life goes on slowly

或る大阪近鉄バファローズファンの
偏愛と放浪の記録

「虐殺器官」(著:伊藤 計劃)

2010-06-27 23:37:58 | 【書物】1点集中型
 これもまぁ……ジャケ買いです。←ジャケ買いばっかり
 なんかSFづいてますが(と言っても、まともに読んでいるSFは「2001年宇宙の旅」くらいだったりして)文庫版が目を惹いて、借りてみたら新書でした。(図書館にはまだ文庫がなかった)

 感覚と切り離された知覚、つまり「痛い」ことを「知っている」だけで「痛み」を「感じない」戦闘し続けるゾンビのような兵士たちの姿であったり、「環境追従迷彩」という名のカモフラージュであったり、近代のゲームやSFアニメの世界を彷彿とさせる(「環境追従迷彩」は特に、光学迷彩@攻殻機動隊をつい想像しちゃいますね~)ディテールが満載で、親しみやすいというかわかりやすい部分はあります。その中で、ちょっと異様な「人工筋肉」を用いた各種の機器なんてものもあったり。そういう世界観は、個人的にはけっこう好きです。なんか新鮮な感じがします。

 後進諸国で増加する内戦や虐殺の引き金を引く「器官」とは何か。

 その答えは、具体的に「何をどうすればどうなる」という形ではなく、抽象的な「手法」として(たぶん)述べられています。(作中の)学者であり「犯人」とも言えるジョン・ポールの理論を借りてではあるけれど。イメージとしてはサブリミナルに近いような感じかな?
 ただ結局のところ、問題はタネ明かしや犯人探しではなく、なぜその「器官」を用いてこの虐殺を起こす必要があったかという、その動機です。

「わたしは考えたんだ。彼らの憎しみがこちらに向けられる前に、彼ら同士で憎みあってもらおうと。彼らが我々を殺そうと考える前に、彼らの内輪で殺しあってもらおうと。そうすることで、彼らと我々の世界は切り離される。殺し憎みあう世界と、平和な世界に」
(「虐殺器官」本文より)

 自分たちの手の届くところにある「平和」は、何によってもたらされているのか。それを知ることになったとき、主人公クラヴィスに起きた変化。そして、空虚の果てになお広がった空虚。それが、クラヴィスに罪を償うための罪をもたらした。それは、「虐殺の王」ジョン・ポールが最後に遺した「虐殺の文法」であったのかもしれません。

 物語では「戦争」や「戦場」を扱ってはいますが、戦闘シーンの生々しさよりもむしろ全体的にすごく……へんな言い方ですが、落ち着いた知性の漂うような文体です。クラヴィスというキャラクター自体がそうなのかもしれないけど。
 とはいえクラヴィスもただ健康なだけの人間とは言いがたく、彼の裡にあるもの、その迷いや懐疑が常に他者――母親であり、自殺した同僚であり、相棒であり、愛した女性であり、「世界」であり――に触れることで表現されているように思います。久しぶりに、読みながらキャラクターに入り込める作品でした。舞台はSFだけど、結局は「人間」が描かれている。そういう意味ではなんとなく、合田雄一郎@高村薫作品とか、如月行@「亡国のイージス」とか(笑)のキャラクターに感じたものに近い感覚がありましたね。
 あと、カフカやらオーウェルやらのネタが出てきてみたりするのも、ちょっと面白かった(と言うのも変だけど)。特にオーウェルは読んだばっかりだったのでわかりやすかったというか、タイムリーでした(笑)。

 惜しむらくは、著者が昨年既に亡くなられているということです(確か文庫の帯にもそのようなことが書かれていたような)。この先どんな世界を見せてくれるのか、楽しみな作家さんと言って良かったんだけどなぁ……本当に残念です。
 個人的にはとても余韻の残った作品で、読み返したい気持ちは強いです。いずれ文庫を買っておきたいなと思います。←表紙は文庫の方が好き(笑)

「一九八四年[新訳版]」(著:ジョージ・オーウェル/訳:高橋 和久)

2010-06-25 02:09:24 | 【書物】1点集中型
 ジャケ買いです。いや、買ったんじゃなく借りて読んだんだけど。

 裏表紙の粗筋内の、「近未来」という言葉で無条件にSFを想起してしまう自分の単純な思考回路に呆れますが(笑)、当然SFとはちょっと違いました。ただ、全体主義的社会そのものが、自分にとっては一種SF的な世界でもある気がします。自分がこれまでも、これからも、生きる世界ではありえない(であろう)という意味で。
 ちなみに、解説(トマス・ピンチョン氏)がやたら長いです。でもそのおかげでオーウェルという作家の時代背景が理解できて、内容にも納得しました。納得というのも変な感じですが。

 物語の舞台「オセアニア」で「真理省」の名のもとに行われる歴史の改竄、それも遠い昔のものからたった今起こったことに至るまで。
 言われるところの「二重思考」は、個人の思考としては単なる「矛盾」に置き換えることもできる場合もあるし、個人のうちにある分には問題ないことも多いのだろうけども、それがひとつの社会を覆ったらこうなる、という世界が描かれているのだと思います。

