life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「夏の果て」(著:岡 康道)

2014-07-31 23:48:47 | 【書物】1点集中型
 クリエイティブエージェンシー「TUGBOAT」代表である著者の自伝的小説。日経ビジネスオンライン「人生の諸問題」を愛読していたので、すでにそこで語られていた多くのエピソードをあらためて読み直した形に近いかもしれない。
 登場人物の名前はすべて実在の人物とは違うものになっているし、もちろん「実際する個人、団体等とは一切関係がありません」とは書いてあるけれども、あまりに「人生の諸問題」を愛読しすぎている私には、もはやノンフィクションにしか見えず、書いてあることを全部事実として受け止めてしまいかかっているという弊害があった(笑)。

 いろいろ無茶苦茶をやってきた少年時代ではありながら、何につけても自分の天性の限界を早い段階で見極めてしまう、ある意味達観したところを持つ主人公。だからといって「何やっても無駄」みたいな方向にはいかず、「どうせやるなら面白く」と言わんばかりだ。受験の話なんかは、もうすでに知っている話なんだけどやっぱり笑えてしまった。これぐらい痛快なことをやれる思い切りが自分にもあったらなぁと思いつつ。
 「自分の内側に、虫のように寄生する『欠陥』が確かに生息していると感じ」「そいつこそが自分なのかと思う」こと。ここはすご――く身につまされるというか、「刺さる」というか、あるいは逆に「自分だけではない」とも思って、妙な安堵を覚えたというか。まるで、母親の言う自分をそのまま演じようとしていたという少年時代の、奔放に見える行動の裏側にある陰のようなものが、形を変えながら主人公の中で息づいているのをここでまた見るような。

 それでもって、バブル期の大手広告代理店の営業の世界のものすごさ(笑)。おそらく業界的に、根っこのところではあんまり変わってない部分は今でもあるような気はするのだが、それにしてもなんというか……一般市民的な自分の頭の中とはあまりにかけ離れた世界ではある。主人公が自我の揺らぎを覚えたのも、そんな感覚の延長でもあるかもしれないが。
 そして父との再会。ありがちな感動や「改心」などはそこにはない。白々しさを感じながら演じざるを得ない「父子芝居」、「親子ゲーム」を、それでももう止めることはできないという不毛さ。嫌悪する父の姿を通して、息子はそこに自分を見る。それも、誰もが一度は感じることではないのか。「父の不気味な不明さは、誰もが抱えている不明なのかもしれない」――主人公が自覚していた、自分の中の「虫」のように。

 そういえば、破産した父親が出奔してからの、文字通り一文無しの苦学生という境遇にさらされた主人公を見て、末續慎吾の学生時代を思い出してしまった。なんか近い。
 まあそんなわけで、やはり「人生の諸問題」はぜひまだまだ続けていただきたいと切望する所存である。

「夢魔の標的」(著:星 新一)

2014-07-26 22:40:42 | 【書物】1点集中型
 星氏の希少な長編ということで、試しに読んでみた。
 腹話術師の人形が、ある日、術師の意思によらず勝手にしゃべり始めてしまう。人間を蔑むような言葉の数々や、謎の機械。その機械とつながるのは、どこか別の世界。人形の得体の知れない暴走ぶりから広がる、物語全体を覆う不気味さはいかにも星作品らしい。最終的にはブレーン宇宙的な次元の話になったりして、1960年代にもうそんな話をしちゃってたのかーと感嘆する。

 なんとなくSFミステリを読んでるような気分になるんだけど、終盤には精神的に追い詰められて現実と幻想の境目が曖昧になってくる主人公の姿がある。さらに最後には、解決したように見えて実は微妙な余白が残される。そういった描写を重ねてじわじわと不気味さを醸し出し、引きずるような余韻ももたらしてくれるところが、やはり星作品だなと感じられる雰囲気。この、もやもや感が「癖になる」感じを残してくれるところは、ショートショートでも長編でも変わらない。
 ……とは言いながらも、星作品として特殊といえる長編だからか、読後は逆に王道ショートショートを読み返したくなる気分にもなったりしたのだった(笑)。

