life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「ゴルディアスの結び目」(著:小松 左京)

2012-05-30 23:11:31 | 【書物】1点集中型
 「マインド・イーター」の衝撃を忘れないうちに。ということで、水見氏があとがきにて引き合いに出されていたこの作品で、小松左京初読み。

 全体的には、SFだけどちょっとホラーみたいな雰囲気。SFと言って言えなくもないけど……くらいの印象の「岬にて」から始まりながら、表題作「ゴルディアスの結び目」ではオカルティシズムも漂ってくる。で、「すぺるむ・さぴえんすの冒険」にはクラークっぽいイメージも(個人的には、だけど)想起されて、最後はいっそ壮大な宇宙論ですらあるだろう「あなろぐ・らう゛」。
 1作1作を読んでいくうちに、正体の知れない深淵、あるいはそれこそ宇宙をどこへともなく彷徨っているような気分になる。まったき闇に吸い込まれても、存在の証としての記憶は受け継がれ、宇宙は巡っていく。生物が母なる海から生まれ、海へと還る存在であるならば、宇宙という海を産み落とすのもまた「母」である。そんなふうに、「すぺるむ・さぴえんすの冒険」と「あなろぐ・らう゛」はどこかで繋がっている感じ。

 作家の頭の中、思索の宇宙。この連作は、読めば読むほど小松氏の中にある宇宙に対する捉え方を、余すところなく見せてもらっているように感じられる。だから氏自身の「メモ」という言葉にも納得。
 その言葉の迸りが結ぶ像を脳裏に描けば、果てしない海に沈むように抱きとめられて漂うような不思議な感覚が訪れ、読後に何とも言えない余韻を残す。おそらくそれこそが、小松氏の言った「旅」なのだ。

「相対性理論から100年でわかったこと」(著:佐藤 勝彦)

2012-05-28 22:05:27 | 【書物】1点集中型
 相対性理論と量子論の復習から、その先にある素粒子論と宇宙論へ。物理学の発展

 今回気づかされた大きな点は、二大理論と称される相対性理論と量子論は、実はまだ統合されていないこと。「シュレディンガーの猫」の意味を、(私自身が)わかっているようで実は全然わかっていなかったことに気づいたこと(笑)。シュレディンガーは、猫の生きている状態と死んでいる状態が重なっているのである言ったわけではなく、そんな状態が重なるのはおかしいだろうと言うためにこの問題を提起したのだった……(相当な勢いで「何を今さら」な話。すいません)。
 ……なんだけど、量子論の核になると言われているのはやっぱりシュレディンガー方程式だったりする。だから思い込んじゃったんだよね、量子論のイメージを表しているのが「猫」なんだと……なかなか一筋縄ではいかない。(笑)

 そんな状態で第7章まで進んで「やはり素粒子論は難しいと思います」とのお言葉があった日には、「専門家から見ても相当難しいんだな、よかった~何度同じような本を読んでもきっちり理解できてないけどこれでも大丈夫なんだ~」と安心させてもらったぐらいにして(笑)。それにしても、何度この手の本を読んでもクォークの種類をちゃんと覚えられなくて悲しい。←それは、難しい以前の問題である。

 さわりしか知らなかったブレーン宇宙論のバリエーションに驚きつつ、面白いなぁと単純に思ったりしたけど、でも物理学は、科学はそれだけじゃ駄目なんだということにもあらためて気づかされた。生物がここにあるのは、宇宙が生物を持つようにデザインされたから――と、いわゆる人間原理であらゆる物理的現象の証明を完結させられるのなら、究極のところでは最初から科学研究の必要性がなくなってしまう。ぱっと見、(誤解を招く言い方かも知れないが)ちょっと宗教がかった感じもする。
 初期宇宙で「対称性の自発的な破れ」があったことで素粒子が質量をもち、相転移からやがてビッグバンを起こすに至ったという流れを知ると、読んだばかりの「マインド・イーター」の中に生命の生命たる所以を「対称ではない」というところに落とし込んでいた作品(もちろん、実際は直接関係ない可能性も高いけど)があったなぁと思い出したりもした。

