life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「青い脂」(著:ウラジーミル・ソローキン/訳:望月 哲男、松下 隆志)

2016-04-24 22:27:07 | 【書物】1点集中型
 きっかけは、確かウェルベック「服従」の巻末に紹介があったんだと思う。作家のクローンとその執筆活動によって生み出される「青脂」、スターリンとヒトラーがヨーロッパを二分する社会といったSFらしい世界観に著しく興味をそそられたのである。であるが……いや、読んでみたら予想と全く違うものすごさだった。

 まず第一印象だけで言うと、破壊的にわけがわからなさすぎる。しかしそう思いつつ、これだけ突き抜けると圧倒されて言葉も出ないしとりあえず読み進めたくなってしまうものだなと感心もする。理解しなくていいから黙って見てろと言われてる感じで、まるで前衛芸術だ。文学におけるロシア・アヴァンギャルドとでも言おうか(時代が違うけど)。解説や訳者あとがきで当時の情勢と照らし合わせてくれるので、そこでなんとなくこういう作品が出てきた背景がわかり、だからこういうものが書きたくなっちゃったんだろうなぁと、なんとなくではあるが思わされもする。「イワン・デニーソヴィチの一日」とかが出てくるあたり。
 会話は中国語やフランス語でちゃんぽんされまくり、それでなくてもこの物語世界だけで通じている数々の意味不明語(巻末注もあるが、その注も物語世界内でのみ理解できるのであろう作られ方で、結局具体的な理解は及ばない言葉も多い)だらけ。ぶっちゃけちょっと、いやかなり下品で下劣な描写も多いし、正直スカトロ系にいくと個人的には苦手なんだが、それでも読まされる。読まずにいられない。スプラッタ嫌いなのにキングの描写から目を離せなかった感覚に近い。そして読んでいくほどに常識世界が音を立てて崩壊していくのがわかるのである。円城塔氏が帯に曰く「ソローキンを読むと、小説が書けなくなってとても困る。ソローキンを読むと、小説を書きたくなってとても困る」。この感覚がすごくよくわかる。って私は作家でもなんでもないが、自分の感覚が蹂躙されてしまうというか、理解しようとすればするほどそれが無駄な行為のように思えてならなくなるのだ。そのくせ刺激があまりに強いので、何かこちらの中にあるものを沸き立たせるようでもある。

 基本となる「青脂」をめぐる動きは、スターリンの時代に戻ってからはそれまでよりは比較的わかりやすく流れていく。表面的には友好的に見える第三帝国つまりヒトラーとの関係も、場面が進んでいくにしたがって緊張感を増してくる。そして最後に訪れる究極の破局に度肝を抜かれる。スターリンの脳があんななる場面は、なんとなく「AKIRA」を思い出してしまった(笑)が、それが最後まるで幼児退行のようにひっくり返る。そしてそこにはまた青脂がある。「振り出しに戻る」かのようなボリスの手紙。
 結局のところ、起承転結がはっきりしているとは言い難い……のか、こっちが理解できてないうちに読み終わってしまったからか(笑)という状態が、ピンチョンを読んだときのよう。もう本当に自分が全っっっ然理解していないのがわかるんだけど、なんかハマりたくなる、浸っていたくなる世界観なのだ。そこの住人になりたいとは思わないけど(笑)。なもんで、「氷」からの三部作とか「オプリーチニクの日」からの連作なんかはかなり読みたくなってきた。

「紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす」(著:武田 砂鉄)

