life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

スープカレーを食べたくなったので

2011-04-30 21:54:03 | 【日常】些事雑感

 仕事帰りに「侍」に行ってきた。同行者のお気に入りで、私は初めてのお店。

 「サムライ祭り」なる、基本の野菜が決まっている他に3種類の具材を選べるメニューにしてみた。ハーブソーセージ(1/2本)と、海老と、じゃがいもの千切りをチーズ風味で揚げたもの(名前忘れた)。これが思ったよりもちもち♪ 海老もちゃんとぷりぷり♪
 スープはいくつか種類があって、今回は最初でもあるし同行者のおすすめに従い、豆乳ベースに。グリーンカレーにココナッツミルクを加えるような感覚なのかな、思った以上にまろやかで甘味とコクがありました。それでいてスパイスの風味も殺さないので、必要な辛味もちゃんと残ってた。よって、いつものように辛さ控えめで正解。←辛いの苦手だけど適度な辛味は嫌いじゃない。胡椒大好き。(笑)

 スープカレーのご多分に漏れず、野菜もたくさん入っているのでしっかり栄養取った気になれるのがいい感じ。あ、大豆が入っていたのは珍しいかな? 実は煮豆がそんなに好きではないのでこれがちょっとだけ不安だったんだけど、固めに茹でてあったのが個人的にはよかったです(節分の煎り大豆は好きなのである)。


「カラシニコフ」(著:松本 仁一)

2011-04-29 23:06:01 | 【書物】1点集中型

 「人々や国家にとって銃とは何か」。手入れしなくても使える、壊れない、非常に優れた銃であったがゆえに悪名をも轟かせることになった旧ソ連の「AK47」――カラシニコフという自動小銃をめぐって、筆者はアフリカを行く。
 10代の少女兵の衝撃的な告白、そしてつぶさに描かれた「失敗した国家」。さまざまな国で、生きるために銃を持たざるを得なかった(あるいは、持たされることになった)人々の、少なくとも「銃のない社会」と言われる日本に暮らす自分の日常からは想像すらすることのできなかった日々が綴られている。

 AK47の開発は「ナチスドイツから母国(ソヴィエト)を守りたい」という心から生まれたものではあった。それが、東側諸国を味方につけるための政治的な道具として各国へ生産ライセンスがばら撒かれ、それによって製造された銃はさらに各国の思惑によって中東やアフリカにばら撒かれる。そしてそれぞれの国で崩壊と悲劇を巻き起こす。
 銃とはそもそもが殺傷のための道具であるというパラドックスは解消のしようもないが、道具は使い方によっていかようにも変化するということの最も端的な現れ方だろう。

 けれど、銃と暴力のくびきから脱しようと自ら立ち上がった人々は確かに存在する。それがソマリランド共和国で、民兵を銃ごと軍と警察に吸収するという策をとり、国連開発計画の協力を得て「銃の管理」を行うことにした、とある。
 それに目処がつくようになったら、次には法と秩序を確立するために法曹を育て始める。研修生の中には女性の姿もあり、社会にその声が積極的に採り入れられるようになる。さらに、子供たちのために学校を開くこともできるようになった。財政的には決して豊かではないが、教える側も教えられる側も協力し合って生きている。

「私たちは新しい国をつくろうとしているのです。一人ひとりが我慢してがんばらないといけない。政府だって、払いたいのに払えないでいるのですから」

 それが、政府から支給される3人分の給料を16人で分け合いながらソマリランドで教える若い教師の言葉だという。
 住民が自ら考え、真剣に取り組んだ結果が確かに実を結びつつある、そんな国も存在すると思うと、救われた気になる。「失敗した国家」とそうでない国家を分けるのは「警官・兵士・教師の給料がきちんと払えているか」にあると言われるが、ソマリランドは間違いなくそれをクリアすることを目指して進んでいる。平和を求めることと、そのための礎となる力を何に求めるかということを考えさせられた。


「吉里吉里人(一)(二)(三)」(著:井上 ひさし)

2011-04-22 22:57:40 | 【書物】1点集中型

 実は井上ひさし作品もこれまで読んだことがなかった(汗)。で、なんとなくこの大長編に手を出したのが3月も半ばだったでしょうかね。このたびの震災の報道の中に「吉里吉里」の地名を見つけ、そして本文中で照合するにあたり、ああなんでこの時期にこれ読んでるかなぁ自分、とかまず思ったもので……