 例によって、この1冊を読んだからと言って誰かに説明できるほどきっちり飲み込めては全然いない(笑)。でも巻末で佐藤先生は、「物理学者はみなさんを代表して研究している、みなさんが興味をもつことを、みなさんと連携して研究している」と言ってくださっている。これからもそのお言葉通り、自然科学や物理学の面白さと意義を啓蒙するこのような本を、私のような文系人間にも(笑)どんどん読ませていただきたいと思う。

「陰翳礼讃」(著:谷崎 潤一郎)

2012-05-26 23:11:18 | 【書物】1点集中型
 読もう読もうと思っていて、長らく手をつけていなかった本のひとつ(そんなんばっかり)。

 日本人にとっての陰翳とは。その視点で谷崎が語りかつ表現する陰翳の数々は、想像するだに艶かしく、そしてまた日本間がよく似合う。ぶっちゃけ、「そこまで入れ込むか~」と突っ込みたくなるときもあるほどものすごい力説というか、陰翳への愛情なのだが(笑)ちょうど時代の分かれ目にいたからこそ見えていたのだろう考察で、なるほどと思えたのは事実だ。
 蝋燭や行灯の薄暗い明かりだけで見る部屋の中と、電気の明かりで煌々と照らされる部屋の中の印象の違い。であれば、たとえば西洋画はもっと明るい展示室で見てもいいんじゃないかな~という気はする(って、そこそこ明るい展示室もないことはないけど)。

 この「陰翳礼賛」に、「懶惰の説」(谷崎曰く、本当はりっしんべんに「頼」だそうだが辞書で出てこなかった……)や「恋愛及び色情」が加わって、谷崎文学の耽美で退廃的な雰囲気の源泉に少し触れられたような気がする。下世話な言い方をすれば、いわゆるチラリズムが人の心をそそる色気を感じさせる所以を述べているようにも思うし、「『女』と『夜』は今も昔も附き物である」という言葉からは、やっぱり陰翳との切手も切れないつながりが見えてくる。
 しかし「厠のいろいろ」にはちょっと笑ってしまった。丁子とか汽車のトイレとか、これ、笑っていいところだよね?(笑)

「名もなき毒」(著:宮部 みゆき)

2012-05-21 20:51:59 | 【書物】1点集中型
 相当な昔だが、初めて読んだ宮部作品は「龍は眠る」。これが気に入っていて、その後「レベル7」「クロスファイア」「火車」あたりを読んだのだが、個人的には「面白いけど、『龍は眠る』ほどあとを引く感じではないな」という印象で、それからしばらく宮部作品には手をつけてなかった。
 今回は、「人の心の陥穽」という言葉と、「吉川英治文学賞」に惹かれて読んだとも言える(吉川英治好きなので)。久しぶりに読んでみるとやっぱり読みやすいし、さすがにストーリーテリングが上手で面白かった。

 人の心が持つ毒、人が作り出した現実の脅威としての毒。毒が毒を呼び、連鎖のように悲劇が起こる。いくつもの毒が幾重にも流れ続け、人々はそれに抗う術を知らない。世の中にはこれほどまでにも「毒」と呼べるものが多いのかと、暗澹とさせられる。
 特に、原田いずみとの話の噛み合わなさは象徴的だ。同じ人間同士のはずなのに、どうやっても話が通じない。同じ人間だからこそ、その噛み合わなさと彼女の発する毒が相まって、気味が悪い以上に空恐ろしいものを感じる。さらに、「思い通りにならないから怒る」という彼女の言動の原点に思いをいたせば、自らの裡に潜む何がしかのもやもやに行き当たらずにはいられない。
 でも主人公がそうだからだと思うけど、これが宮部氏のカラーなのか、基本的には俯瞰している視点が優しい。普通であることこそが立派なのだと言う北見氏の言葉は、病んだ者にはひとつの救いでもあるかもしれないし、美知香の外立青年への感情のぶつけ方も健気だし。だから、毒のある世界を泳ぐ人々、時にそこに沈みかかる人々を描きつつも、救いはなくはない。ほっとする感じはこれはこれで良いなと思うので、そういう気分がほしいときに他の杉村シリーズも読んでみようかなと思う。

「時計じかけのオレンジ」(著:アントニィ・バージェス/訳:乾 信一郎)

