life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「きまぐれ星からの伝言」(著:星 新一)

2016-11-23 12:36:03 | 【書物】1点集中型
 2016年、星新一生誕90周年企画本。表紙がまさに星ワールド。洗練された知的なお茶目感が出てる。
 単行本にしては文字サイズが小さくてちょっと驚いたが(笑)読めば読むほど興味が深まる内容だった。同じく書籍未収録作品を多く集めた「つぎはぎプラネット」は子供向け学習雑誌や企業PR誌の掲載作品が目立ったが、こちらはエッセイや福島正実氏との対談、SF作家鼎談もあり、氏の作品群の根底にある視点により直に触れられる。そのほか、レイ・ブラッドベリ「都市」の翻訳だったり、SF関係者による星作品の解説だったりもあって、違った角度から作品を感じられるという面白さもある。

 「都市」の翻訳はわかりやすかった。ストーリーも星作品のカラーに近い感じ。そういえばフレドリック・ブラウン「さあ、気ちがいになりなさい」が新しく文庫で出たのも90周年イベント的な意味があるのかな。本屋で見つけたとき、星氏の翻訳だというので気になったので、いずれ読んでみたい。
 ブラッドベリが星氏の原点だったということも、今さら知ったけど「なるほど」という納得感がある。ブラッドベリSFの抒情的な空気感が、星氏のシリアス系作品に通底するようにも思えるというか。私にとってはそれの筆頭作品が「生活維持省」かな。

 福島氏との対談、筒井康隆・小松左京両氏との鼎談にもとても引き込まれた。SF大家たちの生に極めて近い言葉から、SFに対する考え方とか、こうやって作品が創られ、磨かれていくんだなという過程が垣間見える。同時にSFへの愛情も。
 福島氏との対談で、「SFをあんなものと思っている人がいるとは、これこそぼくの日常性への衝撃だ。息がとまりかけた。異常に面白い現象だぞ」という発言があって、表現のユーモアに一瞬吹き出してしまったけど同時に「日常性への衝撃」という言葉に無条件に納得してしまった。なんというか、エンタテインメントとしての存在に求めるのはまさにその「日常性への衝撃」であると思うし。
 私はSFにも純文学にも好きな作品はあるので、「あるものは作家と作品だけで、SFの世界などはないのじゃないかと思う」という星氏の見方に同感である。きっとそういう人は数多いと思う。星氏には、SFを書きたいのではなくて、書きたい世界を書いていったらそれがSFであった、というのが自然な流れに感じられるのだろう。

「ふしぎ盆栽ホンノンボ 」(著:宮田 珠己)

2016-11-13 00:54:49 | 【書物】1点集中型
 タマキング本である。ジェットコースター本もシュノーケリング本も読んでおきながら、ホンノンボ本には今頃やっと手を出した。
 どこにでもありそうで、でもいざ探すと全然見つからないホンノンボの不思議。盆栽といってもそれは正確な訳ではなく、植物よりも岩を中心とした一種の風景そのものである。水を張った鉢の中に作られる小さな島のようなもの。そこに人や東屋のミニチュアが置かれ、ちょっとしたジオラマのよう。ベトナムで思いがけず出会ったこの世界を探検したい、という発想はタマキングらしいが、全体的には思ったほど笑いの要素は多くはない。ゆるいミニチュアに笑うことはあったけども、「ホンノンボと盆栽論」とでも言うべき、意外と真面目な感じ。あれっ? これタマキング? みたいな(笑)。

 「かっこいい言葉で“見立て”ともいうが、つまりこじつけ」とタマキングは言うが、要するに想像力である。想像力だけで楽しくなれるのならば、まあある側面からすると「妄想」とも言われるのかもしれないが(笑)、これ以上安上がりな娯楽はないのであって。ホンノンボの中を探検したい! という思いには共感できるし。
 結果として、定義らしい定義を確実にはできないまま、旅は終わる。しかし人の主観や感覚が他の誰とも全く同じにはならないのと同じで、最終的には「どんなホンノンボがいいと思うか」に収斂していく。ホンノンボの正体を探究しながら、タマキングはまさにその風景の中を探検していたのだな。言ってみれば、自身の内面を旅していたようなものなのかもしれない。

「深海生物テヅルモヅルの謎を追え! 系統分類から進化を探る」(著:岡西 政典)

2016-11-11 22:56:33 | 【書物】1点集中型
 宮田珠己氏のつぶやきから興味を持って。生物そのものというよりは、サブタイトルにある通り、分類学によりフォーカスしている。そもそも分類学が何故必要とされたのか、生物を同定し、分類するということがどういう作業を伴う研究であるのかが、著者の語る自身の活動を通して私のような素人読者にも理解できる読み物だ。

 とはいえ、実は著者は初めから分類学を志していたわけではない。なんとなく進んだ大学で幼いころから抱えていた「『珍しい生物が見たい』という夢」を触発する研究室に出会い、「研究者を志せば、大手を振って珍しい生物を捕まえ、調べ」ることができることに思い当たる。そして、研究活動の何たるかや資金問題などもほとんど考えることなく、思いから生まれる勢いを原動力に研究生活に飛び込んでいく。
 そこで著者はクモヒトデに出会い、分類学研究をスタートするわけだが、その研究はまず大量の文献コピーから始まった。分類対象とした生物に関する文献を収集し、自分専用のカタログを作る。その一方でフィールドに出て海でのサンプリング。さらに持ち帰った試料を標本にする。この標本作りがまた、その生物に合わせたさまざまな対応が必要な作業であり、できあがったもの(理科室のアレみたいな)しか見たことのない者には知る由もない苦労が今さらのように理解できた。

 研究者のフィールドワークはいわゆる自然界の現場だけではなく、世界中の博物館での活動も含まれるということも初めて知った。よく考えれば当たり前の話なのかもしれないが、自分で収集するだけがフィールドワークではないのだなぁと。博物館調査も立派なフィールドワークなのである。
 そしてそうしたフィールドワークから見えてくる日本と欧米の博物館のあり方の違いが、実は宗教観的な影響を大いに受けているものであるという点がおもしろかった。そこにあるものをそのままの存在として捉え、個物の集積に比重が置かれるようになった東洋的観点と、世のすべては神の創造物であるとし、その思想の下に自然界を体系化しようと試みた西洋的観点である。文化の特性がこんなふうに表れてくるとは。

 研究における醍醐味や発見はもちろんのこと、なんとなく知ってはいるけど実感はできない研究資金確保の大変さも折に触れて語られる。学部まではいいが、博士課程にまで進むとなれば、研究費も確保しなければならない。そこで、学術振興会の供与を受けられる特別研究員制度に組み入れられるためのDC採用をめざすという一つの手がある。
 これに採用されんがために論文を書くというのは本末転倒であるけれども、金銭と時間を工面することの困難さを研究者なら誰もが知っているので、研究者の中にはあ理想と現実のジレンマが生まれる。日本だけのことではないかもしれないけれども、研究を取り巻く社会のあり方への課題ではあろう。
 ただ、研究を生業にする身となっては、自分の楽しみのためだけの研究ではなく、社会に何らかの意義を伝えられるものでなければならないのではないかと著者は改めて考えている。理学系や文学系の研究は特に、研究者のそうした考えが世に伝わりにくい分野だと思う。でもこうやって研究者の心のこもった取り組みを知る機会があると、理屈抜きで応援したくなってしまうものじゃないだろうか。そしてそうした姿に影響を受けた新たな研究者が誕生することも、充分に意義と言えると思う。