 それにしても、支離滅裂なようで枝葉末節まで行き届いているし、なんといっても言葉の洪水のような、それでいて内容を掴むに難しすぎない文章のバランス。だからこそ内容のハチャメチャ感が面白く感じるんだろうなぁ、と思えたのが上巻。読めば読むほど、こういうものをこういう表現で書こうと思った井上氏の頭の中を覗いてみたくなった。
 そして主人公(だろう、多分)古橋の、健忘性記憶障害→記憶異常増進症→健忘性記憶障害と繰り返す半生にはなんだか、「アルジャーノンに花束を」のチャーリィ・ゴードンのような哀切もちょっと、感じたりなんかして。ちょっとだけだけど(笑)。

 とにかくかっ飛んだ話を中巻へ進めば、これまた相変わらず言葉と言語の洪水。のみならず記号の羅列の心象描写……もう何でもござれで、岡本太郎でもないけど「なんだ、これは」の世界であった。しかし1,000ページ近く進んでるんだけど相変わらず全然時間が経ってない(笑)。でも古橋は何故か伴侶を得ようとしている……そしてそれをなんとなく応援したくなる気持ちになっている自分がいる(笑)。
 そんな中で、さて本筋の、着々と地固めを進める吉里吉里国の独立を阻む日本国の次の手は? と思いながら下巻に入って半ばを過ぎても肝心の吉里吉里国独立に関する動きが遅々として進まない印象を受けるのだが、読んでるページ数のわりに時間が全然経ってないんだから仕方ないな、と思い直す(笑)。そんな事態を呼ぶほどに、文字数も多ければ事件も多い。
 が、いよいよもって終盤……医療立国吉里吉里の本領を見せつける古橋+ベルゴの移植手術なわけだが、物語のエンディングは驚くほど一瞬だった。「キリキリ善兵衛」の最後の独白には、ちょっとしんみり。

 物語を読み進める間、それぞれが強烈な個性を持ちながら根本ではがっちりと結束している吉里吉里人たちを目の当たりにして、吉里吉里国の独立を応援する気になってたのも事実である。何より、単純に「自分たちの住むところをよりよくしたい」という気持ちからこれだけの用意周到な計画が立てられ、実行されたということ。ひとつの理想郷として、こういう社会があっていいはずだし、そうあるべきだと思う部分もたくさんある。ユーモアや下ネタをふんだんに盛り込みながら、あくまで重くないタッチで、時代に向かって言いたいことをとにかく投げつけ続けた作品なんだろうなぁと思う。
 しかし、その言葉にいちいち頷きたくなるということから逆に、ふた昔以上も前からこの国の何が前に進んだのかをも考えさせられたりもするのだった。


竹橋、晴れ。わりと過ごしやすい日。

2011-04-17 11:52:14 | 【旅】ぼちぼち放浪
 岡本太郎展が意外とさらっと回れたので、諦めていた常設展を見て回った。石井茂雄の銅版画が良かったなぁ。
 それにしても、シュルレアリスム展と岡本太郎展が同時期ってのは相乗効果がある感じ。

 そしてこのあとは、すっかり見落としていた(泣)上野のレンブラント展に行ってみようかな。松方コレクションも観れるし。
 フェルメールとレンブラントが同時期なのも心憎いが、午後になるし、竹橋よりもっと混んでそうな予感……(笑)←ていうかさすがに竹橋も混んできた(汗)

シュルレアリスム。@六本木

2011-04-17 00:03:29 | 【旅】ぼちぼち放浪
 今日は国立新美術館。珍しく開館前に到着。というのも、休日だし、規模も大きめの展覧会だから混み合うだろうと予想してたので。
 基本的に、私にとっては何を読み取ればいいのかわからない絵なんだけど(笑)、そもそも「超現実」なわけであるから、そのあたりを深く考えすぎても仕方ないということにしておこう。と思いながら眺めてみる。

