人】の育成という発想も理念もない日本陸軍は、近代戦を戦う軍としての【近代化】に失敗したと思う。

戦場(特に中国大陸)で日本兵の数々の非人間的行為が行われた(多くの記録が残っている)のも、その全てを兵の責任に帰する事はできない。

① まず、兵站線が伸び切り、食料を現地調達せざるを得ない状況を作り出せば、現地の人との軋轢が生じるのは当然。※「人は食べ物と水がなければ生きられない」という単純な真実を【精神論】で乗り切れなどと命令するのは、誰がどう見ても戦争指導者や指揮官の間違い。【水と食料】がなければ、それを得るためには、人間は獣になる。人の生存本能を馬鹿にしてはいけない。

② 家庭内暴力(DV)のありようを見れば一目瞭然だが、家庭内で暴力を受けて育った子供の多くは、悲しいかな、その後自分自身も暴力を振るう場合が多い。軍隊内で理不尽な暴力を受けた兵士は、敵に対して理不尽な暴力を振るだけでなく、民間人に対しても理不尽な暴力を振るう傾向が強く出る。⇒暴力的に食料を奪う。歯向かうものを射殺する。強姦するなど。

③ ベトナム戦の時、米軍は、誰がゲリラか分からず、恐怖心に駆られて、多くの民間人を殺した。イラク戦争時、ファルージャなどでの米軍の蛮行は耳目に新しい。この最大の要因は、誰が敵か分からない「恐怖」にある。同様に、日本軍も中国戦線で数々の蛮行を行っている。当然だが、誰が敵か分からない恐怖に苛まれた結果としか言いようがない。

わたしの父は中国戦線に出征していたが、あまり戦争体験は語らなかった。しかし、ある時こんな話をしてくれた。

「中国戦線では日本兵は強かった。昼間敵と遭遇すると、すぐ敵は逃げるので、あまり戦闘はなかった。しかし、夜、その辺りの田舎町で野営をして、朝起きると、墨で黒々と「東洋鬼」と書いてある事がしばしばあった」と述懐していた。

親父から言わせると、非常に怖かったという。それはそうだろう。夜になるとゲリラが自由自在に出入りしているのである。いつ、襲われるか分からない恐怖に苛まれたのだと思う。この恐怖が、日本兵の蛮行の心理的要因であったことは間違いない。

※(注)「東洋鬼」とは、トンヤンキと読み、日本兵を指す。つまり、中国民衆から見れば、日本兵は鬼に見えたと言う事である。

戦後、A級戦犯の話はよく聞くが、B・C級戦犯の話はあまり聞かない。B・C級戦犯の大半は、下士官・兵・少数の民間人なのであまり語られないが、かれらこそ、戦争の被害者なのだと思う。自らの意志ではなく、徴兵によって招集され、上官の命令で犯罪的行為を行い、「戦争犯罪者」として裁かれる。彼ら一人一人は、故郷に帰れば、良き夫、良き青年として、平凡な人生を送れたはずなのに、戦犯として裁かれ、死刑判決を受けたものも多数いる。

わたしは、A級戦犯連中に対する同情心は全くないが、B・C級戦犯の人たちには、同情を禁じえない。彼らが裁かれた戦争犯罪は、日本軍の体質と構造から導き出されたもので、全てを彼ら個人の責任にするのは酷だと思う。

・・・・
【A級戦犯】
戦争指導者を対象としたA級戦犯は国際軍事裁判、BC級戦犯は中国をはじめ米英蘭仏豪フィリピンなどの関係7カ国がそれぞれの国の法規をもとに軍事裁判をおこないました。

【B・C級戦犯】
B級戦犯は日本も結んでいたハーグ陸戦法規などで規定する捕虜虐待など、C級戦犯は一般の国民に対する非人道的行為、となっていますが、B級は残虐行為の命令者、C級は実行者とする場合もあり、BC級と一括する言い方が一般的です。
 
BC級戦犯裁判は戦場となったアジア各地を中心に国内外49カ所でおこなわれ、被告は5千7百人、死刑判決は984人、死刑執行は920人とも934人ともいわれています(他は減刑や執行前死亡)。被告は、少尉以上が約30%、下士官が約51%、兵が約8%で、他は軍人以外です。被告には、日本の植民地支配化にあった朝鮮や台湾出身者を含む軍人軍属とともに、たとえば秋田の花岡鉱山で中国人が蜂起した際に虐殺した現場関係者や警官、九州大学で米兵を生体解剖した医師なども含まれています。・・・2006年 新聞赤旗 
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-08-31/20060831faq12_01_0.html

※A級戦犯 https://origamijapan.net/origami/2018/02/27/tokyo-trial/
※B・C級戦犯 https://home.hiroshima-u.ac.jp/utiyama/ISIS-12.4.W.html

戦後BC級戦犯の話が一番語られたのは、1958年にTBS系で放映されたフランキー堺主演の【わたしは貝になりたい】というドラマが話題を呼んだ時。わたしもその時初めてBC級戦犯の話を知った。戦争に翻弄された名もなき庶民の苦しみが伝わる名作だったと記憶している。

