life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「いま集合的無意識を、」(著:神林 長平)

2015-09-15 22:46:27 | 【書物】1点集中型
 神林長平は気にはなってはいる者の、代表作シリーズの「戦闘妖精」のネーミングがあんまり好みじゃなくて(なんか字面がラノベっぽく感じてしまって)手は出してなかった。が、これは表紙が気に入ってなんとなく購入。
 伊藤計劃の2作品が好きな者としては、やはり表題作が「なるほどそうも読めるなぁ」という感じで興味深かった。これ、最初はエッセイかと思ったんだけど勘違い(笑)。人間の「意識」と「知性」、それぞれの持つ力に対しての解釈があり、ヒトが作り出すフィクションの持つ力を信じている作家としての矜持が描かれる。だから書き続けるという決意が、それこそ伊藤計劃への鎮魂の言葉なのかもしれない。この世界がどんなきっかけでどうなる可能性を持っているのか、それを探り続けることができるのがSFという手法だという自信が伝わってくるように思った。

 あと個人的には「切り落とし」が良かったなぁ。洋モノか筒井作品にもありそうな雰囲気。いかにもSFらしいギミック(ダイレクト・ジャックイン)を使った、これも人の意識を中心にした物語と言えそう。
 「ぼくの、マシン」で主人公が感じている「マシン」に対する愛着には、なるほどと思うところがある。何故なら、「パーソナルコンピュータ」というものが出現してから、ネットワーク機器としての役割が主になっていく時代の流れは、読者である自分もまざまざと感じていることだから。社会のすべてがネットワーク化されていく原題、人間も常に「つながっている」状態になり、時に振り回されることへの問題も表出している。
 そういう問題自体とは直接関係ある物語ではないけど、単純に「自分だけのもの」と言えるモノが、ネットワークという世界の中で少しずつ減っていくことが、もしかしたら世界を均一化し、平坦にし、それこそ「ハーモニー」の世界さえ垣間見えるようにもなるのではないか。そんな未来も想像してしまう。

 細かい話をすると、文体は若干年代を感じるかな。でも意外とそういう文体も嫌いじゃなかったりもする。題材が古臭いというわけではないし。巻末解説も、神林作品のどんなところに注目すれば面白くなるかがわかりやすかった。おかげで興味は高まってきたので、他の作品もちまちまと読んでみようと思う。

「ほとんど無害」(著:ダグラス・アダムス/訳:安原 和見)

2015-09-14 23:17:03 | 【書物】1点集中型
 えええええ――……。
 いや、確かに全部収束させてくれたけど。でもさ。ほんとに今までのあのノリのこのシリーズがこんな終わり方でいいのか?? 同じ結末でも笑える画で終わってくれたら少しは落ち着くんだけどなぁ。

 ……というのが、読後の正直な感想である。あんなにラブラブだったフェンチャーチとはあっさりはぐれちゃってる状態での始まりになるし、アーサーの幸せって本当に短い。「まるでわたしの人生みたい。ほんとのことは一度もやってない」なんて言ってしまうトリシアはあのトリリアンとは思えない(実際違うんだけど)。「ガイド」社は買収されて、フォードは幸福絶頂の防犯ロボットであるコリンを従えて、なにやらB級アクションヒーロー状態になっている。
 まあ、このフォードの状況は、ある意味このシリーズっぽいといえばそうなんだが。「サンドイッチ作り」になってるアーサーも……一応、設定的には。でも打ち解けない(生物学上の)娘ランダムとの関係はなんだか見ててちょっと悲しくなってしまうし、第一トリリアンと一緒のはずのゼイフォードの存在はなんでうっちゃられてるんだとか思っちゃうし。

