life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(著:フィリップ・K・ディック/訳:浅倉 久志)

2011-05-26 23:40:27 | 【書物】1点集中型
 映画に疎い私は、かの有名な「ブレードランナー」ももちろん見てない。でも原作自体がとても有名なものなのでいつかは読まないと、と思っていたその「いつか」がやっと来た。相当遅い。

 舞台となる世界の、放射能による死の灰の降り積もる荒涼とした風景がやけに真実味を帯びて感じられる今日このごろ。
 次々に絶滅していく動物たちの代わりに、精巧な人工の動物がつくられ、それが主流になる。さらに、人間型ロボット――いわゆるアンドロイド――を召し使うことも当たり前になった時代、逆に人工でない自然の生き物を所有することが社会的地位の高さを現すようになる。そして、逃げ出したアンドロイドを狩る人間がいる。
 ただ、それら人工の生命体は、人工でない生命体となんら変わりのない生活を送ることができる。だとしたら人間は、何をもって自己を人間と言い切れるのか? アンドロイドと己を分けるものは一体何なのか? 「心」って何だ。「感情移入」って何だ。その問いの答えは、たとえばイジドアの「ピンボケ」であるがゆえの純粋さが、悶々とするリックよりもずっと鮮明に見せてくれているのかもしれない。

 自分自身、最近はこの手の作品ばっかり読んでる気がするのだが(笑)、自然の生命(人であり、動物であり、虫であり)と、アンドロイドや電気羊のような模造された生命体を対応させることによって「人間とは?」という問いを浮かび上がらせることができるのは、SFというジャンルならではだと思う。
 とはいえ、人間とアンドロイド、どちらがどちらかわからなくなるような(たとえばリックが最終的にレイチェルと関係をもってしまうこともそうだ)曖昧な部分も大きくとってあるところが、考えさせられるところ。だけどリックの、「レイチェル・ローゼンが、入れかわり立ちかわり出てくるだけ」という言葉も、アンドロイドという「人工物」を指す言葉としては確かな真実でもあるのだ。曖昧かと思えば突き放すように両者を分ける定義のようなもの。ただ、それは決して後味がいいだけのものではない。だから却って、消化しきれずに余韻が残るくらいでちょうどいいのかもしれない。その分、もう少し読み込みたくなるしね。(笑)

円山「Buono Buono」のチーズケーキ

2011-05-26 22:30:37 | 【日常】些事雑感
 ……を、仕事でお世話になってる方からいただいた♪ パッケージがかわいい!
 よく、おいしいものを紹介してくださるのだが、いただいてばかりで全然お礼できてない(汗)。

 ゴルゴンゾーラのチーズケーキということで、ばっちりベイクドタイプ。味もずっしり濃厚。ゴルゴンゾーラだからか、普通のチーズケーキとちょっと違って塩気が強く、まさにチーズそのもの! って感じ。なので、デザートとしてよりもむしろ酒の肴に向いているかも。私はアルコールはたしなみませんが、ワインによく合いそう。
 そもそもがゴルゴンゾーラだから、その時点で好みがあると思う(私自身は、ゴルゴンゾーラの香りはともかく味は好き)し、甘いのが好きな人だとこの予想外の甘くなさに好き嫌いは分かれるかな? でも逆にゴルゴンゾーラだと思うと納得の味だし、これはこれでおいしい。個性的で、ちょっとクセになる味だなー。そういうとこがけっこう気に入りました♪ ご馳走さまでした。

「祈りの海」(著:グレッグ・イーガン/訳:山岸 真)

2011-05-25 23:48:08 | 【書物】1点集中型
 「ディアスポラ」でその設定を飲み込むのに四苦八苦して、頭がお粥になりそうだったので(笑)かなり構えて臨んだイーガン作品。今回は短編集であり、それぞれの舞台もわりと飲み込みやすかった。特にSFで宗教を描く「祈りの海」(原題「Oceanic」。邦題がまた美しい!)の切り口には脱帽。SFなのは確かなんだけど、「海」や「宗教」がモチーフになっているので、未来でありながらもちょっと中世的? なイメージもある。

 精神だけ、他人の体を渡り歩きながら生き続け、ついにもとの自分の体をみつけた存在。
 人間の生殖細胞からつくられる、4歳になると死ぬことになっている、人間によく似た存在。
 人間の頭の中にあり、脳をコピーし続け、バックアップとなる「宝石」。
 生まれてくる子どものジェンダーをコントロールすることで、いわゆるGLTBといったマイノリティの「発生」を防ぐことができる「繭」。
 未来から、過去の自分に伝えることのできる日記。
 細胞レベルに至るまでの体のマップ「スキャン・ファイル」から生まれる、自分の「コピー」。