「HHhH ―プラハ、1942年」(著:ローラン・ビネ/訳:高橋 啓)

2014-07-18 22:04:51 | 【書物】1点集中型
 装丁の秀逸さと、ナチス高官ハイドリヒの暗殺計画という題材、「ある秘密」も受賞しているフランスのゴンクール賞を受賞しているという3段構えで来られてしまったので、読まないわけにいかず(笑)図書館で予約すること数か月。で、やっと読む。
 ユダヤ人虐殺が、ナチスが行ったこととして知ってはいても、恥ずかしながらそもそもハイドリヒその人のことも、ましてや暗殺されたこともろくろく知らなかった。タイトルの「HHhH」はHimmlers Hirn heiße Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の略であるらしい。字義通り、ヒムラーの右腕としてユダヤ人大量虐殺の首謀者となった彼は「第三帝国で最も危険な男」「金髪の野獣」と呼ばれたそうだ。

 帯にもあったのでいわゆる歴史小説的なものという認識の上で読み始めたが、物語は著者の一人称で進んでいく。自分の研究の過程を綴っているという印象を受ける。登場人物の情感を溢れんばかりに描写するというよりは、事実を忠実に再現することをめざすなかでの著者の考え方や葛藤の表現のほうが目立っている。
 とはいえ、物語=ここに描かれる歴史は色あせるものではない。戦時下のウクライナ・キエフでのドイツ空軍選抜チームと地元チームのサッカーの特別試合3戦。勝利が何に結びつくのかを理解しながら、スポーツ選手として手を抜くことを潔しとせず、あえてその命をスポーツに捧げた選手たち。ハイドリヒ襲撃に対する「八つ当たり」にすら見える、どこまでも無益なだけに人間業とは思えないリディツェ村の虐殺――いやむしろ「消去」というべき行為かもしれぬ。
 そして追い詰められていくハイドリヒ暗殺計画「類人猿作戦」の実行者たち。もとより生きて帰れるとは思っていなかった彼らは、出口のない隠れ家で最期まで抵抗を続けた。死ななければならないとわかっていても、死が訪れるまで自分がやり続けなければならないと思ったことをやり通したと言える。あまりにも壮絶であるが、自らの作戦参加の意義を見失わないということと同様に、ナチの狂気によって命を落とした数多の人々を弔うためのものでもあったのかもしれないと思う。

「高い城の男」(著:フィリップ・K・ディック/訳:浅倉 久志)

2014-07-12 19:56:51 | 【書物】1点集中型
 ディックの歴史改変もの。第2次大戦の勝敗が逆になった世界というのはわりとよくある題材だと思うが、それをあのディックがどう描くのかが気になったので読んでみた次第。1962年の作品だそうだ。

 枢軸国側の勝利なので、ユダヤ人排斥は続いていて、アメリカでは日本人がそれとなく幅を利かせている。そして、この世界での歴史改変ものといえる、もし連合国側が勝利していたらという前提で書かれた発禁小説「イナゴ身重く横たわる」の物語世界が、それを読む登場人物たちを通して展開する。小説の中の小説、虚構の中の仮想現実、さらには我々の生きる今の世界という3次元展開だ。
 「イナゴ身重く横たわる」は、ただの小説ではない。正体不明の作者を追ってたどり着いた答えが、実は「易」である。易経を片手に筮竹を繰る欧米人、というのがなんとも不思議な雰囲気。でも、どちらかというとそれが日本文化として捉えられているような描き方なのは、ちょっと違和感を覚えるところではある。基本的には中国のものだし。
 ただ、著者自身が易経に凝っていたというのが、この作品がこうなった要因のひとつでもあるらしい。実際に、執筆途中で易を立てて登場人物の行動を決めたことがあるという。易そのものが最後はまるで人間のように存在するのが(歴史改変という、ある意味SFっぽくないSFの中で)、最大のSFっぽさかもしれない。

「囁きと密告─スターリン時代の家族の歴史(上)(下)」(著:オーランドー・ファイジズ/訳:染谷 徹)