※わたしは貝になりたい・・・ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/私は貝になりたい

(4) インパール作戦の責任者のその後

戸部良一氏(帝京大学教授)は、『「悲劇のインパール作戦」を生んだ牟田口・河辺・東条』
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3416702015082018000000
で、東条英機について、以下のように述べている。

・・・「東条首相は優秀な軍事的テクノクラートでした。インパール作戦についても作戦開始前に(1)英軍がビルマ南部に逆襲上陸した場合の備えがあるか、(2)兵力の増加は不要か(3)劣勢の航空兵力で地上作戦に支障はないか、(4)補給は作戦に追いつけるか、(5)作戦構想は堅実か――と的確な質問をしていました。作戦開始後も(1)インド・中国ルートの遮断、(2)ビルマ南西岸沿いにタイを攻撃する作戦線を英軍に与えないことが任務だと指摘していました」(「昭和史講義 軍人篇」(ちくま新書))

 「問題は現地の苦境を知った時です。現地を視察した参謀次長が遠回しに作戦中止を示唆したときには『弱気』を叱責しました。インパール作戦の初期の成功は日本国内でも華々しく伝えられていました。ほかの戦場では、どんどん戦況が悪化していました。東条は、戦争指導の継続と政権維持を、インパール作戦の成功にかけつつありました」

 「東条は参謀次長を叱責したあと別室で『困ったことになった』と頭を抱えていたそうです。しかし中止命令は出さず、現地からの要請を待っていました。東条に責任感が欠如していたというより、積極的にイニシアティブをとる明確な戦略ビジョンを持っていなかったためでしょう」・・・

あるエピソードを書く。第31師団の佐藤師団長の話である。

解任された後、師団長は、日本刀をひっさげ、牟田口司令部に乗り込んだそうだ。「牟田口司令官」を「叩っ斬る」と物凄い剣幕だった。

牟田口が逃げ回って事なきを得たが、その時、佐藤師団長は軍法会議で死刑になる事を覚悟していた。軍法会議の席上で「牟田口司令官」や「河辺司令官」の犯罪を弾劾する準備をしていた。結局、裁判は行われず、佐藤中将は退役になった。大本営が問題を隠すために、彼を「精神病」にしたのである。

結局、東条英機や杉山参謀長などを除き、インパール作戦の関係者は、戦犯にもなっていない。よく考えたら、たしかに、彼らは敵の捕虜とか敵兵に対する人道上の罪は犯していない。

インパール作戦で戦死したり、病死したり、自決を迫られた兵士たちは、結局犬死だった。

陸軍の意思決定のメカニズムは良く分からない。たしかに、インパール作戦の司令官は牟田口廉也中将だったが、作戦決行を承認した大本営の書類には、多くの将校の印が押してある。つまり、牟田口廉也に全ての責任を負わすわけにはいかない形になっている。

日本人の「空気」を読む研究で有名な評論家山本七平は、フィリピンの戦争最前線で分隊長だった。(部下10人程度)彼は、非常に興味ある証言をしている。

・・・・・
≪帝国陸軍では、本当の意志決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。その決定が「命令」との形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果たして本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、解らないからである。

そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。・・・・・(中略)

一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上官が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。

戦後、帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」のでなく「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。このことは日本軍の「命令」なるものの実体がよく示している。多くの命令は抽象的な数カ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである≫(『一下級将校の見た帝国陸軍』P319)・・・・・・

この形は、現在も日本の官僚システムの通例である。わたしのような教育制度の末端に位置していた現場教師でも、文部省の教育制度や教育内容の改変のたびに、文部省の文書はきわめて簡略で抽象的であることに驚かされた。具体的内容は、各県の教育委員会から下される形になっている。文部省はどの方向からつつかれても、言い抜け出来る文章を出していた。

山本が書いているように、内部の人間は上位者の意図が奈辺にあるのかを嗅ぎ分ける能力が求められる、というわけだ。

それから、山本が指摘している・・・「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界」・・は、荒れた学校時代では、日常だった。

おとなしく、強引な荒事が苦手な校長連中は、体育会系の荒っぽい教師(生徒指導担当)に依存する場合が多かった。そうなると、生徒指導担当の教師の発想で学校体制それ自体が動かされる場合が多くなった。

一般の教師は、山本の言う誰が実力者か嗅ぎ分ける能力が重要になる。それで問題が起きた場合は、校長が釈明をせざるを得ない。しかし、校長は、ほとんど事情を知らずに釈明する事になり、問題をさらに大きくする場合もあった。

これと同様に、軍内部でも、戦争のような非日常の世界(荒事)に向いている司令官とそうでない司令官では、部下に対する姿勢が全く異なっていたはずである。河辺司令官と牟田口司令官の関係がそれを物語っている。

軍隊の序列と責任の序列が判然としない官僚的組織の弊害が日本軍の弱点だったと言える。

最後に牟田口中将について述べておく。

彼の「精神主義」が如何に荒唐無稽であったか。彼の演説が克明に物語っている。兵隊たちに語って曰く。「周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物。これだけ碧山を周囲に抱えながら、食料に困るなどということは、ありえない事だ。」と大真面目に訓示したそうだ。