2016-04-04 23:46:52 | 【書物】1点集中型
 著者の示す「紋切型社会」とは、「回答のバリエーションを諦めている」つまり二者択一なのに二項対立ですらない、「強制されたわけでもないのに、既存の選択肢にすがる緩慢さが閉塞感を補強する」社会である。胸に手を当てて考えてみればおそらく誰にでも(自分がそうであるか他人がそうであるかは問題ではなく)思い当たる節があるであろうこの現代日本の雰囲気だ。
 著者はそれを言葉という角度からひもとき、解きほぐす。それらの言葉を正面から思いっきり袈裟斬りのごとく斬り下ろしてその断面を観察しまくる。そうした斬られっぷり、解きほぐされっぷりに思わず吹き出しそうになる「言葉」もある。たとえば、東京五輪招致の宣言文から承知後の東京都知事の言葉を考察したあとの「この五輪の物語は、夢を手に入れて希望を作るというのだから、ゲーム会社がコンテンツ化を躊躇う曖昧さだ。空虚が空虚を捕まえている」という一文。これなんかは私にはものすごくツボで、的確すぎてもはや大喜利の世界である。言葉の動きはそのまま社会の流れを映し出す鏡であることがあらためて理解できる。それとともに、言葉の選び方の難しさや、いわゆる「語感」に隠れた落とし穴を見るようでもある。
 また、よく言う「今の若い人は云々」な言葉に代表される世代間の隔絶に対し、「体を現在に預けていけない人は今を語るべきではない。自分と異なる人と対峙しない言論など言論ではない」と断じる。戦争に代表される不幸な歴史は確かにあり、現代もはやそれを知らない世代が大多数であることも事実である。しかし、歴史が語り継がれることの本当の意義は、「昔は大変だった」と言って終わるためにあるのでは絶対にない。それを先の時代に活かさなければ存在価値はない。著者の言葉を借りれば「歴史は現在を見るために使われるべき」で、それを現代としてどう消化していくのかが重要なのである。

 書籍の帯文を例にとり「絶賛」の言葉を考察する章では、話は学生の就職活動にまで及び、メンタルをやられやすいのは「否定され続けるからではなくて、肯定したのに否定され続けるから」と指摘してみせる。そうなのだ、学生に限らずではあるが就職活動ではある程度自分を「盛る」ことが必要になる。自信のかけらもないなけなしの経験(「勝ち組」からしてみればそれも自己責任」なのであろうが)を必死で肯定してみせたのに、最も肯定してほしい相手からは否定され続ける。世の中絶賛だらけで、賛辞に麻痺する。だから言葉が上滑りする。

 「プレスリリース」をそのまま焼き直した記事に、「書き手」としての憤懣をぶつける章もある。実は自分自身、正直なところある程度の「ツボ」を伝えてそこを書いてもらうという仕事をライターさんに頼むことがある。だから身につまされたというか申し訳ないというか、それでも自分の仕事としてはそこを書いてもらわなければならないから伝えざるを得ない(じゃないと無駄に書き直してもらうことになる場合がある)んだよと言い訳したくなるというか。ライターさんからしたら、そんなこと言われなくてもちゃんと押さえるよこっちはプロなんだから、という話なのかもしれないんだけど。
 って、こういう話になると長くなるし本筋から逸れそうなのでこれ以上は措いておくが(実際、著者の言っていることを全否定しているわけでもないので)、ここでは「新たな言葉や表現は、故きを温ねるよりも、眼前の出来事に積極的に反応していく方が生まれやすい」という点が、肝に銘じたいと感じた部分だ。「日本語の乱れ」は存在するし、私自身もそれをあまり好ましく思わない方だが、そう思いながらそんな「乱れた日本語」を使う場面は多々ある。問題は言葉の美醜ではなく、そこに何を見出すかということだ。「拘束されない日本語、乱れ続ける日本語」は、言い換えれば「跳躍力を外から管理されない」「自由にのびのびとどこかへ旅立っていく」日本語である。その「跳躍力」や「自由」が新しい文化を作る礎になる。善かれ悪しかれそれが「時代」になる。それを批評し論じるのもまた本来、「常に整わない環境」の中で「跳躍力」や「自由」を持った言葉であるべきなのだろう。
 そうした言葉の応酬こそが、別の章で語られるように「人と人は非接続であって、圧倒的な単体同士が凝視を繰り返してようやくつながる」ことを実現する。立場を同じくしない者同士であるからこそ、互いを理解するために(それは決して必ず同意し合うためにということではなく)言葉を積み重ねなければならない。言葉には嘘も本当もあるが、言葉という手段でなければ伝えられないことは確かに存在するのである。