2014-07-06 19:35:14 | 【書物】1点集中型
 「KGBから来た男」の謝辞に出ていた本のひとつ。何の気なしに借りてみたのだけど、思ったより分厚くてびびる(笑)。で、実際に読んでみると、久しぶりに全然読み進められない本だった……思った以上に時間がかかってしまった。いろいろ私事で忙しいこともあったんだけど、上巻だけでも1ヶ月……

 モノとしては、スターリン主義全盛期のソ連で市井の人々がどう生きてきたか、資料や聞き取りなどの調査で判明したと思われる事実を、著者の主観を一切交えず淡々と綴っているだけだが、とにかく内容が濃い。著者曰く、スターリン時代の政治体制そのものが直接のテーマでではなく「スターリン主義がいかにして人々の頭脳と感情に浸透し、人々の価値観と人間関係に影響を及ぼしたかを解明する」ことがテーマである。
 なので、グラーグでの生活の詳細などはそれほど言及は多くない。とにかく人々が体制の中で生き残るため、すなわちソヴィエト体制に完全に順応するために何をしなければならなかったかを解明するものだ。「二重生活」という言葉が良く出てくるが、こう言われるとやっぱり「二重思考」即ちオーウェルの世界を思い出さずにいられない。また、「あらゆる生活が政治の影響下にある以上、いわゆる個人の非政治的な『私的生活』など存在してはならなかった」という話は、「政治的生命」がすべてに優先するかの国の体制を嫌でも連想せざるを得ない。さらには、「家父長制度は支配する結婚制度は、その付随物である旧式な性道徳とともに消滅し、『愛情に基づく自由な結合』に取って代わられる」って、これ「すばらしい新世界」まんまじゃないか! とこれまた思うわけである……
 すべてが複数の家族の共有となる共同住宅「コムナルカ」での生活は、24時間365日互いを監視し監視される状況を作った。誰に対しても気を許せないし、ろくな密室もない住居では、どこで誰が聞き耳を立てているかもわからない。どれだけ神経が磨り減ることだろう。

 「党の決定に盲目的に服従する彼らの姿勢は革命を擁護する気持ちから始まったが、やがてスターリン独裁の擁護へと変容していく」

 「すべての情報源から同じ情報が与えられ、情報の解釈の仕方もひとつしかなかった」
 こうした社会体制の影響は芸術の世界にも広く及んだ。社会主義リアリズムは「現実をその革命的発展過程の中で把握し、歴史的な意味で具体的に正確に表現する」と公式に定義されたが、それはつまり「芸術家の役割は世界をあるがままに描くことではなく、共産主義が実現した暁にあるべき姿(すでに一部実現しつつある姿)として描くことである」ということだった。考えただけで眩暈がする。けれど人間は、強いられたものであってもその環境に適応することができてしまう。そしてそのために、人間的な感情を殺さずにいられなくなる場合がある。
 スターリン主義が浸透していく1930年代後半になると、どのエピソードをとっても密告と監視の話になる。「親しい人間を密告することこそが、『ソヴィエト市民』としてに自分の真価をを証明するあかし」なのである。部下が上司を、子が親を密告し、憎むことも当たり前になる。そして親は子どもを守るために、子どもから親との絶縁を宣言させるよう仕向ける。もはや血縁による家族など何の意味もない。すべての人間の親は国家であり、国家以外に子の親は存在しない。そんな社会。
 だから、読みながらそれが当たり前になるような、その酷さを感じる感覚が麻痺してくるような気さえしてくる。そこで持ってこられた上巻最後のとある女性の死のエピソードは、最後に持ってこられただけに衝撃的だった。