野草がいくらでもあるのだからそれを食べれば飢えるはずはない、という論理。指揮官がこれでは兵はたまったものではない。

もう一つ紹介しておく。インパール作戦失敗後の7月10日の訓示。「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口でかみつけ。日本男子には大和魂があることを忘れちゃならん。・・・・」

こんな訓示を延々と続けた。戦闘と敗走のため、疲れ果てた将兵たちは次々とぶっ倒れた。

まあ、「精神主義」もここまでくると、「宗教」以外の何物でもない。事実、彼はインパール作戦の最後の方では、神頼みを繰り返していたという。本人が神頼みをするのは勝手だが、指揮官に命を託している下士官・兵にとっては、たまったものではない。

戦後、牟田口はインパール作戦の正統性を語り続けていたようだが、最後まで自らの非を認めず、反省もしていなかったようだ。

「勇ましい話をする奴ほど裏切る。勇ましい話をする奴は決して信用するな!」わたしの家で親父と戦争中の話をしていたおじさん連中の結論はいつもこうだった。

まあ、今でも牟田口と似たような話をする連中は、掃いて捨てるほどいる。ネット上で牟田口そこのけの精神論を垂れ流す連中も掃いて捨てるほどいる。ネトウヨと呼ばれる連中は、牟田口の後継者と思って間違いない。

歴史は誰の立場で見るかで、様相が一変する。人は馬鹿だから、どうしても指揮官の立場でものを見がちだが、現実には指揮される兵になる人間が圧倒的に多数。皆、自分が兵になる事を想像していない。

前に、「志願制」と「徴兵制」における兵士の扱いの心理的違いについて述べてきたが、現在の自衛隊が全く同じ状況に直面している。

自衛隊志願者が激減しているのである。人手不足が深刻なため、自衛隊志願者が減少している。同時に、【同盟の深化】の名目の下、米国の戦争の下請けとしての「自衛隊」の存在がじょじょに明らかになるにつれ、海外での戦争に参加する危険性が高まっている。本当の戦争などしたくない若者は自衛隊に志願しない。そのため、自衛隊も高齢化が深刻になりつつある。

今、安倍政権内で静かに【徴兵制復活】の話が持ち上がっているという噂が絶えない。現在の自衛隊志願状況を考えれば、【徴兵制】復活以外、兵の補充が難しくなる可能性が高い。

もう一つ現実に考えられ、実行されている可能性が高い政策が、戦前の日本がそうだったように、若者たちを貧困状況に落とし込み、食うために「自衛隊」入隊を考えさせることを主眼に行われているという可能性だ。

結婚もできない若者たちを大量に生み出している現在の経済政策や「働き方改革」の名のもとに行われている「奴隷政策」。どれもこれも、【徴兵制復活】の臭いがプンプンとしている。

こんなことを考えたり、発言したりする連中は、自分が【兵】になる事を想定していない。おそらく、自分の子供も兵にならそうとはしない。イラク戦争の時、米国の上下院の議員の子供で戦場に出かけたのは、ほとんどいなかったはず。自分や自分の息子が痛まなければ、他人や他人の息子が犠牲になっても心が痛まない、というのが、人間の性。

「勇ましい言葉に騙されるな!」は、今も昔も真実。であるなら、兵の立場で戦争を学ばなければ、何の役にも立たない。21世紀になっても、「インパール作戦」のような愚行に熱狂する国民では進歩がない。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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日本軍敗戦の歴史に学ぶ 無責任の構図(組織の腐敗)(1)

2019-08-31 10:29:30 | 戦争・平和
「日本兵の兵役生活」

BSで、インパール作戦の再放送があった。権威に胡坐をかいた組織。その中で権力を持った人間の腐敗堕落は、結局その組織で生きている多くの人間を悲劇に陥れる。その事を、如実に示したのが、インパール作戦の教訓である。

わたしの生家の隣に「インパール作戦」の生き残りのおじさんがいた。夏、半そでシャツになると、そのおじさんの腕に大きな弾痕の跡が見えた。渡河作戦の最中に撃たれたそうだ。わたしの戦争の記憶の原点におじさんの腕に残る傷跡がある。

もう一つ幼い時の戦争の記憶がある。母親の弟(叔父)が戦死しているのだが、その葬儀の記憶が鮮明に残っている。冬の凍てつくような寒さの中で行われた野辺送りの行列の中で、叔父の奥さんの悲しみ方が尋常ではなかった。母親から聞いたその理由は、遺骨だと手渡された箱には石が一つ入っていたそうだ。夫の骨すら帰ってこなかった事に耐えられなかったという話だ。

後年、蔵原惟繕監督の【執炎】という映画を見た時、この時の野辺送りの光景と重なり、胸がふさがれる思いをしたことを鮮明に覚えている。浅丘ルリ子主演。
※ 執炎  https://www.nikkatsu.com/movie/20829.html

