life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「藤森照信×山口晃 探検! 東京国立博物館」(著:藤森 照信、山口 晃)

2016-06-29 23:09:55 | 【書物】1点集中型
 神保町「書泉グランデ」をうろついていたときに見つけた本。画家と建築家によるトーハク建物(だけではない)ガイド。山口氏はこんな本も手がけているのかーと興味を持ち図書館へ(←買えよ)。

 どちらかといえばビジュアルブックなのでさらっと読めるし、山口氏のこういう挿絵のタッチが大好きなので、それだけでも満足。今まで知らなかったことが多いせいで建物の話の割合が多くは見えるが、所蔵品の話ももちろんある。個人的に家形埴輪の話は新発見。素人な私は、よく知りもせず埴輪と言えば人の形が主だと思い込んでしまっていたが、実は「家形埴輪こそ埴輪の王道」なのだそうだ。そうでなくても家形埴輪は人形のものに負けず劣らず可愛らしくて(笑)この本であらためてちゃんと見てみて、その可愛らしさに心を奪われる始末であった。
 茶室はどんな美術館・博物館あるいは公園でも、普段好きに入れないものが大多数なので、そこに入れるのはうらやましいなぁ。便殿(貴賓室)の話はいい具合にオチてて面白い(笑)。建築には全然詳しくないのだが、建物自体にもいろんな見どころがあるとわかって楽しみが増えた。しかも展示替えが2週に1回って、そんな頻繁に行われているとは知らなかった。やっぱりこれくらいの盛りだくさん施設は繰り返し行ってこそだなぁ。って、そんな頻繁に東京に行けるわけじゃないけど(笑)

 あと、山口氏が言われるように、常設をたまに観に行って、空いてるのが嬉しくなるのはすごくよくわかる(笑)。西洋美術館や近代美術館も企画展ついでに行くとそんな感じなので、けっこう繰り返し行ってしまうし。これからはもっと遠慮なくソファを活用しよう(笑)。

「誘拐」(著:本田 靖春)

2016-06-27 23:02:07 | 【書物】1点集中型
 武田砂鉄「紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす」で、ノンフィクションの名作として紹介されていたので興味を持って。1963年の「吉展ちゃん誘拐殺人事件」と言われる幼児誘拐殺人について書かれたものである。

 吉展ちゃんの足取りがわからなくなったとみられる公園にその日いた人々の様子から始まり、事件前の犯人・小原保の動きが描かれる。そして、唐突に誘拐の通報が割って入る。私自身もともと犯人が小原であるという知識を持たずに読み始めたので「ということはこの人が犯人なんだな」とは思ったものの、この段階でこれらの描写の相関をはっきり認識していたわけではない。しかし、要求を伝える犯人からの電話での詳細な会話の様子が繰り返し描写され、身代金の受け渡しと犯人とすれ違ってしまったらしい捜査陣の動きが緻密に再現されるにつれ、事件は緊迫度を増していく。そのただなかに、読んでいるこちらが放り込まれたようになる。
 その後は、やはり明確に小原を犯人と名指しはしないまま、その小原の半生と事件前後の様子が赤裸々に語られる。恵まれなかった家庭や体に負った障害が、昭和30年代の空気と相まって暗い翳りを感じさせる。

 そしてそんな小原を追う捜査陣にもさまざまな様子がある。当初、捜査陣は小原を挙げるに挙げきれず、ほとんど迷宮入りのような状態になってしまっていた。その事件をあらためて打開する平塚八兵衛という刑事の、執念の塊のような捜査が際立つ。明確な物証をなかなか確保できない中、アリバイを崩すための捜査を根気よく、丹念に捜査し直す姿には目を見張るばかり。さらに、そうして確実なものにした「アリバイなし」を小原に突き付けたときの様子。淡々と描かれているようで、なのに臨場感がある。
 最終章は逮捕後から刑に処されるまでの小原の様子である。罪を認めてからというもの、小原の態度は一変する。被害者の冥福を祈りながら、やがて来る刑を受け容れ、その傍らで自らの心を清め、鎮めるかのように熱心に短歌を学ぶ。判決理由自体は納得できるものであるが、それとはまったく別の次元で、小原の悔恨の姿をこのように見せられて心動かされない者はいないだろうと思う。小原が参加した「土偶短歌会」の主催者・森川氏が、小原の死後に出版したという小原の作品集に寄せた言葉は罪と量刑、あるいは死刑制度の在り方にまで、今この本を読むこちらに自問自答させるものでもあった。

