死刑がどのように執行されるものなのかを初めて知ったのは「13階段」(高野和明)を読んだとき。「13階段」は小説だけど、描かれていた執行の手順自体はリアルなものなので、相当生々しく感じたのを覚えている。事件の加害者と被害者の間には、刑を執行する刑務官の存在がある。それが仕事であっても、人を殺すことに何らかの形で関わるということが、人を無心でいさせられるはずがない。
このルポでは、それをのっけから「事実」として追体験し、そこにあらためて「強制的な死を与える」ことの生々しさと、「人間を人間が殺す」という行為自体への暗澹たる思いを感じることになった。
今回は珍しく解説が誰かとか全く確かめず(別に誰が解説してるかで読むか読まないかを決めるわけではないんだけど、概要を知るために解説を先にめくるのをよくやっちゃう。でも今回はそれをやらなかった)読み始めて読み終えたので、その解説にたどり着いたらなんと高村薫氏であったことに相当びっくりした。ちょっと嬉しいドッキリというか。
テーマがテーマだし、この文庫の刊行が昨年11月ということもあってか、「冷血」で触れた言葉がいくつか出てきていた。曰く、「圧倒的な熱量をもっている人間」――たとえば、小森淳と著者との対話の臨場感は、小森の人間としての存在感を感じさせる。
死刑は、司直の手を介する加害者への復讐であるという捉え方もある。だからと言って単に赦すことが必要なのだとは思わない。ただ、赦すことはできなくても「生きて償え」と加害者に言うことのできる被害者遺族も確かに存在する。それは、償うことを必死に考え続ける加害者の思いが被害者遺族に伝わったからでもある。
その一方で、「やはり生きていてほしくない」と思う被害者遺族もいる。そして、もしかすると冤罪であったのかもしれない刑も存在する。そんなさまざまなケースがこのルポでは取り上げられており、多方面から死刑制度の現実を見ることができるようになっている。
私自身は少なくとも現段階では廃止論者ではない。ただ、人が人を裁くという行為は、完璧ではありえない。だからこそ審理はあらゆる方面から尽くされるべきだろうし、尾形英紀の「将来のない死刑囚は反省など無意味」という衝撃的な言葉には、反論する根拠も見つからないというのが本音である。
「主権者として死刑制度を求めておきながら、死刑執行の実際までは知る必要がないというのは、明らかに筋が通らない」という高村氏の言葉は、非常に説得力がある。結論が容易に出る問題ではないが、そこに存在する限りは、一度は真剣に考えておくべきことだとあらためて思わされる1冊だった。
このルポでは、それをのっけから「事実」として追体験し、そこにあらためて「強制的な死を与える」ことの生々しさと、「人間を人間が殺す」という行為自体への暗澹たる思いを感じることになった。
今回は珍しく解説が誰かとか全く確かめず(別に誰が解説してるかで読むか読まないかを決めるわけではないんだけど、概要を知るために解説を先にめくるのをよくやっちゃう。でも今回はそれをやらなかった)読み始めて読み終えたので、その解説にたどり着いたらなんと高村薫氏であったことに相当びっくりした。ちょっと嬉しいドッキリというか。
テーマがテーマだし、この文庫の刊行が昨年11月ということもあってか、「冷血」で触れた言葉がいくつか出てきていた。曰く、「圧倒的な熱量をもっている人間」――たとえば、小森淳と著者との対話の臨場感は、小森の人間としての存在感を感じさせる。
死刑は、司直の手を介する加害者への復讐であるという捉え方もある。だからと言って単に赦すことが必要なのだとは思わない。ただ、赦すことはできなくても「生きて償え」と加害者に言うことのできる被害者遺族も確かに存在する。それは、償うことを必死に考え続ける加害者の思いが被害者遺族に伝わったからでもある。
その一方で、「やはり生きていてほしくない」と思う被害者遺族もいる。そして、もしかすると冤罪であったのかもしれない刑も存在する。そんなさまざまなケースがこのルポでは取り上げられており、多方面から死刑制度の現実を見ることができるようになっている。
私自身は少なくとも現段階では廃止論者ではない。ただ、人が人を裁くという行為は、完璧ではありえない。だからこそ審理はあらゆる方面から尽くされるべきだろうし、尾形英紀の「将来のない死刑囚は反省など無意味」という衝撃的な言葉には、反論する根拠も見つからないというのが本音である。
「主権者として死刑制度を求めておきながら、死刑執行の実際までは知る必要がないというのは、明らかに筋が通らない」という高村氏の言葉は、非常に説得力がある。結論が容易に出る問題ではないが、そこに存在する限りは、一度は真剣に考えておくべきことだとあらためて思わされる1冊だった。