 この本におさめられている題材はこれらだけではないけど、どれもこれも間違いなくSFのネタ。でも作品として描かれている近未来的な世界は、あくまで二義的なものだと思う。本題は、人間が人間として存在するためのアイデンティティはどこにあるのかということ。
 アシモフにしても伊藤計劃にしてもそうだけど、SFという手法を使って「人間とは何ものか」を追求しているような作風が、個人的にはとても好みだと再確認した。なので、やっぱりもっとイーガンを読もうと思った。

「宇宙からの帰還」(著:立花 隆)

2011-05-16 23:49:32 | 【書物】1点集中型

 もう30年近く前の本。ただ、ここに語られる世界は、自分にはそれをおそらく生涯経験する可能性がなさそうな世界。だからどれだけ時間が経とうとも、「地球の外」に身をおいた人々の言葉は、きっといつ読んでも新鮮に感じられるだろうと思う。

 宇宙飛行士が地球を出て何を感じたか。そして地球に戻ったのちどんな人生を歩んでいるか。端的に言えば宇宙飛行士も単なる「職業」であって、しかもセカンドキャリアを考える必要のある仕事でもある。そのセカンドキャリアに、宇宙で受けたスピリチュアルな影響をそのまま持ち込んだ人もいれば、そうでない人もいる。逆に、精神的な影響を受けなかった(受ける暇もなかった)という人もいる。
 文字通り国境のない「地球」をその眼で捉えたことにより、「地球人」である自分を意識する。「宇宙人への進化」とはつまりそういう部分を指しているのだろう。そして、「神」や「宗教」について自己の中で消化し直す、というところの話がとても興味深かった。

「どの宗教も、宇宙から見ると、ローカルな宗教なのだ。(中略)宇宙から見ると、それがほんとの普遍的精神的指導者、指導原理であるなら、そんなに地域地域でバラバラのはずがないと思えてくる。(略)
科学はさまざまの法則を発見したと称する。しかし、なぜその法則が成立するのかについては説明できない。なぜ宇宙は存在するのか。科学は答えられない。(中略)こういった問いに何一つ科学は答えられない。科学にできることは、ただものごとをよりよく定義することだけといってよいのではないか。科学の根本的限界はここにある。(中略)科学では答えられない、わからないものがいくらでもあるからこそ、宗教の存立の余地がある」

(「宇宙人への進化」第2章 エド・ギブソンの言葉より)

「宇宙体験は私の信仰を一層強めてくれた。正確にいえば、強めたというよりは、広げてくれたというほうがいいかもしれない。それ以前は私の振興内容はファンダメンタリストのそれで偏狭だったが、宇宙体験以降は伝統的教義にあまりこだわらないようになった。はっきりいえば、他の宗教の神も認めるという立場だ。アラーもブッダも、同じ神を別の目が見たときにつけられた名前にすぎないと思う」
(「宇宙人への進化」第2章 ジェリー・カーの言葉より)

 欧米では、日本に比べて宗教と生活がとても密着しているので、そういう人々がこのように感じたということがわかると、とりあえず今何がしかの争いをしている国々(の人々)は一度まとめて宇宙から地球を見て来たらいいのではないか、とか思ったりする。そしたらもう争いなんてばかばかしくてやってられなくなるのではないかと。
 古くは地動説と教会の対立から、宗教(神)と科学は相容れない部分がどうしても生じてくるものだった(と思う)。けれど、だからといってどちらかを否定する必要はない。神とはもっとグローバルなものであっていいはずだし、科学は万能ではない。誤解を招く言い方かもしれないが、簡単に言えば、教義の整合性を求めることなんてどうでもいいのだ。それがあるかないかを決めるのは、その人個人の心でしかないのだから。

 たとえば、神が身近な存在ではない私自身なら、宇宙という全き闇の中で地球を眼下に見た時にどう感じるか。それを知ってみたいという願望に駆られる本でもあった。


昨日、給湯ボイラーが故障したので

2011-05-16 23:25:05 | 【日常】些事雑感

 急遽、風呂入りに小金湯に行ってきた。ちょっと遠いけど、久しぶりの温泉だったし、混みすぎるほどでもなかったのでまあまあよかったかも。軽く露天風呂にも入ってみたし←気分だけ(笑)