 公に「犯罪者」となったが故に小原の心が「浄化された」のだとしたら、罪を犯す前にその善良さに立ち戻ることができるきっかけがなかったのかと悔やまれる。またその一方、誰でも小原のような立場になりうるのではないかとも思わされる。彼と同じ境遇にあったとしたら、自分は果たして彼と違う選択ができるだろうかと考える。「きわめて不幸なかたちで人生を終わった二人の冥福を」祈る著者の心持ちは、人間が人間であるために必要なものでもあるのではないだろうかと思う。

「スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪」(編:ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム /訳:有澤 真庭)

2016-06-24 00:33:37 | 【書物】1点集中型
 本当は映画に興味があったんだけれども、例によって結局観そびれた(どうにも映画館から足が遠いのである)ので本だけでもと読んでみた。
 映画はこの「スポットライト」という記事コーナーを担当する記者チームの活動そのものを描いているそうだが、一方でこの本はそのチームの人々がそうして発表した記事と新たなルポルタージュを1冊にまとめたもの。と、読んで気づいたので、やっぱり映画も観たかった。そしたら自分の理解にも相乗効果が生まれただろうと思う。いっそ、この本(をできれば文庫にして)と映画のソフトをセットにして売ってくれたらいいのになぁと思ったくらい(笑)。

 ボストン・グローブ紙の「スポットライト」が暴き出したのは「ニューイングランド地方きっての権力組織であるボストン司教区の中核で起きたスキャンダル」、つまり「聖職者による性的虐待とその継続を古した組織ぐるみの隠蔽」である。それがまさに、この本の原題「BETRAYAL」の通り、教会が信徒たちに為した「裏切り」なのだ。
 発端は、1人の司祭が30年間にわたって信徒の少年たちに虐待を繰り返していたことを、教会がどの程度把握していたのかを調べ始めたことだったという。それが、調査を進めるうちに問題は当該の司祭だけのことではなく、教会が数多の事例を和解の名のもとに隠蔽し続けていること、また裁判になった事例でもその記録が秘密保持扱いとなっていることなどが見えてくる。

 それらを記事という形にするまでの苦闘については、この本にはほとんど触れられてはいない(そこが映画になっているのであろう)が、これだけの被害者の声を集めるだけでも相当な困難があっただろうことは容易に想像できるし、教会に踏み込んでいくことはそれ以上の激闘になったことだろうと思う。
 司教は虐待の事実を把握しながら、被害者たちに口封じのための和解を強要し、さらに「犯人」である聖職者を別の教区にたらい回しにすることで被害を拡大させた。人々にとって教会とは、聖職者とは、信徒にとっては神の代理人として自分を導いてくれる存在であり、侵すべからざる存在である。被害に遭った子どもたちには、親に虐待のことを告げても信じてもらえないかもしれないと考えてしまったり、あるいは「(聖職者が悪いのではなく)自分にその原因があるのではないか」と思い悩んだりする人も少なくなかった。それだけ宗教が人々の生活や文化に深く入り込んでいることが普通なのだと、この本を読んであらためて実感した。日本のように一般的には宗教とそれほどに深い関わりを持たない国にいると、そんな状況は想像もつかないことだ。