 下巻はちょっと間をあけてから読むことになった。そしてやっぱり1ヶ月かけてしまった。(笑)
 「人民の敵」の子供たちを待ち受ける孤児院での非人間的な生活、社会からのいわれなき(もちろん、当時のソ連社会としては十分な理由があったわけだが)不当な扱いに始まり、遂にソ連は対ドイツ戦争へ突入する。しかしこの戦争はソ連市民たちにとって「必要に迫られての、やむにやまれぬ事態だったとはいえ、人々は自分の頭で考え、自発的に行動するように」なり、「人々の間に連帯感が復活したという意味で、自由と幸福が感じられた時代」ともなったという。一生涯、自由と幸福を感じることができないことに比べればまだましなのかもしれないが、戦争のいつとも知れぬ死の恐怖の中でなければそれを感じることができなかったことそれ自体は、やはり大きな不幸であったといえよう。
 しかしこれらの経験は、スターリンの指揮のまずさと相まって人民にスターリン体制への疑問を持たせるに至る。抑圧されている「人民の敵」もしばしば、生活の中で声を上げるようになってくる。それでも、あまりにも過酷な抑圧は、本来自然にある親子の感情すらも回復不能なものとしてしまった。労働収容所での苛烈な体験が親の社会復帰を困難にし、子はそんな親を受け容れることができなくなってしまっている。また、収容所での生活が人の心を蝕み、愛情のなんたるかを理解することも、人を想う心を持つこともできなくなってしまった人もいる。

 そして、スターリンの死からフルシチョフの台頭があり、労働収容所から人々が解放され始めた1950年代。多くの人々はしかし、自らを地獄に陥れた密告者を許していた。彼らは「人々が恥ずべき行為をしたのは国家に強制されたからだという認識」を確かに持っていたのである。
 人々は皆、それが体制の罪であると理解していた。しかし、密告する者も、逮捕する者も、そして収容所に送られる者も、理解していながらも何もできなかった。そして、多くの人が罪なきままに命を奪われ、自由を奪われ、人間らしい生活や心までをも奪われてしまったのである。自分の過去を、家族の過去を、体制が変わっても誰にも打ち明けることができない。常に心にそんな闇を抱えたまま、閉塞感の中で暮らさざるをえなかった人々。
 しかし体制側にいて抑圧を「仕事」としていた人々の多くは、それを全く仕方のないこととして捉え、罪悪感を持つこともなくその後も普通の暮らしを続けていたという。また、囚人労働者として工場やダムや都市の建設に従事した人々の中には、自分がそのことによって社会に貢献したということに、そのときそこに生きていた意味を見出していた人も少なくなかった。そして、90年代を過ぎても体制に対しての恐怖を拭い去ることができなかった人々。

 心の中では囁き続けていたが声には決して出すことのできなかった、自分が自分であることの証を、人々がやっと口にすることができる時代が来た。そしてこのソ連の歴史のような経験をしている人々はまだ、世界には数多いるはずなのである。ロシアだけでなく。

「ウール(上)(下)」(著:ヒュー・ハウイー/訳:雨海 弘美)

2014-07-03 22:29:12 | 【書物】1点集中型
 有害物質に汚染された地表を逃れ、地下144階建ての「サイロ」に暮らす人類。サイロの「掟」に背いた者は、僅かな時間しか生き延びることができない防護服を着せられ、サイロから外を見るレンズを磨く「清掃」の刑を科せられ、サイロから追放される――。ちょっとSF風味でありつつ、前時代的でもある不思議な設定に惹かれて借りてみた。

 ジュリエットが全体の主人公と言えるのであろうが、物語の中で彼女が動き出すまでにえらい時間がかかるので(笑)、上巻は話がなかなか本題まで進まないなぁという印象。サイロの社会の全容を語ったところで上巻が終わったというか。しかし、ジュリエットがいよいよ閉鎖された空間から外に出て、それを知ったサイロの「市長代理」バーナードの尋常ではない慌てぶりを見るにつけ、このあとどう展開するのかな? と、期待しつつ下巻に進む。ジュリエットが出会った星探しの青年ルーカスの父親にも秘密がありそうなところが気になる。
 で、その下巻であるが、ジュリエットとサイロ18号がずっと離れた状況で、かつルーカスはひたすら勉強中(笑)なので、話が進まない感は最後まであんまり変わらなかった。いや本当は動いてるんだけど、全体的に一本調子な雰囲気。終わりは予想できた話ではあるけど、ちょっとあっけなかったかな。そして17・18号以外の世界の全体像も、ルーカスの「勉強」を通しての断片的な言葉以外ほとんど見えてこない。だから余計、あっけなさが強調されたという感じかな。

