life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「絞首刑」(著:青木 理)

2013-05-31 23:58:06 | 【書物】1点集中型
 死刑がどのように執行されるものなのかを初めて知ったのは「13階段」(高野和明)を読んだとき。「13階段」は小説だけど、描かれていた執行の手順自体はリアルなものなので、相当生々しく感じたのを覚えている。事件の加害者と被害者の間には、刑を執行する刑務官の存在がある。それが仕事であっても、人を殺すことに何らかの形で関わるということが、人を無心でいさせられるはずがない。
 このルポでは、それをのっけから「事実」として追体験し、そこにあらためて「強制的な死を与える」ことの生々しさと、「人間を人間が殺す」という行為自体への暗澹たる思いを感じることになった。

 今回は珍しく解説が誰かとか全く確かめず(別に誰が解説してるかで読むか読まないかを決めるわけではないんだけど、概要を知るために解説を先にめくるのをよくやっちゃう。でも今回はそれをやらなかった)読み始めて読み終えたので、その解説にたどり着いたらなんと高村薫氏であったことに相当びっくりした。ちょっと嬉しいドッキリというか。
 テーマがテーマだし、この文庫の刊行が昨年11月ということもあってか、「冷血」で触れた言葉がいくつか出てきていた。曰く、「圧倒的な熱量をもっている人間」――たとえば、小森淳と著者との対話の臨場感は、小森の人間としての存在感を感じさせる。

 死刑は、司直の手を介する加害者への復讐であるという捉え方もある。だからと言って単に赦すことが必要なのだとは思わない。ただ、赦すことはできなくても「生きて償え」と加害者に言うことのできる被害者遺族も確かに存在する。それは、償うことを必死に考え続ける加害者の思いが被害者遺族に伝わったからでもある。
 その一方で、「やはり生きていてほしくない」と思う被害者遺族もいる。そして、もしかすると冤罪であったのかもしれない刑も存在する。そんなさまざまなケースがこのルポでは取り上げられており、多方面から死刑制度の現実を見ることができるようになっている。

 私自身は少なくとも現段階では廃止論者ではない。ただ、人が人を裁くという行為は、完璧ではありえない。だからこそ審理はあらゆる方面から尽くされるべきだろうし、尾形英紀の「将来のない死刑囚は反省など無意味」という衝撃的な言葉には、反論する根拠も見つからないというのが本音である。
 「主権者として死刑制度を求めておきながら、死刑執行の実際までは知る必要がないというのは、明らかに筋が通らない」という高村氏の言葉は、非常に説得力がある。結論が容易に出る問題ではないが、そこに存在する限りは、一度は真剣に考えておくべきことだとあらためて思わされる1冊だった。

「数学小説 確固たる曖昧さ」(著:ガウラヴ・スリ&ハートシュ・シン・バル/訳:東江 一紀)

2013-05-30 21:58:10 | 【書物】1点集中型
 タイトルの不思議な雰囲気もだけど、装丁も好きな本。
 主人公の学生ラーヴィが、祖父が涜神罪で逮捕された過去を持つことを知り、その理由を探るなかで、祖父の数学論理をひも解いていく……というようなストーリー。

 時に議論を戦わせつつ、師ニコから熱心に学ぶラーヴィたちの様子を見ながら、簡単な数学をちょっと復習できたような気分にもなるが、基本的にやっぱり記号の羅列になる数式が苦手なので(笑)肝心のユークリッド幾何学については結局わかったようなわからないようななんだけども、「数学って論理なんだなー」という当たり前のことをあらためて実感した。
 ヴィジェイと判事の果てしない会話と、そこから生まれたヴィジェイの信念の揺らぎ。さらに、その揺らぎからヴィジェイが新たに掴んだもの。数学も本当は全能ではない。全能ではないけれども、少しでもその証明可能な範囲を、真理と言える範囲を広げようと進んでいくのが数学でもある。ちょうど今「不可能 不確定 不完全」も(相当長い時間をかけて)読んでいるところなので、双方が言わんとしているところの共通項を感じたり。

 数学の確固さを形作っているものは、実は曖昧さでもあった。曖昧さを知るが故の、その曖昧さの根拠が論理なのではないか。論理的で哲学的で、深遠だけど真摯な愛情に満ちた物語だと思う。

「1922」(著:スティーヴン・キング/訳:横山 啓明・中川 聖)

2013-05-22 23:59:58 | 【日常】些事雑感
 「Full Dark, No Stars」という中編集から2作を収録したもの。残り2編は「ビッグ・ドライバー」という別冊で出ているらしい。