 読めば読むほど、宗教に法や常識が通用しない前時代的な状態がこれほどまかり通っていたとは……と、暗澹たる思いがする。西洋文化における教会の存在の絶大さを、究極にマイナスの結果から示された感じだ。しかも、こうした事件は今だって完璧に根絶したわけではないのである。
 もちろん、聖職者とはいえ人間であるから、普通に考えればどんなことも起こり得る。教職者や警察関係者が罪を犯すのと、その意味では本質的は同じであろうと思う。しかしそれにしても事件の数が桁違いだし、その蔓延ぶりと隠蔽体質は想像を遥かに超えていた。それをこうして隠蔽し続けていた教会の体制は、極端なことを言えばスターリン時代のソ連の体制と変わらないのではないか。

 ようやく、罪を犯した司祭をたらい回しにすることはされなくなってきたようだ。ただ、そうした罪における独身主義の弊害を指摘する声は大きい。しかし「主と教会へ自身を完璧な捧げ物とする独身主義」ということは、教義に基づく考え方考え方としては理解できる(って私は信者ではないんだけれども)。結局は、罪そのものは個人に帰するものではあるけれども、司教をはじめとして聖職者を統べる立場にある組織幹部が、そもそも教えを人々に伝える者として教会がどうあるべきかを今一度考え直さなければ、信徒たちへの対応は変わっていかないのだろう。
 「神の名の下に受けた裏切り」は、信徒たちの心を殺し、回り回って教会とその根本にあるはずの教えの価値そのものを殺すのである。

「スキャナーに生きがいはない」(著:コードウェイナー・スミス/訳:伊藤 典夫、浅倉 久志)

2016-06-17 21:19:27 | 【書物】1点集中型
 確か宮田珠己氏がこの本についてつぶやいてたのを見たのがきっかけだったような気がする。1950~60年代の作家だそうだ。内容に入るためのウォーミングアップとして序文と、例によってなんとなく解説から目を通してみる。序文には「中国、日本、ドイツ、フランスで育ち、軍人、外交官となり、極東情勢の権威として尊敬を集めた」「心理戦争の権威として認められることになった」というその歩みが紹介され、さらに解説には「宇宙の恐怖に猫とともに立ち向かい、金星の空から無数の人々が降ってきて、ネズミの脳に刷り込まれた幻影が美少女を救い」とか書かれてある。まあそれだけで充分にぶっ飛んでいるのであろうことが伝わって来ようというものである。

 ということで本編についてであるが、スターリン時代のソ連と西暦にして134世紀の〈汎銀河舞踊フェスティバル〉が交錯する巻頭作「夢幻世界へ」で、科学者の見るこの世のものとは思われない世界にいきなり面食らう。「第81Q戦争(改稿版)」は本物の宇宙で本物の艦を駆使する「ゲーム」。ルール設定なんかが細かくて、発想としてはありそうでディテールとしてはなかった話かもなぁと思いながら、けっこうエンタメ的に楽しんだ。
 「マーク・エルフ」以降は作家が設定している物語世界〈人類補完機構〉をさまざまな年代と角度から表現していて、「人間狩猟機(メンシェンイェーガー)」「スキャナー」「ヘイバーマン」「ピンライティング」などなどのオリジナリティあふれるギミックが登場する。補完機構の中にあるスキャナーの宗教のような儀礼にむしろSFっぽさが感じられるのが個人的には面白い。
 「星の海に魂の帆をかけた女」はヘレン・アメリカの人生の冒険物語としても面白いし、宇宙船乗りの世界の苦難と壮大さが描かれる中で、ヘレンとグレイ=ノー=モアとの語り合いが妙にすんなり胸に入ってくる感じで気に入っている。「青をこころに、一、二と数えよ」はまさに解説で言っていたところの「ネズミ」がキーで、種明かしがなったときにはああなるほどこれか! と膝を打ったものであった。

 「ガスタブルの惑星より」は大人の童話というか、ちょっとしたブラックジョークのよう。普通に笑ってしまった(笑)。「人びとが降った日」も雰囲気的には近いかも。こちらは笑いが出るタイプではないけど。
 あとはやっぱり猫(笑)。つまるところ「鼠と竜のゲーム」であるが、生きるパートナーとしての猫への愛が満載だなーというのが率直なところである。心理的にとても従順なのが猫というより犬をイメージさせるのだが、人間の視点としては犬派も猫派も変わらないんだろうという気がする。って、SFの話じゃなくなってるが、(人間と猫の)テレパシーによる「平面航法」なんて、なんか大真面目に遊んでるような、書いてて楽しいに違いないと思われる。