えぐられたような傷跡、野辺送りの葬列。わたしにとって戦争の具体的記憶は、この二つに集約される。

わたしの生家は田舎の雑貨屋で、当時は近所のおじさん連中がよく出入りしていた。特に、煙草の葉を専売公社に納入する時期(備中葉として有名)は一年で一番の繁忙期だった。その時は、おじさん連中が親父とよく戦争中の話を店先でしていた。

一番多かったのが、軍隊の話だった。「あの軍曹が偉そうだった」。あの若い少尉が生意気だったので、「ふけ飯をくわしてやった」とか、「後先考えずに突撃、突撃と命令するので、皆が白けていたら、そいつが自分で行かざるを得なくなり、突撃と言いながら真っ先に突進して戦死した」などの話を良くしていた。

ちなみに「ふけ飯」とは、上級士官のご飯の上に頭のふけをかきむしってかけて食わせると言う事。偉そうで生意気な士官の多くは、この「ふけ飯」の洗礼を受けていた。

そして一番印象的だったのは、あの将校は「名誉の戦死」と言う事になっているが、あれは後ろから弾が飛んできて死んだんだ、と言う話だった。兵隊たちに憎まれている上級士官は、突撃している時、兵の誰かが後ろから士官を撃つケースがよくあったそうだ。

戦場では弾が飛び乱れているのだから、誰が撃ったか、どこから撃ったか分からない。戦死者から弾丸を取り出して鑑定にかけるなどという芸当ができるわけもない。結局、死んだら全て【名誉の戦死】になるというわけである。中には、風呂場で名誉の戦死を遂げた将校もかなりいたそうだ。

長々と兵士の話を書いたのには訳がある。軍隊という組織は、将校だけでは動かない。兵士がきちんと任務を果たして初めて軍隊として機能する。前線では、将校と兵士は文字通り「運命共同体」になる。

現在でもそうだが、会社の中で少し出世をすると異様に張り切ったり、威張ったり、パワハラまがいのいじめをしたりする人間がいる。面白いもので、少し出世をすると自分を「万能の神」のように錯覚するのであろう。

特に若い連中ほどその傾向が強い。年功序列制度が壊れた現在の会社制度では、出世しそこなった年配の連中は、自らの居場所をどう見つけるかで苦労しているだろう。

会社なら何とか自分を落ち着かせる場所を探せるかもわからないが、【軍隊】ではそうはいかない。【軍隊】は完全な階級社会。星一つ違えば、完全服従。そうしなければ、秩序は保たれない。上官は、文字通り「全能の神」になる。

このような組織になると、上官の人間性しだいで、部下の運命は左右される。上官が暴力的で問答無用の理不尽な性格の場合は最悪。その時々の気分次第で、訓練が異常にきつくなったり、些細な事でぶん殴られたり、部下は踏んだり蹴ったりの目にあわされる。

まあ、現在でも若い連中には、軍隊教育が必要だとのたまう連中の多くは、有無を言わさず「絶対服従」させる快感を夢見ている。そういう連中は、自分が有無を言わさず「服従」することは、大嫌いな人間が多い。人間「得手勝手」の典型である。

日本軍を考えるとき、上のような上官と兵の関係を基本に考えなければ、認識を間違う。

日本軍隊内部の実態を描いた小説では、野間宏の「真空地帯」が有名だが、軍隊経験者(将校ではなく兵士)の大半が、野間の書いた事を肯定するだろう。

吉田裕氏は、このような、アジア・太平洋戦争中の軍隊における兵士の実態を、数値に基づき、客観的な研究にまとめ上げている。

※吉田 裕(よしだ・ゆたか)
一橋大学大学院特任教授
専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など

その中に衝撃的な数値があるので、紹介しておく。
・・・
支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち (中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』)・・・・

ここで注目しなければならない数字。全戦没者の約76%⇒敗戦前1年に集中。その中、戦病死者数⇒約73%。⇒戦闘ではなく、日々の生活の中で死亡した。「名誉の戦死」という美名のもとで行われていた醜悪な真実である。

これは、もはや軍隊ではない。【軍隊】とは、戦う集団。その戦う集団が、日々の生活の中で7割強死亡している。この数字は、軍隊内での「医療施設・人員・食料・水・日常品など」が如何に欠乏していたか、そういう「兵站」に対する意識が如何に欠落していたかを示している。

吉田氏は、戦病死の中でもっとも多かったのが【飢餓】だと指摘している。

・・・日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』)*:諸説あり・・・・・

・・・ 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。・・・・

・・・彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他 部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』)・・・

◎“心頭滅却すれば 火もまた涼し”

『織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禅僧快川が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、端坐焼死しようとする際に発した偈。また、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の詩中に同意の句がある。
無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、その境涯を超越して心頭にとどめなければ、苦難を感じない意。』(広辞苑)

日本軍は、この種の「精神主義」で突っ走ったため、人間「腹が減ると獣になる」という簡単な摂理すら分かっていなかったようだ。人間の生存本能が他の動物と違うはずがない。生きるためには何でもするのが本能というもの。

「衣食足りて礼節を知る」と言う諺がある。【軍規】は、食べる事、飲むこと、住むところ、着るもの、を保証して初めて守らせることができる。上の状況を考えれば、特に戦争末期における日本軍の「軍規」の乱れは、相当ひどいものだと想像がつく。