 訳者あとがきにあったように、ストーリーの完成度は確かに高いと思うのだ。時間的逆行工作という全体のタネ明かしは見事だし、スタヴロミュラ・ベータの謎は思いもしない形で明かされたし。おまけに最後の最後で黒幕(?)だったヴォゴン人は、あの存在はただのギャグじゃなかったのかと思わず感心してしまった。話そのものは面白いんだ、ちゃんと。単に終わり方が今までのノリに比べて寂しいというだけで。でもアダムスが4作目で終わるつもりだったのは、この5作目を読んだ今、なんとなくわかる気がする。
 シリーズ終了となった今、前作からゼイフォードが最後まで不在だったのが心残り。つまりゼイフォードには「失われた青春の夢」などないということか。それはそれで納得できなくはないが、落ち着いちゃってるゼイフォードなんぞ納得いかん(笑)。まだこの完結を自分の中でうまく消化させられてない気がするし、BBCがくっつけてくれたというラジオドラマの結末が聴きたくなっちゃう。なので、これはやっぱり「新」を読むしかないかなぁ。

「神の棘(I)(II)」(著:須賀 しのぶ)

2015-09-13 21:42:43 | 【書物】1点集中型
 本屋で文庫を見かけて、題材が気になったので図書館で単行本(しかなかった)を借りてみた。←買えよ
 互いに、幼いころは想像もしなかった人生を歩むナチSDのアルベルトと、修道士マティアス。アルベルトはかつてはひ弱で仲間内でも目立たたない存在だったのに対し、マティアスはかつて子どもたちの中で「将軍」であり、傲慢であり弱い者を見下す「皇帝」だった。2人は、社会的には罪とされる同性愛者であり修道士であったアルベルトの兄テオの死によって、再び相まみえることになる。ドイツの、果ては全ヨーロッパを支配せんがために突き進むナチスと、ユダヤ人を含む信徒である人々を守るべき教会の人間という、まるで逆転した力関係のもとにある者同士として。

 ナチといえばユダヤ人迫害のことしか知らず、当時の教会との関係に関しては全く知識がなかったので、題材そのものがとても興味深い物語。アルベルトはナチの考え方そのものというよりは、兄やマティアスへの憎悪こそが自身を職務に駆り立てているように見える。だからこそ根が深い。
 マティアスはマティアスで、家族を失った痛みをいつしか信仰に昇華させ、だからこそ自分欺き罪のない師や信徒たちを冷酷に追い込む「死神」となったアルベルトへの復讐心と信仰の間で葛藤する。

 冷酷さばかりが目立つアルベルトも、極秘計画≪E計画(エー・アクツィオン)≫に関わり、その実情を知るに至って人間的な嫌悪をのぞかせるようになる。家庭では、蜜月だった妻が女優業に精を出すようになるにつれ、結婚生活が破綻していくのをただ眺めている。それでも妻を愛している気持ちだけは変わっていないという自覚がある。なのに、アルベルトを待っていたのは妻への反政府組織加担の容疑と、それをアルベルト自身が手引きしたという容疑。その先に待っているのは自白の強要のための拷問だった。
 それはあっという間の転落である。ナチスであれ末期のソ連であれ「北」であれ中国共産党であれ、全体主義社会の行き着くところは同じだと感じる。「事実」はそこにあるから「事実」なのではなく、誰かが決めたことが「事実」になり、その事実を構築するための別の「事実」が作られていく。それを社会が行う。そしてその社会を構成するのは人間たちだ。それも始末に負えないことに、誰よりも強く信じるものを持った人間と、それを信じる人間たち。

 アルベルトのように最初はただ社会を新しくしたいと時流に乗っただけのつもりが、気づけば残虐の坂を転げ落ちていたという人もいたのだろうなとは思う。だからといってその非道が肯定されるわけではないけれども。
 後半に入ってアルベルトは前線に赴き親友を喪い、マティアスもまた、司祭の道を進む途中で衛生兵として戦場にある。2人の関係は変わらないが会話を交わす機会が増えることによって、マティアスがアルベルトの今を少しずつ認識していくようになる過程が見える。

 それにしても、なんでこの物語がハヤカワミステリなのかなぁと思っていたのだけども、終章でその理由がわかった。謎解き要素を全く感じないままで読んでいたので、そういう収拾のつけ方をするか、というところではあったが。
 神を信じる者が、神を棄てた者が何に拠って立つのか。どちらも自らを貫き通すためにそれぞれの戦い方で戦っていたことは言うまでもなく、であるが故にアルベルトは死にゆく部下の魂を救おうとした。自分は神を信じていなくても、守りたいものはある。それが神ではなくても、そのためにこそアルベルトは生きたのである。そのアルベルトの姿と、信仰があるが故のマティアスの苦悩との対比が、人間にとっての神のありようを考えさせられる。