 「はじめに」で、著者はこの本を「ひたすら揚げ足を取り続けているように見えるかもしれない」と言った。しかし読み終えてみると、議論とは相手の言葉尻を捕まえたり揚げ足を取ったりすることから始まるのだと思えた――ただし、それに対してあくまでも論理を以って、誠実に意見を述べる(あるいは言葉尻を捕まえ返したり揚げ足を取り返したり)ことの応酬でこそ成り立つものだ。そうして閉塞を打ち破る言葉を持てる人間でありたいと思わされた。
 言葉は確かに人を快くする力も持っているが、不快にする力もまた真実である。しかし、その不快から目を背けては何も生まれない。見る者に希望を感じさせるのも言葉の役目のひとつなら、「その場で起きていることを真摯に突き刺す」こともまた、明らかに言葉の役目である。「言葉は今現在を躍動させるためにある」という結びの一文は、著者の「言葉」に対する姿勢とそれを扱う者としての矜持を感じさせてくれるものである。
 
 余談になるかもしれないが、「情熱大陸」と「ザ・ノンフィクション」の比較がおもしろかった。「情熱大陸」はどちらかといえば(自分にとっては)憧れの世界が描かれる番組だけど、「ザ・ノンフィクション」は(見たことないけど著者の説明からすると)、そこに写された生身の人間の姿こそが人間へのカンフル剤になるのではないかという気がして興味が持てた。それと、本田靖春氏の著書はまだ読んだことがなかったけど俄然読みたくなってきた。

「犬の心臓・運命の卵」(著:ミハイル・ブルガーコフ/訳:増本 浩子、ヴァレリー・グレチュコ)

2016-04-01 21:20:43 | 【書物】1点集中型
 「奇想天外な空想科学的世界にソヴィエト体制への痛烈な批判を込めて発禁処分となった」という紹介にいたく惹かれて読んでみる。借りてみたら、表紙のデザインが洒落ているのも気に入った。ちょくちょく訳注をつけてくれているので、当時の雰囲気を少しなりとも理解するのに助かった。

 「犬の心臓」は、ざくっと言えば、人間の脳下垂体と睾丸を移植された犬の話。その犬がだんだん人間の言葉を話せるようになり、さらには人間の姿に変化していき、生みの親(?)たるドクターに勤労の権利を要求したり、猫を追いかけたり、酒を飲んだり、経済学者カウツキーを読んだり、女性に手を出そうとしたり、方々でいわゆる常識を無視した(というかそもそもが犬の意識なので本能のままに動いているというか)事件を起こしまくる。雰囲気はナンセンスドタバタコメディのようだが、コメディとは言ってもブラックジョーク的な笑いだ。哀れだけど素朴で愛らしささえ感じさせる犬のコロのモノローグから始まる物語が、移植を受けたとたん粗野で根性悪の人間コロフに振り回される喜劇に変わっていくのがなんとも(笑)。
 いわゆる「革命」期のソヴィエトにおける庶民の生活風景や制度を、悪知恵を働かせるような形で利用しようとするコロフの姿が、そのままブルガーコフが体制を利用して権力や財産を恣にする人々に向けた、猛然たる批判であり皮肉であったわけだろう。だからこそ発禁処分を受けるような逆鱗に触れたわけだ。

 「運命の卵」は個人的には「犬の心臓」よりも笑いの要素が強く、クライマックスのインパクトもそれに比例してさらに強烈になっているように思う。トリ=ブタマンスキーとか(笑)「インターナショナル」の替え歌とかタマゴの戯れ歌とか、訳が秀逸だなぁと。かと思えば、物語に最初の破局をもたらした蛇の化け物が人を襲うシーンの描写の迫力がものすごい。どぎつい。リアルに想像できすぎてかなり気持ち悪かった。そういった暴力性が高いこともあって、訳注と併せて読んでるとこちらの物語の方がよりわかりやすい、攻撃性の高い風刺に思える(もちろん善し悪しの話ではなく)。
 どちらも今回はさらっと読んでみただけだったが、まず物語として単純に楽しめた。それに加えて、訳者あとがきを読むとなるほどと思わされる点が多い。そうした時代背景や見方を踏まえたうえでもう1段、読み方を深めてみたくなった。