 通して読んでみて、個人的にはなんといってもやっぱりこの独特の物語世界が楽しかった。実写化できたら面白いものになりそうなんだけどなー。あと2冊刊行が控えているそうなので、ぜひ読破して〈人類補完機構〉のさらなる広がりを堪能したいところである。

「数学の大統一に挑む」(著:エドワード・フレンケル/訳:青木 薫)

2016-06-07 22:46:30 | 【書物】1点集中型
 NHK(Eテレ)の「数学ミステリー白熱教室」でこの件をやっていたことを放送後に知って、見たかったな~と思って本を探した……んだったと思う。確か。数学は全く分からないのだが、数学や物理学の基礎研究に関するドキュメンタリー的なものにはとても興味があるので、つい読むことにしてしまった。原題は「Love and Math - The Heart of Hidden Reality」だそうだが、「大統一」というと物理学におけるいわゆる万物理論、大統一理論を連想するので、なにかしらそういうような話なのだなと見当がつけやすい邦題だと思う。

 で、この本で言うところの「大統一」に関わるのは「ラングランズ・プログラム」という、筆者曰く「多くの人たちが数学における大統一理論とみなしている」理論である。これは「代数、幾何学、数論、解析という、大きくかけ離れて見える数学の領域のあいだに、さらには量子物理学の世界にまで」橋をかけわたすことができるつながりがあるだろうという予想なのだそうだ。となると、さらに万物理論(が成立したら)ともつながっていく可能性もあるのではないか、と想像するとなんだかものすごく壮大な話でわくわくする。
 筆者はユダヤ系ロシア人である。数学者になるべくモスクワ大学へ進学を希望するが、反ユダヤ主義まっただ中の80年代のソ連で体制から退けられる。そして当時そういった学生の受け皿として機能していた石油ガス・モスクワ研究所(通称ケロシンカ)に進む。そこで学ぶ傍ら、モスクワ大学の授業に潜り込み、また熱意ある学生たちに対して学びや研究を授けてくれる教授たち0もに巡り会う。その中で筆者はラングランズ・プログラムに出会うのである。

 筆者自身の人生の軌跡と、その時々に関わる数学の理論の2本の柱で語られるような構成になっているのだが、数学の部分は個人的にはやっぱりかなり難しくて(笑)そっちはぶっちゃけ全然理解できていない。ただ、数学者になりたい、数学を究めたいという一心で壁を一つ一つ越えていく様子は、数学理論抜きでも十分にドラマチックだ。ソ連の体制の中でそれでも筆者を支えてきた両親の愛情と、数学者として成長させることになる師たちの心遣いも素晴らしいものだと思う。理論として収束していく数学、数学が実学に及ぼせる効果(医療プロジェクトへの貢献)が見出されていくこと、どちらも数学のエレガントさや美しさそのものだと思う。
 「これほど深くエレガントで、しかも誰にでも手に入れられるものは、この宇宙の中で数学のほかにない」――まさに至言である。そう考えると、筆者が「愛の方程式」を題材にした創作活動を行ったというのも、一見飛躍しているようでいて、筆者の中にある「愛」を表すという意味では、数学を研究することと根本的な違いはないんだろうと思う。

 数学は発明ではなく発見である、と言われるそうだ。確かに、数学の導き出す真理とは新しく生み出されるものではなくて、そこにそういう理論があるということが証明されることによって「見出される」ものである(その意味では物理学も)。真理は太古の昔からそこにあり、未来永劫そこにあり続ける。そうして存在し続ける真理には、まだ見出されていないものも残されているはずである。研究者たちは、それを知ることができる数学の可能性に直接触れられる力を持っている。それがとても羨ましい。