2012-05-18 19:20:04 | 【書物】1点集中型
 映画は見てないけど、広義では「2001年宇宙の旅」つながりで読んでみた。

 第1章では「全体主義が支配する」部分はそれほど強く出てこなくて、とにかくアレックスと仲間たちの超暴力の大写し。ここまで暴力ばかり扱って何になるんだといい加減胸が悪くなってきたところの第2章で、ついにアレックスは仲間の裏切りによって刑務所に放り込まれる。
 で、刑務所でもさらに仲間の裏切りに遭ったところで、出所と引き換えに妙な実験のようなものを受けさせられることに。それが実は、「教化矯正」のための洗脳(それとは知らず)であった。

 娑婆でのアレックスの悪行からして、洗脳によって犯罪の意思を抱くと耐え難い苦痛が彼を襲うようになったことには一瞬、因果応報的な爽快感さえ覚える。が、だからこそその後の第3章で、「選択をする能力がない」が故にアレックスに起こるできごとの恐ろしさがじわじわ効いてくる。
 裏切りは繰り返され、暴力を受けていた者が暴力を行う側に取って代わる。そして社会は「善だけしかすることのできない小さな機械」となったアレックスを、広告塔に利用しようとさえする。

 それには、政府の非人道的な全体主義を糾弾するためという建前がある。しかしアレックスの目を通すことで、それに関わる人々の善良さよりも権力志向のイメージの方が浮き彫りにされる。滑稽であるが、恐ろしい。「自由のためのいけにえ」という言葉は、その象徴だ。
 「正す」ことは本当にそれだけで正しいのか? 「正しく」さえあれば許されるのか? じゃあ、「正しい」って何なのだ。そう自問するに至ってようやく、「全体主義」が急に実体化して見えてくるように思える。

 そして最後にアレックスに訪れた変化は、何を示唆しているのだろう。もしかしたら無限ループ? なんて、単純にもちょっと思ってしまうが、それこそ世界は機械じかけのオレンジだ。
 ああ、つまり、アレックスが迎えた結末が「正しさ」のひとつであるということか。

「マインド・イーター [完全版]」(著:水見 稜)

2012-05-15 19:59:15 | 【書物】1点集中型
 表紙の雰囲気と、裏表紙に載ってたあらすじというか設定が気に入ったので読んでみた。この文章からすると、なんかすごいおどろおどろしく壮絶な戦いが繰り広げられるかに見えるのだが、実際に読んでみるとバトル満載という感じではほとんどない。でも、M・Eことマインド・イーターに侵された者を待つものが、それぞれに凄惨だったり不気味だったりすることは事実だ。

 読後感を一言で言えば、単純に「面白い」としか言いようがない。それも、あんまりおおっぴらに話の筋には触れたくない(笑)ような面白さである。なんだろう、事件の解決(たとえて言えば、人類とM・Eの全面戦争が始まって終わる、みたいな)を問題にした作品ではなくて、その舞台装置の中で、読者がそれぞれに自然と考えさせられる感じ。
 極端なことを言えば、筋はこの際どうでもいいのだ。そこに何が展開されるかだ。でも、面白い。印象に残る。もう1回読み返したいと感じさせられる。

 それにしても、30年近くも昔に書かれたものとは知らずに読んだのだが、全然古くない。むしろ新鮮ですらある。
 SFは本当に、人間のアイデンティティに踏み込む作品が多いように思うし、そういうところが好きだ。そしてこの「マインド・イーター」シリーズの作品群はそこからさらに、「生物とは」というところまで突き詰めていく。人間という生物と、M・Eという無生物の間を分かちがたく結びつける言語と音楽、それぞれの妙なる調べ。生物が生物である証の動的平衡、そして「生物であることの誇り」。死を前提に生きるということ。
 人間は、いや生物が死して「土に還る」ことと、この連作の結末は、決して偶然ではないと思う。

 時々哲学の境地にすらすんなり入っていけるような気がするのが、私にとってのSFの魅力のひとつなのかも。とか言いつつ恥ずかしながら小松左京氏もまだ読んでいないので、近いうちに「ゴルディアスの結び目」も読もう。

「新装版 続・君について行こう 女房が宇宙を飛んだ」(著:向井 万起男)