 でも解説見たら実は3部作だそうで! ああ、だからこんなわからないままなんだ~と納得。今作はあくまで序章と思うことにする。全体の世界観、ディストピアものは嫌いじゃないので続編も気にならないわけではないが、もう少し意外性とか勢いがほしいかも。けど、次回作は「ウール」より前の時代の話なんだよね(笑)。
 そんで映画化もされそうな勢いだが、しかもそれがリドリー・スコットの手になりそうだということで、そーなると今まさに(今さら)「NUMBERS」を面白く観ている私としては俄然興味が出てくる。このディテールのわからなさ加減をうまくまとめてより面白くしてくれればいいなぁ。

 それにしても大森望氏の解説って(翻訳もか)わかりやすいな~。すごくありがたい。そういえば解説に出てきてる「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」って、読みたいと思っていながら忘れてしまってた! 読もう! ……と思ったものの、これが「トワイライト」のファン・フィクションだと言われるとそこからさかのぼって読まないとならないのか? ドラマだけでも見ておけばよかったか(笑)。

「東京プリズン」(著:赤坂 真理)

2014-07-02 23:20:21 | 【書物】1点集中型
 タイトルだけで安直にも巣鴨プリズンを連想してしまったのだが、本題は東京裁判であったので巣鴨プリズンは全く出てこない(そこに入っていた人たちの名前は出てくるけど)。その意味では、ちょっと思ってた内容と違ったのだが、そこはまあ私自身の早合点である(笑)。
 アメリカの最果ての町に留学中の少女マリ。マリの夢の中の体験。のっけから、現実と非現実の境界がぼやける。前半だけだと何を伝えたいのか若干わかりにくいんだけど、主人公が留学先のアメリカで課された「天皇の戦争責任」をテーマにしたディベートのに入ってからがわかりやすかった。ただ、母親の話はちょっと中途半端に感じたかな……わかることはわかるけども、物語の中で消化しきれてない感じで、いっそヘラジカのほうが重要度が高いくらいに思えてしまった。

 でも最終的に見えてくるテーマは日本人が日本人としてあるために本来とても重要であり、なのになぜか突き詰めて考える機会がほとんどないものである。日本にとって、日本人にとって、天皇とは、本当は何であるのか?
 「『天皇が日本の象徴である』と口にするのは簡単なのだが、その意味を私たちの誰も本当には実感しておらず、本当にそれを問うたら、日本とは何かを問わなければならない」――問題は、まさにそこなのだ。「日本の中学校では、近現代史に触れることは暗黙の、公然とした、タブー」であり「カリキュラムは……時間切れになるようになっている」とまで見るのはさすがに穿ちすぎと思えなくもないが、ただ(実際にそうであるかどうかは別問題として)そうやって裏を見ようとすると、別の言い方をすれば、考える時間がないのをいいことに考える必要のないこととしてきたとも言える。

 「積極的に責任を引き受けようとしなかったことが、私の罪である」
 望むと望まざるにかかわらず、人は環境に置かれる。しかしその環境下で生きるしかないのであれば、誰もがそうであるのならば、誰もがそこで自らの依って立つための礎を見出すことが必要になるのだろう。そして、それこそがその人の負う「責任」そのものではないのか。
 男性と女性になぞらえて占領する側のアメリカと占領下の日本が表現されていたのは、なるほどなという感じだった。そして、天皇制と一神教としてのキリスト教の対比。どちらが善いか悪いかではなく、自分と相容れないものの見方あを受け容れることができるかどうか。このディベートの進め方、戦勝者側の決める「罪」の論理、これが(そのすべてではないにせよ)アメリカ的な見方の縮図ということなのかな。
 本当は、もっと知らなければならない。この手の本を読むたびに毎度そう思う。曖昧なままでは、何が罪なのかを判断することもできないし、持つべき誇りを持つこともできない。愛すべきなのかそうでないのかを考えることも、愛する術を探すこともできないのだ。