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偏愛と放浪の記録

「プロローグ」(著:円城 塔)

2016-05-22 13:40:04 | 【書物】1点集中型
 小説自身が小説を組み上げる小説。でいいのか? 日本語とはそもそもどんな書記体系であるのかなんて話から始まって、データの検索やら表記の統一やらについてICT時代ならではのユーモア溢れる作家の悩みや物語創作における設定・人物造形のあれこれなどなど。小説自身=作者視点での著述になるので、こういった内容が作家の「私小説」らしい雰囲気を作っている。あ、あと出版業界の裏話(でもないか?)なんかも。

 「新撰姓氏録」から適当に名づけられた登場人物同士が出会って舞台となる土地が生まれたり、彼らによってその土地の由縁や風俗が固められたり、さらには登場人物たちが二派に分かれたりして、世界はパラドックスしまくる。そこにときどきローカルネタが組み合わさり、フィクションの土地と現実がクロスしていく。
 そうしたストーリーの脇で小説の書かれ方についての言及があり、「書き換えられ続ける小説」を考察する部分があったりもする。そのへんはデジタル化著しい現代だからこその発想であるし、「なるほどそういうのもありなのかも」と一瞬思わされる。それとともに、最終稿がないという意味で完成しない(「完結しない」という意味ではない))作品というものが、物語のあり方としては正しいのかと思わず考え込んでしまう。
 それはある意味、「小説」の可能性がどの方向にあるのかということの模索でもあるのではないか。作家が「何を自分に入力として与えると、どんな出力が得られるかという実験を常に繰り返している」という言葉や、「小説を書くということは、自分が書きたい小説の筋を生きた人間を探す作業からはじまることになるはず」なんていう話にも、そんなことを感じた。だから作家は取材をするのだろうし、そこから自分の発想で肉付けをしていくのだろうし。

 クライマックスに近づいて、いきなり「言葉で表現しにくい事柄を、実際に言葉に置き換えていくことが、国語の問題であり課題」なんて、すぱっと言われると、言語で表現することの難しさ、奥深さをあらためて見せつけられる。感情移入できる物語は確かにわかりやすいおもしろさがあるけど、感情移入できないからといって面白くないわけではない物語もたくさんある。それはそれだけ読み手に感銘や衝撃を与える力を持っているということで、それこそが物語の本来めざすべき力なのかもしれない。
 それはさておき、3D-CADデータになっている謎の短編小説なんてものが出てきたかと思えば、登場人物の一人が自分が本物ではないと感じ始めるとともに諸々のバージョンの自分やほかの登場人物が現れ、もう一方では引用マシンと化した猩々が現れる。終幕に向けて、物語はだんだん目に見えてわかるようなカオスの様相を呈してくる。そして最後はバーニング・マン。燃え上がる炎とともに、人物は視点となり、思考となり、さらにその中の推論となり、光の中で霧散する。霧散した後に残るのは無数の文字や文法と、そこから小説を組み上げようとする小説だ。そして小説は、そこから人間を見つけ出そうとしている。

 文字通り、終わってみると見事に「プロローグ」になっている。パラレルワールドやタイムループのような要素もあり、まるで量子論を「見る」かのように感じる物語だった。なので私の中ではSF。いや、登場人物自身が科学的な解析を駆使しつつ物語を書く(大雑把にというか乱暴に言えば。と言っても人工知能的な雰囲気ではないが)という時点で既にSFなのだが。かつ、日本語メタフィクションの粋を極める壮大な娯楽作品といった感じ。でありながらも、「小説とは何か」を考察し続ける哲学的な問答の積み重ねを見せられているようでもある。相変わらず、こういうものを書こうという発想自体が円城作品らしいと思った。人を食った、なんとも茫洋とした文体の雰囲気も好きだ。
 本当は「「エピローグ」とつながっているらしいがそっちを読む前にこっちに手をつけたので、やっぱり「エピローグ」も読みたくなってしまった次第。だったら最初から読んでおけばよかったのだが(笑)。


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