 「1922」はこれぞキングという印象を受けるホラーだった。妻殺しの描写と、ウィルフレッド(と息子ヘンリー)の底なし沼のような転落ぶりには圧倒される。実のところ、スプラッタ的な描写は私自身あんまり好みじゃないのだが、そういう好き嫌いとは全く別のところで「読ませる」力がものすごい。画を想起させる部分と、ウィルフレッドの精神がどんどん蝕まれていく様子が相乗効果を起こして、眼が釘づけになってしまう。
 「公正な取引」は作中に示唆がある通り、まさに「悪魔との取引」である。でも、主人公=悪魔(であるかもしれない何者か)と取引をした人間にとっての最高の状態でエンディングを迎えているというのが、ちょっと独特な雰囲気を残すところ。これを因果応報ととることもできるし、でももしトムがその後エルビッドに出会い、ストリーターと同じことを願うとしたらどうなるのか? と考えてみたりもできる。さらには、ストリーターに共感するのか反発を覚えるのか、そしてなぜ自分がそう思うのかを考えると……むしろ熟した毒があるのは、こちらの物語の方かもしれないなと思う。

 こうしてある意味対照的な2作を読むと、じゃあ「ビッグ・ドライバー」はどんななんだ、って気分にどうしてもなっちゃうなぁ。なので、折を見て読んでみようと思う。

「ブラウン神父の童心」(著:G・K・チェスタトン/訳:中村 保男)

2013-05-17 22:03:06 | 【書物】1点集中型
 「シャーロック・ホームズものと双璧をなす短編推理小説」という煽り文句に惹かれて読んでみる。って、ホームズものも子供のころに読んだきりなので全然覚えてないんだけど(笑)。でもBBCの「シャーロック」とロバート・ダウニーJr.の映画は見た。どっちも本家に忠実ではないけど面白かった。

 で、本題のブラウン神父だが。
 本人は、ずんぐりした体型によれよれの帽子と傘を携えたちょっと間抜けな姿で登場する。それだけでも、何か裏がありそうな「曲者」的な雰囲気が充分というものである(笑)。まあ実際は裏というよりも、表には見えない能力がその頭脳に秘められているといった具合だが。
 さらに、冒頭の「青い十字架」でブラウン神父と追いかけっこをしたパリ警察のヴァランタンが、続く「秘密の庭」では意外な変貌を見せ、同じくのっけから登場する国際的窃盗犯フランボウは、気づいてみれば私立探偵となりブラウン神父の友人であり相棒ともいえる立場に収まっている。まるで人間の変転の思いがけないことが、そのまま物語になっているようでもある。
 あと、ブラウン神父とフランボウは見た目いわゆる凸凹コンビというやつで、お互いにキャラが立っていて頭の中に画を描きやすい。ちょっと漫画ちっくになるが(笑)
 
 ブラウン神父は、ちんまりしたどんぐりみたいな容姿とは裏腹に、職業柄見てきたさまざまな人間の心や行動を拠りどころに、事件の周辺にある人々を鋭く見極めていく。推理小説らしいトリックも豊富なのだが、それをどちらかというと証拠からではなく人間(犯人)の心理的側面から解き明かすといった風。
 言ってしまえば、決定的な証拠なし(ゼロというわけでもないが)で犯人にたどり着いてしまったうえに、そのあまりの読みの鋭さに犯人もぐうの音も出なくなってしまう……といったところか。そういう意味では、ホームズの推理方法とは別の極みにある。人の心の機微をとことんまで追いかけていった結果として事件の全容が明らかになるという点では、推理小説の形を借りた本格派文学とも言えるのかもしれない。解説に書いてあったことに、そんな風に共感した次第である。

「最終定理」(著:アーサー・C・クラーク&フレデリック・ポール/訳:小野田 和子)

2013-05-12 21:20:48 | 【書物】1点集中型
 フェルマーの最終定理の新しい証明方法を追求する青年ランジットを主人公に据えた物語という点に興味を惹かれて読んでみる。実際問題、現在のところワイルズの証明を凌駕するものは発表されていないのだからして、このネタをどう扱っていくのかが気になったし、そもそもがクラーク作品ということで、読みにくさはないだろうという安心感があったので。

 読んでみたら、確かにランジットは最終定理をワイルズよりもエレガントな方法で証明したことになっている……のだが、もちろん証明の詳細は明らかにはならない(当たり前なんだけど)。
 で、その「最終定理」自体は実は物語の中ではそれ以上のものではない。物語はワイルズの証明よりもさらに素晴らしい証明を成し遂げたランジット・スーブラマニアンの人生を巡るものなのである。