慰安婦の問題にしろ、戦争中の日本兵の蛮行にしろ、真偽の論議が盛んだが、上記のような慢性的飢餓情況に置かれた兵士たちが、正常な精神状況を保つことができた、と考える方が、どうかしている。わたしは何が行われていたとしても驚かない。

人間死んでしまえば終わり。生きるためには何でもする。まして、軍というある種の「治外法権社会」に生きている連中である。平和な社会の倫理観や常識が通用するはずがない。何事もそこから考えなければ、真実を見誤る。

◎負傷者は自殺を強要される

・・・(前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。

・・・・その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)
視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。

当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり (中略)
単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配する。 これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。
 (『ガダルカナル作戦の考察(1)』)・・・
    
つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』)
・・・・・・

◎「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」(戦陣訓)

1941年に東条英機が軍人に軍規を徹底させるために示達した一節。⇒この結果、日本軍の間で捕虜になる事を拒否する思想が広まったとされる。これが後に沖縄戦などで民間人を巻き込んだ集団自決をする一因になったとされる。

もう忘れ去られているが、小沢一郎は、民主党の党首になった時、A級戦犯をどう思うか、という毎日新聞のインタビューに答えて以下のように答えた。

・・・「A級戦犯については「日本人に対し、捕虜になるなら死ねと言ったのに、自分たちは生きて捕虜になった。筋道が通らない。戦死者でもなく、靖国神社に祭られる資格がない」との認識を明らかにした。・・・・

ガダルカナル以降、どれほど多くの負傷者が自殺を強要されたか。特に、インパール作戦の死者の多くも自殺者である。

兵士たちには自殺を強要し、おのれはぬくぬくと生き残る。「徴兵制」で、行きたくもない軍隊に行かされ、家族と無理やり引き離され、生きたいのに死ぬことを強要される。こんな経験をした兵士たちが、そんなに簡単に戦争指導者を許せるはずがない。

小沢一郎の発言は、戦争で無惨に散った兵士たちの語れぬ思いを代弁している。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
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喪失の遺産を受け継ぐ

2019-08-19 11:09:59 | 戦争・平和
74回目の終戦記念日を迎え、今年も第二次世界大戦に関連した報道やドキュメンタリー番組を目にする時期になった。しかし、今年はこれまでと比べて戦争を扱う記事や番組の数自体が減っているように感じるのは気のせいだろうか。

報道番組内の戦争をテーマにした特集では、いわば「被害者」としての「日本人」を対象としてこれまで以上に恣意的に選択しているように見える。

大戦中、貧しい生活を強いられた市井がいたことも、日本の敗戦後に大陸からの引き揚げ・抑留などで身を引き裂かれるような想いをした人たちが存在することも事実である。

しかし、こうした惨状を生み出したのはいったい誰なのだろうか。誰がいつ、どのような意思決定を行ったから、多くの罪のない人々を巻き込む羽目になったのか。単なる過去に起きた悲劇として戦争を扱うのであれば、過去の遺産と正面から向き合えていないことになるだろう。

国と国との戦争において、日本人は被害者であるとともに、加害者であったことは、なかったことにはできない事実だ。個人が被った悲劇性や感情的な部分にばかり注目していては、先人が何をしてしまったのかは冷静に顧みることはできない。

日本を戦争へと導き、その戦いに国民を巻き込む選択を重ねてきた人々が、戦後に一度は追放されたものの再び表舞台に戻ってきていることなどは、どうして問われないのか。また、過去に行った略奪・侵略行為が現在まで影響を与え続けていることには気が付いていないのだろうか。

日本という国として過去に犯した加害を想起させるものに対し、過剰なまでに反応し、隠蔽を試みる人が目立つことも、昨今の戦争を扱う報道とつながりがあるように見えてしまう。

表面的で漠然とした平和を求めて祈りを繰り返したところで、再び同じことを繰り返してしまうのではないかという不安が募るばかりである。

「護憲+コラム」より
見習い期間
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「戦後史」のパラドックス(逆説)

2019-07-25 20:25:53 | 戦争・平和
当コラムの予告「戦後史を問い直す」でも触れたように、玉音放送(日本語としては特殊な言葉で放送されている)のあった8月15日の映像がテレビでいつも放映されているが、作家の星新一氏が宮城前に行った時には誰もいなかったという。

その映像には20歳から60歳までのかなりの数の男女が頭(こうべ)を下げている姿が映し出されているが、メディア研究の学者佐藤卓巳氏は、これは後に撮影された「やらせ」だったという。

このように戦後のスタート時点からして日本の歴史:戦後史(とその映像や写真)は偽りで始まる。

「戦後史」という歴史用語にしても誤解が生まれるような言葉である。実際に「戦後」という時間は8月15日の「一日」だけで形成されたり区分できるものではあり得ない。この日に特攻隊の出撃もあったし、海外派兵で戦地に残っていたおびただしい数の兵隊は日本本土にいないのである。
***