 しかしだ。初版だけなのかもしれないけど、誤植があまりに多くてちょっと萎えた。変換間違いや脱字くらいはご愛敬だが、主人公2人の取り違えなんてあり得ない事態が一度ならず二度までもあったのはさすがに酷すぎる。ここにマティアスいたっけ? ここにアルベルトいたっけ?? っていきなり惑わされたら、せっかくの物語の腰を折られる感じがして仕方なかったし。だから文庫はハヤカワから出なかったのか?

「逆境を笑え 野球小僧の壁に立ち向かう方法」(著:川 宗則)

2015-09-04 22:58:12 | 【書物】1点集中型
 その昔どっかで「今注目の若手!」みたいに紹介されていたのを見て、別に全く鷹ファンではないが当時はパ・リーグはかり観ていたもんで「お、ちょっと好みっぽい内野手が出てきた」と気にし始めて早10年余り。
 WBCを機にイチローマニアの本性が全国区で明らかになり(笑)、FAするにあたってその底なしのイチローラヴっぷりがそれまでにも増して全開どころか爆発するに至り、海を渡って追っかけた挙句、気づけばトロントで1軍にいる時間の割に(←大きなお世話だ)ファンに愛されまくるようになっていた。そんなむねりん(個人的には平仮名で書きたいので書く)の自伝である。

 「グローブが届かなかった」という、いきなりの躓きで始まったマイナーリーグ生活。いつものまんま話し言葉で書かれているが、躓きで始まっても、体が精神的なその失調を現しても、彼には「いつも光が見えている」。その光は、「この先目指す方向を指す」ものだ。いきなりこう言い切られたらもう、わかっていたけど本当に眩しい奴だと(笑)あらためて冒頭から思わされちゃうわけである。
 バックアップ、いわゆるサブの選手として最も大事なのは怪我をしないこと。これは確かにその通りで、なんだけど見落としがちなところでもある。いつ出場機会が回ってくるかわからない、だからそのワンチャンスからレギュラー選手にあわよくば取って代わるためにプレイを磨くことにばかり目がいってしまうが、その機会をつかむ前に失うようなことにならないようにすることの方が、実は先なのだ。

 アメリカと日本とのプレイの違いの話で個人的に興味深かったのは、何といっても守備の違い。日本とは投手の投げ方が違うから打者の打ち方も違い、打球の回転も違って細かいイレギュラーが多くなる上に、その処理にも対応しつつ天然芝だから打球へのチャージもかけないといけないんだそうで。おまけに日本よりもボールが滑る。すると、「捕りながら投げる」という当たり前のような一連の動作を、「捕って」「投げる」ときちんと一つ一つやっていく必要が生じる。……のだが、だからってもたついていいというわけでは当然なく、「捕りながら投げる」と同様のスピードで行う必要がこれも当然あるわけである。
 それと併殺機会での走・守の攻防。スライディングをできるだけきれいにさせないように、野手は投げやすいオーバーだけじゃなくアンダーで投げて走者を全速力で突っ込みにくくする。併殺崩しのクロスプレイで野手が削られることが多く、それが日本人内野手がアメリカで苦労してきた一因でもあるそうだ。日本より激しいプレイになる傾向があるということだろう。
 なんとなれば、突っ込んでくる走者がベースじゃなくて野手に向かってくる感じなんだそうで。だから日本ならベースにまっすぐ突っ込む走者に接触しないように単にベースから離れておけばすむところを、アメリカはベースに遠かろうが近かろうが走者はどのみち自分(野手)に向かって突っ込んでくるので、だったらベースを盾にして突っ込みにくくするために野手はベースに張りつく状態になったりするんだそうだ。
 そういう体の使い方が違うということなんだそうで、こうやって解説してもらうと、観ていてときどき唖然とさせられる異次元のごときグラブトスやらキャッチ&スローにも納得がいく。単純に上手いのだ。どんな体勢からでも、どんな投げ方でも常に安定した守備を見せることができるわけだから。