 マン・レイの「数学的オブジェ」シリーズがなんか気持ちいい。よくわからないけど、曲線と目盛り、対称性とかそういう数学的なイメージと滑らかな木肌のバランスが美しくて見飽きない。時空という4つめの次元、さらに5次元6次元と越えていった果てにある、現実を超越した何かが現れているような、数学の美しさが形になったオブジェに思えた。
 マッソンの墨絵の「ディオニュソス的宇宙」の即興的なイメージなんかもいいし、マックス・エルンストの「最後の森」の幻想的な雰囲気はマグリットにも通じるなぁと思う。
 あとはやっぱり、最後の最後で出てきたどでかい1枚、マッタ「ロゴスの透過-仮象」。明るくカラフルな、機械のようなモチーフが様々に絡みあってて、何か未知のものが生まれてきそう。シュルレアリスムは、明るい画面であってもどこかに虚無が漂っているような退廃的なイメージがどうしても先行してしまうのだけど(私の中では)、この絵はそれとはちょっと違うものも見えた気がする。

 キュビスム的な部分やらカンディンスキーを彷彿させる線の使い方やらもありつつ、モチーフの組み合わせ方とか崩し方とかは、ある意味「いっちゃってる」状態から生まれてくるような気もするのがシュルレアリスム。理解はしにくいけど、人間の中に潜んでいるあらゆるものを具象化しているようにも思える。
 ……に、しても、土曜のわりに意外に混んでなかった。ので、わりとスムーズに観れたのがありがたかった。

 午後は竹橋に行こうかと最初思ってたんだけど、天気もいいので竹橋は明日に回すことにして、ふらっと神宮に寄ってしまった。(笑)
 チケット売場は混んでたけど、場内は空いてた。外野はそこそこ賑わってたけど。おかげさまで内野は観やすかった。しかし、横浜の打線の好調ぶりはともかく、燕の状態悪いなぁ。小川さんはちょっと後手に回ってるように見えたし、Easyなエラーが痛い失点に直結したりしちゃってたし。早く初日が出るといいんだけども。

Bunkamuraでフェルメール。

2011-04-15 22:42:23 | 【旅】ぼちぼち放浪
 3つばかり美術館を巡ろうかなと、無計画に東京入り。今日は大好きなフェルメール&オランダ絵画!

 とはいえ、フェルメールは「地理学者」1点だけだったんだけども、でもあの柔らかくてぬくもりのあるフェルメールの光には、心洗われるような気がするんだなぁ……。
 その「光」という点で印象に残ったのがアールト・ファン・デル・ネールの「漁船のある夜の運河」「月明かりに照らされた船のある川」で、消失点に重なる月の光が暗闇をほんの少し照らし出しているのが、なんとも言えない雰囲気。月夜の魔法だなーとか思ってみたり。(笑)

 ロイスダールの、滝や川のある森の風景もいいし、静物画の圧倒的な精緻さには引き込まれずにはおれない。果物のみずみずしさも、動物の羽や体毛の質感も、花瓶やグラスの肌も、何をどうやったらこんなふうに描けるのかと、なんべん見ても思っちゃう。
 やっぱりせめて一生に一度だけでも、本物のオランダの光を感じに行きたいなぁ。できれば、デルフトへ!(笑)

「でいごの花の下に」(著:池永 陽)

2011-04-12 23:08:18 | 【書物】1点集中型
 単に「恋愛小説」とだけ言われていたら読まないんだけど、沖縄戦が絡んでいるお話ということで手にとってみた。

 「アメラジアン」に抱く、ウチナーンチュの微妙な感情。奔放な少年少女たち。それらを目の当たりにしながら、主人公・耀子が「嫌な女」になっていく、その過程には微妙な違和感もある。でももしかしたらその違和感こそが、沖縄に紛れ込んだヤマトの人間を端的に表しているのかもしれない。耀子の姿はおそらく、この物語を追っている自分でもあるんだろうという気がする。
 途中で嘉手川の過去についてはなんとなく読めてはくるけど、照屋の話はさすがに表現が生々しくて壮絶だった。 親を手にかける子、子を手にかける親。人間の心を人間のものでなくする禍々しい空気。どんな形であれそういう話を目にするたび、御嶽の前に頭を垂れたくなる。人間が自らを貶めないために、その悲劇を幸運にも体験することのなかった時代の人間に語り継がれ、語り継がなければならないことは、まだ山ほどある。

「だいたい四国八十八ヶ所」(著:宮田 珠己)