以上のような細部の出来事は今回のコラムのテーマではないので、テーマを絞ることにする。それは50年以上前の「疑問」から始まる。

それは安倍首相の母方の祖父であった岸信介という人物の「戦後」の姿であった。

彼は戦中の東条内閣の商工大臣を務め「満州国」の経営で辣腕を振るい「満州の妖怪」とも言われていた。実際に岸は「東京裁判」でA級戦犯(戦争指導者のこと)の容疑で巣鴨プリズンにいたが、なぜだか分からないが戦犯容疑が解かれ、なんと60年代には日本の総理大臣になっていたし、安保条約(第二次)の締結を決めたのである。

こうした「謎」は20代の学生であった私には不可解であった。戦犯容疑が濃厚であった東条内閣の閣僚が巣鴨プリズンから解放され、処刑もされず総理大臣にまでなる日本という国は不可解としか言いようがない。

それでは「東京裁判」とは何だったのか。これまでの議論では「東京裁判」に関して二つの見方が提示されてきた。一つは日本の侵略戦争を裁く正当な国際法廷であるというもの。この見解は占領軍(GHQ)を解放軍として捉える見方と共通している。

もう一つは戦勝国(連合軍)が敗戦国(ドイツ、イタリー、日本)を裁く「勝者の裁判」であり、正当性はなく、かつ国際法にない新法で裁くものであり、刑事不遡及の原則に反するという見解である。

この二項対立的な二つの「東京裁判」史観からは「東京裁判」の本質は永久に見えてこないだろう。東京裁判は両極に明確に区別できるような単純な様相を最初から示していないからである。

ニュルンベルク裁判(ドイツの侵略戦争など裁いた法廷)のように連合軍の主導があったのと異なり、東京裁判(極東国際軍事法廷)は終始アメリカ、特にマッカーサーの軍事派閥が軍事法廷を担った。戦犯容疑者から免責された軍人や官僚、財閥などはかなり多い。今回のコラムではこの「免責」(免責された戦犯たち)にテーマを絞ることにする。

少し議論を前に戻すが、前回の珠さんのコラム「日本の首相は米国の手下?」からも示唆を受けた。この投稿から私が触発された箇所はアメリカの「戦後」におけるおびただしい戦争の諸相である。(詳しくは「アメリカ暴力の世紀」という著書が有益な視点を提供している。)この問題と「東京裁判」での「免責」は特に関連している。

これまでの議論では免責の対象は主に二つとされてきた。一つは天皇の免責である。特に太平洋戦争の決定は天皇の決断であった。天皇に戦争責任がないということはありえない。

もう一つは731部隊(細菌戦の工場を満州付近で大規模に展開しており、実際に中国に大量の細菌爆弾を投下していた)の免責である。

前者の免責は今回のテーマではなく、後者の731の免責の意味が大きな問題点であると考えている。

この問題に大きな影響力を与えた研究者は多い。80年代に出版された森村誠一著「悪魔の飽食」、科学者(化学)常石敬一氏の最近の著書「謀略のクロスロード」(副題;帝銀事件と731部隊)が参考になった。

また、ドキュメンタリー作家の青木富貴子氏による「731」(新潮文庫)の、実際に731部隊に入隊した医師や軍属であった人たちからの聞き取り調査は大変な仕事だったと思われる。

これらの研究成果からは、アメリカが731の免責を与えたことは特別の意味を持っていたことが分かる。「東京裁判」の侵略戦争の戦犯を裁くという表の顔をはぎ取り、アメリカの裏の顔を表に引き出すというもう一つの「戦後史」の「謎」に迫るという意味で、これが初発の疑問(岸などの免責)を解く鍵(キーポイント)になるだろう。

アメリカの「免責」は731部隊の細菌兵器の開発と実験結果の入手が秘密の特約(免責条件)であったのであり、実際に免責された石井中将や軍医たちは戦後の医学界の重鎮になっていく。

アメリカは朝鮮戦争で細菌兵器を使用したとも疑われている。ベトナム戦争では細菌兵器の出る幕はなく、代わりに使用されたのが枯葉剤だった。東京裁判は二項対立で片付けられる「単純なもの」ではありえない。
***

今回のコラムは研究の端緒についたばかりのものであり、詳細な展開は今後に譲るとして、最後に「戦犯容疑者」から外された主な軍人などに言及する。

中国への侵略戦争の端緒であり、大きな事件となった「満州事変」の首謀者である石原莞爾はなぜ免責されたのだろうか。(盧溝橋事件が直接の端緒であるが。)

リットン調査団が満州に派遣されて、国際的な非難を受けたことから日本は「国際連盟」から離脱する。そして、世界を敵に回すことになる太平洋戦争を真珠湾攻撃から開始して無謀な戦争へと突き進むのである。

「大東亜共栄圏」の大きな礎石となった「満州帝国」を作った青写真は石原莞爾の引いたものであり、「満州事変」の立役者は石原莞爾をおいて他にはいない。こうした戦争指導者の多くが「免責」される「東京裁判」とは一体なんだったのか。

「戦後史」と一言で済ますことではない。やらせから始まる8.15、免責を受けた戦犯容疑者のおびただしい数。謎の多い「東京裁判」、そして図式的すぎる歴史家たちの「戦後史」の描写。「東京裁判」を筆頭にパラドックスに満ちた「戦後史」を再考することが重要であるような気がする。
***