  ……で、この話を読んで、日本から行くと野手は外野より内野の方がアジャストするのに苦労しそうだなぁと思った次第である。あと、長い間活躍し続けるためにより神経を使いそうだなと。あくまで単純にボディコンタクトの話だけで言えばだけど、外野手だと基本的に守備のときに攻撃側とコンタクトすることがまずないので、極端な話、接触ではフェンスとどううまく突き合うかに注力すればいいから、ある程度は自分一人で解決できる部分もあるのではないかと思うので。もちろんだから外野が大変じゃないわけではないけどね。

 自分がドラフトにかかることなんて本当に全く考えていなくて、大学を出てプロテストを受けて合格することを目標にしていたのに、いきなり指名されて、なんにもわからないままプロの世界に飛び込んでみたら、2軍にすら自分より下手な選手は一人もいない。周りができることが、自分には何ひとつできない。これは相当なダメージだと思う。だって自分の存在価値がまるで感じられなくなってしまうということだから。
 しかし、高卒4位指名なんて育ててもらえるような立場じゃないと思っていたところが……ある意味天然である。誰か言ってやってくれよ(涙)とも思うわけだが、逆にそれで一気にどん底を見たのが、何も考えずに練習だけやる余裕のなさが、土台になったのかもしれない。練習では打てないし飛ばないけど、なぜか試合になったら結果が出る。練習でダメでも、試合で萎縮することがなかったということなのかも。そういえば、ブルペンエースって言葉があるくらいだから。川はその逆だったということだ。

 「やせ我慢が大事」
 それでいいとか悪いとかじゃなくて、生活できるだけの給料はあるんだから、「自分のやりたいことをやることのほうが大事」
 たとえば所属がなくて「ひとりで妄想しながら練習するのと、」劣悪な環境と言われるマイナーリーグでも「たくさんの選手が集まって練習するのと、どっちがいいのかって話」
 「大切なのは前に出ること」。前に出てミスをしても、うまくいっても、「人生の成功でもなければ、失敗でもない」
 「自分を前向きに見せるようにコントロールする術を身につけただけ」で、本当の自分は「後ろ向き」

 本当はやせ我慢だから本心では矢面に立ちたいわけではないし、だから強がっているだけだけど、でも「強がって生きていく」のが自分だと、川は言う。口に出さない自分の本心を本当にわかってくれる人なんてそうそういなくて当たり前、だから上辺だけでも褒めてもらえたら頑張れるのだと。
 きっと基本的にはとても素直なんだろうし、自分を持っているけど他人の言うことに耳を傾ける力はちゃんと持っているんだろうなと思うわけである。

 実は一人でいるのが好き。実は妄想が好き。実はあの開けっぴろげな感じも「強がり」。表に出てくる行動から受ける印象と、その行動を支えている考え方や思いには、やはり外野からは伺い知ることのできないギャップがあったのだなといちいち納得した。
 ぶっちゃけ「プラス思考だけでなんて、人生、やってられん」。後ろ向きだし、怖いと思うことももちろんある。でも彼は、それでもとにかく「前に出る」ことを実行する。それこそが、彼の底力なんだと思う。だって、怖がって前に出ることができない人間がどれだけいることか。

 体がさほど大きくないし線も細い(自分と同じような体の)イチローにあれだけのことができるなら、自分にもできるかも。できるはず。いや、できる。川の思い込みと妄想力は、そのまま意志という力となる。
 今も川はメジャーとマイナーを行き来する不安定な存在だ。チームが好調なので、シーズン終盤のロースター枠拡大のタイミングで昇格してきたが、もちろん立場はサブ。今のところ、ゲームの大勢が決まってからレギュラー選手の消耗を防ぐための交代要員で出場するという形である。でも相変わらず前のめりに突っ込んでいく姿勢は変わらないし、言葉がさほど通じなくてもファンにもやっぱり愛されている。たとえそれが上辺だけのものでも、川はそれを自分の力にすることができる。そんな川のプレイを来年も見続けることができたらいいなと思う。できればMLBで。その環境の方が、きっともっと面白い選手になってくれると思う。