 で、今日は仕事が19時までに片づけば、ず――っと昔にもらった招待券があるのでジャスマックでも行っちゃおうかなーと思ってたんだけど、終わらなかった……。露天風呂が意外と長居しやすかった記憶があるので、どうせ行くならゆっくりしたいし、顔がすぐゆでだこになっちゃうタイプなので(笑)湯冷ましにも時間がかかるし、そう考えると1時間半は使いたい。ので、21時前に現地を出ようとすると、駅からちょっと歩くからどうしても19時前に職場を出たいところである。
 よく調べたら今、通常2,625円のところが1,500円らしい。ただ風呂入るだけなら1,500円でも充分無駄遣いなんだけど(笑)、割引されているとなると招待券ももったいなくて使えない。どーしよーもなく貧乏性な感じだが、1,500円ならまあ払ってもいいか? いいのか? と、のせられた気になりつつ、久しぶりに1回行っておきたい気もしている。

 そんなわけで結局今日は外で風呂入るのを断念したので、帰ってきてからカレー鍋2つとその2倍サイズの我が家最大の鍋1つを用意し、

  1. 食事の間にカレー鍋2つにお湯を沸かして、
  2. お湯が沸いたら、大きい鍋を風呂場に持ち込みたらい代わりにして、カレー鍋1つ分のお湯を投入。それをシャワーの水で薄めて適温に。沸かしたお湯の入ったもう1つのカレー鍋もそのまま風呂場に置いておく。
  3. 空いた方のカレー鍋でもう1回お湯を沸かしておいて、
  4. 薄めたお湯で体と顔を洗う。体を洗うときはちょっと、お湯の量をがまん(笑)。その途中でほぼお湯がなくなるので、もう1つのカレー鍋のお湯を注ぎ足して、また水で薄めて、たらい2杯めの適温のお湯を作る。
  5. 2回目に沸かした3杯めの鍋を風呂に持ち込んでおき、
  6. たらい2杯めのお湯を大事に使いながら(笑)頭を洗う。当然、途中で使い切ってしまうので、3杯めのお湯を注ぎ足しつつ、
  7. そのお湯がなくなる前に、頭をすすぎ終えられるようにがんばる!

 ……てな具合でやってみると、意外とちゃんと全身を洗い終えることができた! 助かった。ばかばかしくも涙ぐましい(???)努力であるが、3杯めのお湯を注ぎ足す時点ですでにすすぎに入っていることが大事。髪の長い人だともう1杯分はお湯が要ると思う。お湯につかれないから体が冷えるのが心配だったけど、最初に沸騰したお湯の入った鍋を風呂場に持ち込むので、それをものの2、3分もほっといたら風呂場も意外に簡単にあったまったぐらいにして。
 って、大真面目にこんな話すると本当にばかばかしいようなのだが(笑)。ただ急に真面目な話をすると、被災地のお風呂とかはさらに大変なんだろうから、少ないお湯でもやろうと思えばできるんだなぁということに気づいただけよかったのかも。

 まあとりあえず鍋だけでもなんとかなることがわかったから、必ずしも外の風呂に行く必要はないということで安心はしたが、早いとこボイラーが直ってくれるに越したことはない(笑)。現在のところまだ、いつ直るかわからないもので……。


「プラハの春(上)(下)」(著:春江 一也)

2011-05-13 00:29:18 | 【書物】1点集中型

 (発刊当時の話として)現役外務官僚の手になる「事実を素材にしたフィクション」という点に興味を持って読んでみた。こういうお話を読むと、自分の住む国や政治についてもっと真剣に勉強して考えるべきじゃないか? と反省させられてしまう…….

 どのへんまでが著者自身の体験に含まれるのかはわからないけど、独裁的共産主義から本来理想とする自由ある社会主義へ脱皮しようとするチェコスロバキア激動の時代を見つめた日本の青年が感じた、自国内での学生運動との差異はおそらく紛れもない現実であったと思う。自由を阻む権力という暴力と、勝ち取ろうとする民衆の意思の高まりと、歴史の必然。上巻からは当然、結末はまだ見えないけれど、「愛することは耐えること」と言い続ける、シュテンツェル先生の言葉が心に残る。
 そして下巻、「ミレナ」の言葉によってさらに高められた自由化の気運と、ドゥプチェクとチェコスロバキア人民の想いも虚しく、それに脅威を感じたソ連の圧倒的な暴力の前に「プラハの春」は崩れ去った。カテリーナが凶弾に倒れ、ヤンが非業の死を遂げた。
 物語の幕切れが予想に反してあっさりで、エピローグに至っては事実を述べたのみという雰囲気。もっとメロドラマ(という言い方もどうかと思うが)的な泣かせのエピローグがあるのかと思ったらそうでもなかったので、カテリーナを失った亮介がどう心の折り合いをつけたのか、ヤンの葬儀からだけでは窺い知ることはできない。そういう意味では、最後の最後で恋愛もののイメージが消えた感じ。個人的には恋愛ものに興味があって読んだわけではないので全く構わないんだけど。ただ逆に、書かれていない分「その先はどうなったのか?」的な思いもちょっと残るので(笑)、「ベルリンの秋」を読んでみるのもいいかも。