2012-05-09 23:23:58 | 【書物】1点集中型
 「君について行こう」上下巻(新装版)を読んでからだいぶ経つが、前作が面白かったので読んでみた。っていうか本当は、そろそろ前作を買おうと思って(前回読んだときは図書館だったから)本屋に行ったら、「宇宙兄弟」がらみでいろいろ面出しされてたので今作が目につき、せっかくだから新しいのを読もうと思って結局、先に今作を買ったという話。

 前作で訓練の様子を知っていたので「私の人生観を決めたのは、固体燃料ロケット・ブースター点火前までで、その後の十五日間はオマケ」という千秋氏の言葉には説得力があった。自分のやりたいことのために真摯に取り組んだ結果だろう。そして重力、これは確かに体験しなければ絶対にわからないことだし、その視点が千秋氏らしい。
 万起男氏の宇宙飛行(士)マニアっぷりもすばらしく(笑)、痒いところに手が届く説明で理解しやすかった。「宇宙飛行士のおしごと入門」的な意味合いもこめて、このシリーズは本当に素人にも楽しくわかりやすく読めてお勧め。もちろん、向井夫婦は当然のことながら、彼らをとりまく人々もそれぞれ一癖もふた癖あってとても魅力的なので、読んでいると勝手に彼らに親しくなった気さえしてくること請け合いである(笑)。

「ゴールデンボーイ 恐怖の四季 春夏編」(著:スティーヴン・キング/訳:浅倉 久志)

2012-05-06 23:09:31 | 【書物】1点集中型
 秋冬編に続く中編集「恐怖の四季」シリーズの2。読んでみると、個人的には秋冬編より印象に残る2作だった。
 常日ごろハヤカワあたりでよくお目にかかり、楽しませていただいている浅倉久志氏の訳するジャンルとしては異色ともいえるキング作品である。そのへんも、私としてはちょっと面白かった。

 順序は前後するが、まず表題作「ゴールデンボーイ」。明るく健康的で優秀な、非の打ちどころのないアメリカ少年(……のイメージを邦題にしたってことなのかな。原題は「Apt Pupil」。「できる生徒」て感じ? これも、読了後改めて見ると言い得て妙だ)と、ナチ高官であった過去をひた隠してアメリカでひっそりと生きる老人の、奇妙な関係。
 少年トッドの好奇心のままに、常に少年が優位に立っていると思われた関係が、トッドが老人ドゥサンダーの踏み込まれたくない部分に傍若無人に踏み込んでいくことで、逆にじわじわと立場が近づき、精神的にはその立場の入れ替わりにさえ到達する。トッドの感じているであろう、嫌な汗のにじむような昏い緊迫感が読む側にもぐいぐい食い込んでくる。
 ドゥサンダーは自ら選んだ死の間際に、それが解放ではなく無限に悪夢の続く地獄を見る。そしてトッドの無邪気はひとつの綻びからあっという間に狂気に昇華する。ふたりが内に抱える恐怖の発現をまざまざと感じて、ああこれがキングの表現する怖さなのかな、と思った。この感覚は秋冬編にはなかった。

 「刑務所のリタ・ヘイワース」は映画「ショーシャンクの空に」の原作だそうだが、映画に疎い私は全然知らずに読み始めていた。←裏表紙に書いてあるのにちゃんと読んでなかったらしい(笑)
 無実の殺人罪で刑務所への収監を余儀なくされ、刑務所内でのあらゆる苛酷なできごとにさらされながら、アンディーは決して自尊心を捨てることがない。殴られても蹴られても、もっとひどい目に遭っても、希望を見失わない。「希望はいいものだ、たぶんなによりもいいものだ。そして、いいものはけっして死なない。」そう自らに言い続けることがどれほどの強さを必要とすることか。

 アンディーの受けた理不尽な仕打ちとその言葉を知らず知らず対比させ、そこに見い出される光を眩しく眺めながら、自分もそうあれればと望む気持ちが起こる。そしてそういう羨望の行く先を、知らず知らずのうちにレッドに託していたように思う。「一日のあいだに起こることが前もってぜんぶわかってる」懐かしい監獄から、自由という名の愛すべき不確実と希望のために踏み出す、最初の一歩を。