 その人間のすべてを否定し苦しめることで、思考の出口がひとつしかなくなる、それを自ら選ばざるを得なくなるように仕向ける。その手並みの鮮やかさは、以前「宿命 『よど号』亡命者たちの秘密工作」(著:高沢皓司)で読んだ北朝鮮の「主体思想」、「唯一の選択をあくまで『主体(チュチェ)的』に選びとらせる」の「学習」と俄に結びついて、ぞっとすると同時に奇妙に腑に落ちたものでした。
 「一九八四年」で描かれる「二重思考」も、読めば読むほどよど号ハイジャック犯=「チュチェの戦士」の行動に良く似ている。結局、オーウェルが書いた世界はただのフィクションではあり得なかったのだと、つまりそのことに納得したんじゃないかと思います。私自身は。

 金日成主義では、事実がどうであったか、ということよりも、事実もこうあるべきだ、こうあらねばならない、ということの方が「真実」なのである。彼女たちは嘘をついていると言う意識を微塵も感じてはいないだろう。なぜなら、実際に経験した事実はどうであれ、それは本来こうであるべき事実の、ちょっとした手違い、間違いに過ぎないからである。その「間違い」を事実として語ることはできない。「事実」は正しく、本来そうであるべきであった姿で語られねばならない。
(「宿命 『よど号』亡命者たちの秘密工作 『結婚作戦の真実』」より)

 ある「事実」がそこにあることを知っているのに、それを否定する別の「真実」を作り上げ、「事実」には目を瞑る。知っているのに、間違っているのはすでにそこにある事実の方であると言い切れる。
 これこそがまさに「二重思考」です。オーウェルが見ていたのは北朝鮮ではなくソビエトなんだろうけれども、これがまさに「オセアニア」の社会とダブってくるわけです。

 物語の全体主義的社会の象徴であるカリスマ的独裁者「ビッグ・ブラザー」を、「やっつけろ」と繰り返し日記に記していた主人公ウィンストンは、「思考犯罪」を犯し、「党」から「治療するため、正気にするため」のありとあらゆる肉体的、精神的な拷問を受けます。本当はその「治療」を受けてウィンストンが変化させられていく過程があまりにも見事なのですが、それを述べるにはだだ長くなりすぎているこの文章(笑)。

「われわれに生殺与奪の権を握られた異端者は、苦痛のあまり悲鳴を上げ、意気阻喪し、卑しむべき姿になり果てる。そしてついはすっかり悔い改め、自分自身から救出され、自発的に這いつくばってまでわれわれの足許にすり寄ってくる。それこそれわれわれの作ろうとしている世界なのだ。(略)しかしその世界を理解するだけで終わりではない。君は最後にはそれを受け容れ、歓迎し、その一部になるのだ」
(「一九八四年[新訳版]」本文より)
 
 そして最終的にウィンストンはそのビッグ・ブラザーを「愛して」物語は終わります。「闘いは終わ」り、ウィンストンが「自分に対して勝利を収めたのだ」と。

 自分という人間に、人間の精神に勝利すること。自分という人間の、人間性を殺すこと。そうすることで肉体が生かされる世界。それを幸福だと信じられる世界。「附録」の「ニュースピークの諸原理」にあるように、言葉を制限し、その持つ意味削ぎ落とすことによって思考の幅を狭めていくという方法もまた、とても興味深いです。
 人を支配する方法は、焦らなければいくらでもあるのだという話。いや、この物語の意図はそういうことじゃないと思うんだけど(笑)でもだからどうあるべきかとか、そういう教条的な話では全くないので、この「オセアニア」に何を見るかは読む側次第なのでしょう。私の場合はそれがたまたま、というかある意味当たり前のことかもしれないけども「北朝鮮」を想起させるものだったということ。

 ……結局上手くまとまらないし個人的には結論がないんですけど。(笑)
 愛読している小田嶋隆氏の「日経ビジネスONLINE」連載コラムで、このようなフレーズがありました。

 考えることから逃避する人間は、往々にして、本を読み、ウェブを渡り歩き、ツイッターを流しっ放しにし、結局、延々とリテラル(文字の)な情報に依存している。彼らは、自分のアタマで考えることを怖がっている。だから、一日中他人の考えを読むことで心の平安を得ている。これではダメだ。
 (中略)
 いずれにしても、他人の書いた文字を読んでいる限り、オリジナルな発想は降りてこない。
(「セレブのつぶやきと『裸の王様』」より)

 そうなんですよ。まったくその通りです。
 書かないと考えられなくなります。でも書くのは苦しい。なんぼやってもまとまらない。
 以前は、(blogじゃないにしても)書くの、楽しんでたこともあったのですが最近は本当にめんどくさがっている。これではいかん。頭が回らなくなる。

 というわけで、全っっっ然まとまらないけども、とりあえず手近なリハビリとして、読んだものに関してはなるべく書き留めていこうと思います。じゃないと何読んだか忘れるし。内容も忘れるし。

 ところで先日やっと初めて(今さらすぎ)ジュンク堂に行ってみたのですが、あまりにも整然としてますね。平日昼間だったからかすごい快適な空間……立ち読みがちょっと図書館並みに使えるかも(笑)