2011-04-10 23:14:14 | 【書物】1点集中型
 タマキング本3冊目は、結果的に「だいたい」ではなく「全部」になってる四国お遍路の旅。本屋で見つけて装丁が気に入っちゃったので(特に帯の「八十八ヶ所道中高低図」が)予約入れて借りてみた。←気に入ったなら買えよ、という突っ込みはなしの方向で。

 神妙でもなければ信心もない、でも歩きたい。そこにスタンプラリーのように札所があるから巡ってみたい……というのは、道の駅巡りする人の気持ちに近いものもあるのか? という気もした(道の駅を歩いて巡ることはあまりないだろうは思うが)。

 出だしから靴の底が外れたりマメ全開だったりと難儀に見舞われていたタマキングだが、相変わらずの変なものに惹かれる視点とか、信仰から出た旅ではないだけに俯瞰した感じのお遍路仲間考察とか。語り口は今までよりも若干ソフトかな? ってまだ2作しか読んでいないが、とか思ったけど、そういうタマキングらしさはやっぱりところどころ思わず吹き出しそうになる。変なもの写真についてるキャプションも含めて。
 個人的には、卯之町の雑巾がけレースに関する所感にけっこう共感した。全長109mの廊下の雑巾がけタイムを競うというシンプルかつ馬鹿馬鹿しいレースなのだが、馬鹿馬鹿しかろうがそうでなかろうが、こういうものってやってみるとその結果に一喜一憂するのが人間というものだと思う(おまけに実際、このレースの最高記録がわりとすごそうな記録であったりもする)。タマキング曰く、

 100メートル走で件大会優勝と言うような経歴も悪くないが、この雑巾がけレース最高記録保持者というのは、かなり素敵な気がした。
 (略)相当速いんだけれども、馬鹿馬鹿しいというか、馬鹿馬鹿しいんだけれども、実際やってみると誰もかなわないという、そのあたりの按配が絶妙だ。馬鹿馬鹿しいことに全力を尽くし、その結果が他の追随を許さないという、そういう人生を私も送りたいものだ。

(「4章 宇和島駅から、今治駅まで」より)

 相変わらず気楽に読ませてもらいながらも、思わず胸に手を当てて自己をの人生を顧みるべきかと考えた一節であったりする。
 タマキングの文章を読んでいると、どこまでがノリでどこからがわりと真剣なのか、常に疑ってかかってしまうようになるのだが(笑)でもそれはどっちでもいい。読んだ自分が感じたことが、自分にとってはすべてなのである。タマキングが歩いて、見て、感じたことだけがタマキングのものであるのと同じように。

「さよなら、サイレント・ネイビー ――地下鉄に乗った同級生」(著:伊東 乾)

2011-04-03 23:35:27 | 【書物】1点集中型

 著者は地下鉄サリン事件実行犯の1人、豊田被告との大学の同窓であり現役の東大助教授。「日経ビジネスオンライン」で氏のコラムを時々読んでいて、そのつながりで読んでみた。
 豊田被告本人の言葉を前面に持ってくるような内容を勝手に想像していたので、そういう意味では思っていたような表現とはかなり違った。でも筆者が伝えたいことは伝わってきた気がする。おそらく多くの人がそう思っていたように、そして著者が指摘したように、私自身も「自分とは無関係」と思う一人だったから。
 けれど「筋書きの中にいる方が楽」つまり、敷かれたレールに乗っかる方が楽だし、時にそれに甘えて安心してしまうことがあるのは事実なのだ。たとえばひとつの嘘を隠すために次の嘘を作ろうとするように、たとえば自分の小さな過ちを繕うために、「正当化のストーリー」を築こうと一瞬でも考えたことがない人などいるだろうか。言うなれば、そんな心理を巧みに操り肥大化させたのが「オウム」だったということなのだろう。

 「行動」に対しての罪は個々の裁判で裁かれるが、本当の意味で再発を防ぐためには何が必要なのか。私自身は死刑廃止論者ではないけれど、その命題において筆者が言いたいことは理解できたと思う。
 当事者ではない自分が簡単に0か1かの答えを出すことはできないが、豊田被告はもとよりサリン事件に限らず、さまざまな事件のそれぞれの被告が、償いとして、死のほかに社会に対して償えることがあるなら、どんな形でもすべてやりつくしてほしいとは思う。そのことによって、二度とあのような事件が起きない社会をつくることに近づけるのなら。