タイトルそのまんま。あのアウシュヴィッツに収容されたユダヤ人心理学者になる著書です。
邦題「夜と霧」は
「非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裡に捕縛して強制収容所におくり、その安否や居所を家族親戚にも知らせないとするもので、後にはさらにこれが家族の集団責任という原則に拡大され、政治犯容疑者は家族ぐるみ一夜にして消え失せた」(本文「解説」より)という「夜と霧」命令からきているとのこと。
ページをめくると、のっけから「解説」。何故冒頭に解説? と思いつつ読んでいくと、そこには収容所のおぞましい実態がいっそ淡々と、延々と延べられています(解説の内容は、「第二次大戦後イギリス占領軍の戦犯裁判法廷の法律顧問であったラッセル卿の記述」によるもの)。
現代にもいろんな事件やフィクションでの表現などもあるわけなので、そういう意味では自分の意識がすれているから、最初はまだいいんだけど、あまりにも延々と続いていくので、しまいには本当ににこんなことをした人間がいたのか、どういう精神状態ならこういうことができるのか、月並みですがそんな思いにとらわれて吐き気がしそうな気分にもなったものでした。
で、そろそろ本格的に喉もとに何かがせり上がるような気がしかけたころ、いよいよフランクル氏のなした本文が始まりました。ただし氏の意図としては、
「そしてこの叙述は、あの身の毛のよだつ戦慄――それはすでに多くの人によって描かれている――を述べるのを目的とせず、むしろ囚人の多くの細やかな苦悩を、換言すれば、強制収容所において、日々の生活が平均的な囚人の心にどんなに反映したか、という問題を取扱うのである。」(「一 プロローグ」より)
……というもので、それまでに比べれば平常心で読み勧められる内容ではあります。なんか、暗い穴の奥へ奥へ向かって、そろそろ引き返したくなってきた時にいきなり明るいところに放り出されたような感じ。
ただ、前段にあの「解説」があったからこそ、氏の置かれていた状況がより理解できたと思うし、それを理解することによって、その環境で生きていくために氏や他の人々が自らの心をどう守ったか、あるいは志半ばに力尽きていったのかがよりはっきり伝わってくる気がします。解放されたあとも人々の心に深く残された爪あとも心理学的見地から書かれてあり、その忌まわしい記憶が人々にその後ももたらすものを考えると、やはり「重さ」を感じるのも事実です。
ただ人はどうにかして乗り越えることもできるし、人間は
「その境界は入りまじっているのであり、一方が天使で他方は悪魔であると説明するようなことはできない」存在なのだと、まさに乗り越えてきた氏が述べたからこそ、そんな当たり前と思われる言葉にも重みが感じられるようになるのだと思います。
そして最後が「写真と図版」。これも簡単なキャプションとともに淡々と並んでいるだけです。だからこそ雄弁な現実。ちょっと正視に耐えない写真もあります。それがもう「ここまでこの本を読めば、見りゃわかるでしょ」と言わんばかりで、彼ら彼女らが失ったものと乗り越えたものの大きさを改めて思うのでした。
理屈抜きで、二度とこんなことがあってはならないと思う。二度と起こさないためには、誰もがそれを認識する、本当はそれだけで充分なはずなんでしょうけど。
読み終えて、「収容所(ラーゲリ)からの手紙」(著:辺見じゅん)を思い出して、また読み返したくなりました。これはアウシュヴィッツではなくシベリア抑留の話ではありますが、想像を絶する過酷な環境を生き抜いた人々の姿を描いた名著です。少なくとも私にとっては。