 海賊に拉致されたり、拷問を受けたり、かと思えば一躍学界(のみならず)の寵児となりったランジットの波乱万丈。そして親友ガミニや最愛の妻・マイラ、恩師ヴォーハルスト、怪しげなUSMC退役中佐ブレッドソウなどなど、ランジットを取り巻くさまざまな人々。さらには地球を「滅菌」するべく、銀河の彼方から押し寄せる異星人たち。
 ソーラーセイル・シップやグランド・ギャラクティクス=天帝(オーバーロード)といった要素は、これまでのクラークの作品と共通するネタなんだけれども、なんか全体としてそういうクラークの持ち球の数々をあらためていろいろ取り出してパズルしてみました、という感じの話に見える。だからちょっと散漫な印象も受けた。

 それもあって実は、読み終えていちばん強烈に印象に残ったのが、ランジットとマイラのものすごいラブラブぶりだったりする(笑)。いや、羨ましいぐらいに……
 なので実は、SFらしいSFというふうにはあんまり感じてない(でももちろんSFなんだけど)。最後の最後、これから地球と異星人との関係はどっちに行っちゃうの!? という段階でずいぶんあっさりと場面転換されちゃったし(笑)。SFとしてはちょっと微妙な印象は受けたけど、ランジットの物語として読む分には山あり谷ありでそれなりに面白かったし、エンタテインメントだとは思う。

 しかし、あとがき<その3>にあった、ワイルズの証明を「多くの偉大な数学者が、これをうけいれることを拒否している」という点には、意外とは言わないけどやっぱりちょっと残念な気持ちが残る。
 確かに、ワイルズの証明にはフェルマーの時代にはなかった数々の手法が採り入れられているのだから、フェルマーと同じ考え方ではありえない。「フェルマーはその時代までにあった手法で最終定理の証明をどう描いていたのか」という考え方に基づく(ランジットの)証明の方がおそらくよりエレガントであろうことは、想像に難くない。でも、だからといってワイルズの、それまで(フェルマー以外に)誰もなしえなかった証明を成立させたという功績が否定されるべきだとは思えないから。

 もう1人の作者であるフレデリック・ポールの作品はまだ読んだことがないので、この物語でポール氏のエッセンスがどの辺にあるかはちゃんと理解していない。が、たぶん数学にまつわる話はよりポール氏の力が入っているところなのだろうな。

「平翠軒のうまいもの帳」(著:中島 茂信)

2013-05-10 23:04:04 | 【書物】1点集中型
 ネットを彷徨っている間に、「カンボジア産の生コショウの塩漬け」なるものを見つけた。胡椒好きの私としては「おおっ!! なんか旨そう!!」とならざるを得ず(笑)、それが平翠軒の取り扱い商品であることを知り、平翠軒とはどんなお店なのか? と検索した結果、この本にたどり着いた次第。

 倉敷の「森田酒造」の当主・森田昭一郎氏が、酒造りの傍ら開いた「全国のうまいもの」を集めた店「平翠軒」。「どんな人がどのようにして作っているかがわかるもの」「メーカーとの直取引」という基準で集められたさまざまな食品・飲料の一部が、この本で紹介されている。メーカーのパッケージをそのまま使うものもあれば、平翠軒が買い取ってパッケージしなおしてプライベートブランド化しているものも。
 それらの商品の一つひとつについて、出会いのきっかけはもちろん、作り手の様子から作られる様子まで余すところなく語られる。これだけ説明されればやっぱりちょっと買ってみたくなろうというもので(笑)、そのうえ価格設定も決して手が出ないところにはなく、「ちょっとひとつ試しに」くらいの気持ちで買ってみることができそうな価格帯なのである。問題は、通販になると送料が高いのでそこで悩んでしまう(笑)

 というわけなので、読んだばかりでもあるし、まだ「お取り寄せ」しよう! というところまでは行っていないのだが、食べたいと思うものはここにあるだけでも山のようにある。特に、私は下戸のわりに酒の肴になるものが大好きだったりするので、「サバスモーク」や「ハモン・セラーノ」、「富夢富夢のベーコン」や「吉田牧場のラクレット」、さらに「かきの塩辛」「鯛の塩辛」、「リエット ル・マン スペシャリテ」なんぞはもう、読んで想像しただけで食べてみたくてたまらないのである(笑)。あと「鴨ロース」や「浜作の牛タンシチュー」も……。
 イタリアのミックス・スパイス「ペッシェ」もサラダの味つけやトマト煮込み料理なんかに使ってみたいなーと思うし、焼き鳥屋の特製スープで炊いた「ろく助の塩」なんかも「お湯に溶かすだけですまし汁になる」なんて言われると、まんまと使ってみたくなる。飲み物なら国産紅茶「五月紅茶」や「夏みかん天然ジュース」。1個の夏みかんから2枚しか取れない素材を使った甘露煮「夏みかんスライス」も、じゃあたとえばマーマレードみたいなものとはどう違うのか比べてみたくなる。