 イデオロギーが悪なのではなく、その理想を捻じ曲げた権力こそが悪なのだ。シュテンツェルやカテリーナが語ったように、「権力なき政治は機能しない」が、「権力は本質的に悪」なのであり、それをいつも自らの中に戒めとして持つ者だけが、政治を司るべきなのだろうと思う。
 物語自体は過去のものだが、その中で語られることの本質としては、現在にも未来にも語り継がれるべきことがある。そう考えると、人間の営みなんて千年の昔から本質は変わっちゃいないのだ。哀しいことに。

 自らの手で自由を掴み取ろうとした人々の魂が、ブルタバの流れとともに安らかであらんことを祈る。そしてブルタバの流れが、彼らのめざした自由へとたどり着かんことを。


「年刊日本SF傑作選 超弦領域」(編:大森 望・日下 三蔵)

2011-05-01 22:15:37 | 【書物】1点集中型
 表題の通り、国内SFのアンソロジー。の、2008年度版ということらしい。本当は順番通りに2007年版「虚構機関」から読みたかったんだけど、なんでか図書館に入ってない(泣)。

 ライトノベルっぽいノリの「アキバ忍法帖」はちょっと苦手だけれども(笑)、おおむね楽しめた。出だしの法月綸太郎氏「ノックス・マシン」でがっちり惹き付けられて、王道な雰囲気のある(個人的に、すんなりSFとして受け止められる作品という意味で)「エイミーの敗北」「ONE PIECES」「時空争奪」と続き、中ほどには「あれっ、小説じゃないのね」とか「どのへんがSFか?」みたいな毛色の変わったものがずらりと並ぶ。でもこれがSFであろうがなかろうが意外と面白い。最相葉月氏は星新一氏関連のノンフィクションで名高いので興味を持っていたが、もっといろいろ読んでみたらさらに星作品も面白く読めそう。
 「すべてはマグロのためだった」はいかにもモーニングっぽい雰囲気かも。なんとなく。←なんとなくって。でもこれお話としてはとても好きです。SFという以前に、なんか作者のこの作品に懸ける熱意が主人公に投影されてる感じがして。士郎正宗氏とクラークを心底敬愛しているというのも、親近感が持てるというか……。

 で、最後に小川一水氏・円城塔氏・伊藤計劃氏と3連発。これは効きます(笑)。伊藤氏以外は初めて読んだけど、円城作品は一度読んでみたいなーと思っていた。宇宙の起源を知ろうとする人の営みにかかわる「数」。無限と無。確かに著者の言うとおり、「そういうこともあるのだろう」、そういう可能性もあるのだろうという捉え方ができる感じがした。それこそ、「何故かと真顔で問われても困る」んだけど(笑)。雰囲気はすごく好きだなぁ。
 小川作品「青い星までとんでいけ」がクラーク・トリビュートとして書かれたのも、そう言われて読んでみるとよくわかる。下位機械たちの近代的すぎる(笑)台詞回しは個人的には苦手だけども、エクスの負うものや一段上にある「オーバーロード」の存在感とか、さりげなくクラークをなぞる雰囲気は嫌いじゃない。
 オーラスの伊藤作品「From the Nothing, With Love」はもう鉄板かな。「ハーモニー」に通底する「何をもって生命となすか」というテーマは、伊藤計劃という命そのものが最後まで紡ぎ続けていたものだけに、相変わらずずっしり来る。

 読み終えて思うのは、SFという舞台装置の中でどれだけ人の心の動きを描き出しているか、結局そのあたりが自分自身が面白さを感じるかどうかの分水嶺なんじゃないかということ。SF以外のジャンルでもそういう傾向が当然あるので、このへんは私にとっては不変な基準だろうと思う。それでいて特にSFというジャンルを好んで読むというのは、宇宙という途轍もない空間に感じる憧憬みたいなものの表れかもしれない。
 それと、各作品前の編者の言葉を読んでみて考えるに、けっこうイーガンにハマれそうな気がしてきた(笑)ので、また読んでみようと思う。クラークは言わずもがな。っていうかクラークはすでにかなり好きなんだけど。