「さようなら、いままで魚をありがとう」(著:ダグラス・アダムス/訳:安原 和見)

2015-09-03 22:55:58 | 【書物】1点集中型
 シリーズ中の懐かしの一言がタイトルになっているシリーズ第4作。前作の最後に出てきたワウバッガーには全く触れられていない(笑)。ということはつまりあれはただのオチだった、ということで……。

 それはそうと今作は、帯で念を押されたがこともあろうにラヴストーリーである。まあ、アーサーはなかなか恵まれない主人公なので(笑)それもよかろうと想いながら読んでみた。何故か元通りに残っている地球に戻ってきたアーサーは唐突に一目惚れ、しかもその相手があのヴォゴン人の襲撃をなんとなく記憶しているとくれば、夢中にならない方が無理というものか。
 今回も、(本人は知らないが)雨の神マッケナ、「正気のウォンコ」といったわけのわからないネタな人々が登場。とは言っても基本的にごくごく普通の地球に見える……のだが、この地球からはイルカが消えている。それはあのヴォゴン人が来襲したはずの日以降の話だという。それを覚えているせいかどうかわからないけども、アーサーと彼の運命の相手フェンチャーチは空を飛べてしまうのだった。クリキット星を出ても空が飛べるのか。っていうかここは結局元の地球ではないのか、とかなんとか考えながら、2人のラブラブっぷりを見せつけられる話になるわけだが(笑)、興味ない人は最終章を読もう、マーヴィンも出てくるから面白いよ、とか言っちゃう著者。著者自身が照れてるんじゃないかという語りである。まあ、トリリアンの件とかメラの件とかは確かに、適当に書かれて適当にほっとかれているような気がしないでもないわけだが(笑)
 ところでビスケット争奪戦はオチで思わず笑ってしまった。しかも実話かよ、と(笑)

 でも、なぜ地球がここにあるのか、そこになぜイルカがいないのか、といったことは「並行世界」というぼんやりした種明かしがある。前作の時間旅行ネタといい、わりとしっかりした話が表に出てきてるのがシリーズ後半の特徴かもしれない。

 ところでフォードは「銀河ヒッチハイク・ガイド」の記者らしいところを見せつつも、何か1人で時報と格闘していた。で、終盤突然アーサーのいる地球に空飛ぶ円盤で(密航で)戻ってきて世界中を震撼させたかと思えば、自分一人はさっさとアーサーの家にやってきて相変わらず噛み合わない話を機関銃のようにまくし立ててくれる。で、結局はアーサーとフェンチャーチを連れて嵐のように出立していく。なんか、フォードって最初はここまで暴走タイプでもなかった気もするんだけどなーと思うのだがそこはそれ、あのゼイフォードの血縁であるし、ゼイフォードが出てこない分余計暴走キャラになってしまうのかな。それがいいんだけど(笑)
 そしてゼイフォードがいないのに、マーヴィンは最後の最後で登場。前作でプラークが臨終間際に語った「被造物への神の最後のメッセージ」を見に来たアーサーたちと鉢合わせ。何やら満身創痍なのに、相変わらず存在感を発揮してる。ていうか、プラークが語ってるときに場所が全然覚えられてなかったのによく辿り着いたなぁ(笑)。でもなんでマーヴィンがこんなところで力尽きてしまうのか。そこがちょっとショック。マーヴィンなのにあんまり笑いどころがなかったので……。エピローグはもしかしたらその埋め合わせなのだろうか。

 今回も相変わらず訳者あとがきが親切である。今作がラヴストーリーになってしまったのは著者の私事が絡んでいるところが大きいという話で、よっぽど夢見心地の恋愛だったのだろうなぁと思う次第である(笑)。最終的に結婚もされたようで喜ばしい話ではあるが。
 なので、このシリーズとしては何か毛色の違う話にはなっているのだけど、一応つながってるエピソードもあるから、いいのかなと。馬鹿馬鹿しさはあんまり変わらないし(笑)。これを最後の5作目でどういう大団円に持っていくのか、全く予想がつかないところがまたバカSFの面白さである。