今回は研究経過の一端を書くことしかできていない。現在の日米関係は安倍政権のアメリカへの一方的な追従と辺野古基地への米軍キャンプ移設、と大きな変革に立ち会っているにもかかわらず、「安倍一強」がいまだマスコミからも垂れ流されている始末である。

日米関係は日本の戦後史だけを照射していても歴史は見えてこない。アメリカという戦争の継続をいつの間にか国益としている国家の「歴史」を直視しない限り、「日米関係」も世界の情勢も見えてこないだろう。

戦後史は「東京裁判」を軸にすれば、「日中戦争」、「太平洋戦争」、「満州帝国」、「原爆投下など」と切り離すことは、日本の戦後というパラドックスから解放されないのである。

沖縄の占領継続は「基地問題」ということだけではなく、なぜ占領継続なのかである。「冷戦構造」の終焉にもかかわらず、基地の拡大が「なぜ必要なのだろうか」。

これらの解答は「戦後史」の見直しの中にしかないのではなかろうか。

「護憲+コラム」より
名無しの探偵
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「モダンライフと戦争」

2019-02-04 10:49:51 | 戦争・平和
戦前の日本について教科書でしか知らない私にとって、大平洋戦争に突き進んで行った日本の1930年代は、暗く人権もない、ものも言えない窮屈な時代だったというイメージがあった。一方、いや、そんな事はない。庶民の暮らしは大変だったが平成の今より明るい元気な時代だった、という人々もいる。どういうことだろうか。

私の疑問にヒントを与えてくれたのが「モダンライフと戦争」という、宜野座菜央見(ぎのざなおみ)氏が書いた本だった。この本の中では、栗島すみ子、田中絹代、原節子等がモダンガールとして登場した映画が、戦争と意外な共犯性を持っていたと書かれている。

1929年当時、日本はアメリカのバブルが弾けた事により未曾有の不況に陥り、人々は失業にさらされていた。「何が彼女をそうさせたか」(当時は「傾向映画」と呼ばれた)のように、庶民の苦しみ、資本家や社会の矛盾を批判し、人々が絶望や不満のはけ口を見いだし共感を得た映画もあったが、それは映画界全体の2~3%だった。

1931年の満州事変は、歴史の転換点となっただけでなく映画界も変える事になっていった。満州事変の後日本は戦争景気に沸き立ち、数々の視覚的快楽を提供してきた。

1931年、日本初の完全トーキー「マダムと女房」が公開され好評を得た。当時の一般大衆は、満州事変を短期的局地的戦闘行為とみなし、戦争で亡くなった遺族を除いては、戦争景気が日本の景気を好転させ景況感も良好だった。

日本映画界は、当時の国民が求めていた平和で明るいモダンライフを、スクリーンという当時の大衆娯楽で描いて見せたのである。同時にこの時代は映画、ラジオ、レコードといった視聴覚メディアが普及し、雑誌も女性誌、児童誌など多様な雑誌が刊行されていった。

支配者が大衆の心を掴むためには「パンとサーカス」が必要と言われる。この「サーカス」の役割を果たしたのが映画界だった。幾ら権力者が愚民化政策をしても、それが大衆のニーズに応えたものでなければ人々は見向きもしない。正に当時の映画は大衆の心を掴み大きな興業収入をあげた。

華やかで平和な日本、それは当時の戦争景気と相まって国民の共感を呼んだ。満州で起きていた悲惨で残虐な行為は報道されるはずもなく、人々は片寄った、酷く歪な情報と教育の中にいる事に気づかなかった。

当時の国民を責める事は出来ない。人々の心を操り共感の嵐を呼んだ情報と教育は、現在の日本で復活しつつあるのだから。

サーカスを甘く見てはいけない。モダンライフは魅力的である。護憲派もリベラルな人達も、愚民化政策と切り捨てる事なく、巧妙で魅力的なサーカスに対抗出来る手段を考えなければ。「それが出来たら苦労しないよ」という声が何処からかきこえて来るような気がするが。

※ もうひとつの課題「パン」については何れ機会を見て考えたいと思う。

「護憲+コラム」より
パンドラ
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NNNドキュメント「南京事件Ⅱ」

2018-05-14 17:32:38 | 戦争・平和
5月13日(日)深夜0時50分日テレで「南京事件Ⅱ」が放送されました。何年にもわたる丹念な取材で何故「南京事件」は起きたのか。真相に迫っていきます。

敗戦直後に陸軍総司令部の命より、焼却される膨大な公式記録。それは軍法会議で戦犯にされるのを恐れた陸軍上層部の指事によるものでした。

後年防衛省の敷地から大量の灰や焼け焦げた紙の束が見付かり、僅かな資料と残された兵士の肉声インタビューや陣中日記等を元に番組は構成されています。目を被いたくなるCG映像や言葉が再現され、深夜見るには勇気がいるかも知れません。