 巻末には森田氏のこれまでが綴られてある。「暮らしの中の食べ物」を扱うという観点、食の安全に配慮する中で「全ての食品添加物が悪ではない」ことも理解していること、加えて「安全で安くてうまいものなど金輪際ない」と言い切れること、それが平翠軒の個性を形作っているのだろうと思う。
 倉敷に行くのはけっこう大変だけど、どうやら横浜そごうにも出店しているらしいので、まずは今後関東に行くときにそちらに立ち寄って商品を見てみたい。

「イメージ―Ways of Seeing 視覚とメディア」(著:ジョン・バージャー/訳:伊藤 俊治)

2013-05-02 23:49:32 | 【書物】1点集中型
 文庫を見かけて、気になったので借りてみた。そしたらなかなかに年季の入った単行本だった。原題「Ways of Seeing」が示すように、「見ること」の意味の歴史の中での変容を芸術から広告までの広範囲で検証するというもの。

 思った以上に読み進めるのが大変で(笑)ちょっと、いやけっこう苦労したんだけど、「見られる」存在としての女性、描かれた対象物の所有者たることを示すための絵画、「見る者の現実の生活に対して最大限の不満を抱かせようとする」広告……という、それぞれの時代における絵画等の立ち位置の解釈には「なるほど!」と思わされる。
 さらに、本編を踏まえて読む訳者の論「見ることのトポロジー」は、その後の時代の変化を示している。いろいろな論述からの引用も多いので文章量が多くてこれまたなかなか進まなかったんだけど(笑)本編より現代に近くなっているためか、「見ること」の位相の変化がより飲み込みやすく感じられた。

 見ることは単に対象を見るという視覚による行為だけでなく、対象が置かれた空間をそこに立つ自分が知覚することも包含している。さらに、たとえば美術館の展示作品であればそれに添えられた解説文と照らし合わせて作品を見ることによって、作品から受ける印象が変化する。
 つまり、「見る」と言いながら、ひとは実は五感すべてによって対象物を認識している。しかしそれは実は「見せられる」状態ともなり得るということで、「見る」という能動が知らぬ間に受動へと変化しているということだ。鑑賞者の「見る」という行為を通して、鑑賞者側に見せる側(作成者側)が望むイメージを受け取らせる状態であり、言うなれば広告が本質的にめざしているのもその形であろう。
 自分が自分の意思で、見たものを捉え、その意味を考え、自分の言葉で組み立てる。今や、その行為は実は思うほど簡単なことではないのかもしれない。

「一九三四年冬―乱歩」(著:久世 光彦)

2013-05-01 01:59:11 | 【書物】1点集中型
 初めて読む久世作品。なので、もともとどういう作風なのかはわからないんだけども、なんだか実体がはっきりしない「張ホテル」とその従業員の中国人美青年・華栄がいる時点で、乱歩作品のあのえもいわれぬ妖しげな雰囲気はもはや成ったも同然という感じ(笑)。いや、恥ずかしながら乱歩もそんなに読み込んでるとは言えないが、耽美系ゴシックホラーみたいな(ものすごくアバウトなイメージだけど)。

 しかし、そんな乱歩の作品世界とは裏腹に、スランプに陥って張ホテルに身を隠した乱歩の姿は、江戸川乱歩という名前を差し引いて見ると、頭の薄くなったただのしょぼくれた中年男性。かつ、ミセス・リーの美しさにうつつを抜かしてみたり、華栄青年を邪魔にするんだかその姿に鼻の下を伸ばすんだかしてみたり、なんだか行動もいちいち間が抜けている。
 そしてまたそんな乱歩自身とは裏腹に、彼が張ホテルで着手した作品「梔子姫」がまたものすごい。この世ならざるものとしか思えない美しき唖の娼婦・梔子姫、彼女を愛してしまった〈私〉。事細かに描かれる梔子姫の肢体の異常さを、読みながら想像するだにグロテスクささえ感じるのだが、その時点でもうこの作品が乱歩のものか久世のものかが判別しがたいような感覚に陥っている。書いている乱歩が、書きながら現実と虚構の狭間に立っているように。

 乱歩を脅かしていた隣の部屋からの「視線」や、得体の知れないミスター・リーや一度も現れないホテルの主人・張やら、探偵小説っぽい謎を撒き餌のように散りばめておきながら、最終的にはそれらのどれもがはっきりしない。結局のところは、乱歩の思惟に始まり乱歩の思惟に終わる物語。その帰結が示すのはやはり、小説家の業みたいなものなのかなぁ。
 解説が井上ひさし氏なのだが、この作品で、乱歩らしい雰囲気、まさに1934年の雰囲気が作り上げられているのは「半死半生語を細心の注意をもって使っている」からだという読み方はすごく納得できる。さすがの解説。