現在、「憲法9条と立憲主義」というテーマで卒論を書いているが、現在の憲法学者で「憲法9条と立憲主義」を正面から論じている人は少ない。長谷部恭男氏がかなりアップトゥーデイトな主張を精力的に各地で(多数の著書の中で)提言されているくらいである。
長谷部氏の主張の骨子は次の点にある。すなわち、
『憲法9条は、戦争の放棄を定め「武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」(第一項)とし、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と規定する。
憲法学会の多数説は、憲法は前文の平和的生存権と相俟って、日本国憲法の解釈から、日本において軍隊は禁止され、武力の行使は絶対に禁止される(絶対平和主義)と解している。
しかし私(長谷部氏)は、この絶対平和主義はおかしいと解する。なぜならば、多数説によれば「憲法9条は一切の武力の行使と軍備の保持を禁止する」と言うが、この解釈は立憲主義と抵触する(衝突する)。立憲主義の要請では、何人も自分の価値観を他人に強制できない。自分の価値観を強制できないことから深刻な対立を避けることが出来るのである。
9条を裁判規範として憲法政治の基本であると解釈することは、自分の価値観を他人に強制することになり、立憲主義に反する。では憲法9条はどういう規定かというと、立法の指針にすぎず、根本規範ではなく単なる法制上の細目にすぎない。』
こうした有力な考え方が長谷部氏から提出されており、早晩憲法学者の多数は長谷部説に賛同すると推測される。長谷部氏(1956年生まれ)より上の世代、例えば樋口陽一氏などは、絶対平和主義の看板を下ろすことはないだろうが、憲法9条は建前に過ぎないと考える同世代の学者は看板を放棄するだろう。こういう現状が憲法学会で形成されつつあると思う。
しかし、長谷部氏の立憲主義は憲法9条の要請と抵触するという思考は妥当なのであろうか。(法学の世界では正しいという表現は論理的ではない。)
長谷部教授に代表される憲法学者は、近代憲法以後の歴史に重点を置いて憲法解釈の参考にしている。確かに「近代戦の歴史だけ」を射程に入れると、長谷部学説はかなり妥当であると言える。
しかし「国民国家」を自明の前提にして憲法の解釈の根幹的な思考とすることは、国民国家以後の戦争の歴史を自明のものとすることで、大きな陥穽に落ちることになろう。
近代戦以後、国家(国民国家)は市民を徴兵して国防軍に参加させて近代戦を遂行したといえるが、このような市民を徴兵して国民として兵役の義務を課すようになったのはフランス革命の成立以後のことである。それ以前は、軍隊は傭兵制度などが中心だったのであり、徴兵制度はたかだか200年の歴史しかない(参考文献:「反戦軍事学」(朝日新書・林信吾著)。
確かにフランス革命などの市民革命の結果、「普遍的な人権」という意識が成立したということは否定できないが、フランスなどのヨーロッパにおいてのみ基本的人権が適用可能だったのであり、植民地などにおいては、人権は国境の外部の問題だった。こうしたことはフランスによるアルジェリアの植民地化が最近まで自明のことだったことから分るであろう。
近代の戦争の歴史の大きな特徴は、植民地の獲得を巡る列強の闘いにある。国民国家こそが、未開とされていた地域を植民地にして、その植民地開発競争の結果出来した「戦争」によって、先進国と従属国・従属地域を相関関係的に成立させたのである。
広く世界を見渡せば、自衛権の行使と称して軍隊を派遣するが、内実は侵略戦争だったのであり、その辺りの事情はまさに現代までの歴史においても貫かれている。
以上から、「国民国家」を自明の前提にして近代戦を不可避の出来事、歴史であると考えることはできない。従って、武力の行使を禁止する憲法9条と憲法前文が一定の価値観の押し付けになる(長谷部説)という結論は自明のことではない。
「憲法9条が一定の価値観を押し付けることになり、裁判規範とは考えてはならない」という見解は、これから検証されるべきであり、憲法9条を「近代世界システムの成立」(ウォラーステイン)の中で再考することの端緒が開かれたというべきであろう。
「護憲+コラム」より
名無しの探偵