記録を焼却しても、当時現場にいた兵士や日記が何があったのか物語っています。川原に何千人も連れ出し銃で撃ち殺し、更に生きているか死んでいるかも分からない者を銃剣で突きまくったのです。

それを誤魔化し隠蔽するために、公式記録を焼却しただけでなく、虐殺を命じた軍幹部は「捕虜を解放しようとしたが暴動に近い様態になったので、身を守るためにやむを得ず射殺した」と福島県の新聞記者のインタビューに答えています。南京虐殺否定論「自衛発砲説」の元になった話です。

でも、これは射殺を命じた軍幹部が、昭和30年に自らが戦犯をにされるのを恐れ、記者のインタビューに答えたものだったことが一兵士の日記から明らかになります。

更に別の兵士は「捕虜を解放するなんて船もないのに出来る分けがない、射殺した捕虜の死体で揚子江が流れなくなった時もあった」と証言しています。

更に射殺を命じた部隊長は当時は現場にいなかったことも、兵士の証言で明らかになります。番組のスタッフは戦後生き延びたこの部隊長に初めてインタビューした福島新聞の記者訪ねて証言を聞いています。「虐殺はなかったのか、あったのか、言えばおそらくそれはあったのだろう」と記者は答えています。

この部隊長は、戦犯の汚名を着せられる事なく軍人恩給を受給して、戦後長く生き延びるのです。その姿、生き方は今、公文書を隠蔽し「あったことを無かった事」にして逃げ延びようとする現内閣中枢にいる彼らと重なってみえます。彼らは逃げ切るためなら国民をも捨て去るでしょう。その足で踏みにじり、遺体を踏みつけて靴の汚れを気にするでしょう。

これは80数年前南京で起きたことだけではないのです。私達にも起こるかもしれない。そして被害者にも加害者にもなるかも知れない。そんな事件なのです。

※ NNN「南京事件Ⅱ」は5月20日深夜に再放送あるそうです。お見逃した方はテレビ番で確認してご覧になってください。

「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
パンドラ
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映画「火垂るの墓」

2018-04-30 15:58:06 | 戦争・平和
4月5日に亡くなられた高畑勲監督のアニメ映画「火垂るの墓」が、4月7日に日本テレビで放送された。この映画は日本で一番見たい映画ベスト10で1位に輝き、又一番見たくない映画でも1位になっているという。

我が家の子どもも小学生の頃「恐いから嫌だ」と言って見たがらなかった。何がこの映画を見ることを厭わせていたのだろう。激しい空襲の場面か、救いようのない兄妹の死に様なのか。

物語は神戸三宮駅路上に倒れている少年清太の姿から始まる。それを清掃用具で突いて「こいつは未だ息があるから後で来るか」と言って立ち去る清掃員。周囲には夥しい数の亡くなった人の遺体、未だ生きている人の身体が打ち捨てられていた。

もう一人の清掃員が清太の手から取り上げたドロップの缶が空中を舞い落ちて蓋が外れる。中から白い物体が落ちて、その時沢山の火垂るが宙を飛び回り落ちた。小さな白い物体は、清太の幼くして亡くなった清太の妹の骨だった。

14歳の清太と4歳の妹節子は戦争で孤児になり、遠縁で戦争未亡人のおばの家に預けられる。当時の庶民の生活は困窮しており、配給の食糧だけでは、一家の生活を賄う事さえ難しかった。清太は両親が残した遺品をおばに言われ差し出して米に変えるが、それさえも「何もしていない清太さん達は雑炊で沢山」というおばの言葉で殆ど口に入る事もなかった。

この映画のキャッチコピーにあるように、清太は「14歳と4歳二人で生きて行こうと思った」と決意して家を出る。この清太の行動は、この時代にタイムスリップした現代の少年のようにも思われる。

誰も使っていない壕の中で雨風を凌ぎ、親の遺品で食糧を調達するが、そんな生活が長続きする分けもなく、節子は飢えと栄養失調で亡くなり清太も倒れ果てて行く。

高畑監督は、清太と節子が壕や海岸で遊ぶ場面を宙を舞う火垂ると共に、楽しげに美しく描いている。それだけに余計清太と節子の最後が悲しい。

高畑監督は、「この映画は反戦映画ではない」とインタビューで語っておられた。「為政者が戦争を起こそうとする時、国民をこんな悲惨な目に合わせない為に我々は闘うのだと言うだろう、この映画で戦争は止められない」と。

この映画に漂う全体主義に染まった人々が私は恐ろしい。役に立たない者、立とうとしない者は排除し打ち捨てて行く。誰も疑問を抱く事なく皆が同じ事をいい、同じ行動を取る。清太と節子が亡くなったのは、戦場ではなく戦争が終わった日本でなのだ。

自らは戦場に赴く事なく国難を煽り、いざとなったら逃げて誤魔化し隠蔽する今の政権も、同じ事を繰り返そうとするだろう。

※KAZUKOさんのツイッターから引用

戦争中の政府=戦争という国の存亡にかかわる非常事態なのだから、国民たるものは等しく戦争の犠牲を受忍すべきである。一般国民まで負担していたら財政負担が大き過ぎる

「護憲+コラム」より
パンドラ
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